『死にたい夜にかぎって』で死にたかったのは誰か?

文=西森路代
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 ドラマ『死にたい夜にかぎって』は、2018年に出版された爪切男によるエッセイ作品を映像化したもので、今年の2月からTBS、MBSで放送され、その後はTSUTAYAプレミアムなどで配信中である。

 2011年4月11日のとある部屋の中からスタートし、過去に遡るこのドラマは、日にちを見てなんとなくわかるように、311の東日本大震災の影がつきまとっている。

 このドラマを観ていて私は今年公開されたアリ・アスターの映画『ミッドサマー』を思い出した。『ミッドサマー』は、不慮の事故で両親を亡くしたダニーと、恋人のクリスチャンや友人たちとスウェーデンに向かうが、「90年に一度の祝祭」に参加する中で、不可解な出来事に遭遇するというホラー映画である。

 ダニーは普段から精神が不安定で、なにかとクリスチャンを頼っていた。家族に何かが起こったのではないかと不安を感じたときなどは、友人たちと飲んでいるクリスチャンに何度も何度も電話をしてしまう。そんなダニーに辟易していたクリスチャンは、友人たちから、関係性を解消すべきではないかと提案されつつも、ダニーを放っておくことができない。

 『死にたい夜にかぎって』では、主人公の小野浩史(賀来賢人)がさしずめクリスチャンで、彼がつきあっている彼女の橋本アスカ(山本舞香)がダニーとでもいえるだろうか。

 浩史はいつでも、ちょっとほかの子と違った女の子に惹かれてしまう。高校時代は放課後、屋上でビンタをされるだけの関係性の美少女や、ヤンキーの女の子に惹かれ、初体験は出会い系で知り合った車いすの年上美女。現在つきあっているアスカは男に唾を売る仕事をしている。彼女が自分に隠れて唾を売っているのをこっそりみて傷つきながら、浩史も風俗店に向かう。

 最初は浩史にとって、単に「よく食べてよく笑う」女の子のはずだった。そんなアスカは、浩史と同棲するうちに徐々に鬱、不安障害と診断される。

 浩史はいつもアスカのためになりたいと思っているのだが、つきあってしばらく経ってくると、その生活に刺激がなくなり、マンネリになってくる。出会ったときのような恋のドキドキもなくなり、職場の部下や、毎朝やってくる新聞配達の女の子に癒しを感じるようになったりもする。

 特に新聞配達の子と浩史は、毎朝の数分間おしゃべりをするだけだ。それは、浩史が風俗嬢に欲望を満たしてもらうシーンとは対照的で、繊細な感情として描かれているから、その感情の使い分けにみていて腹が立ってくる。浩史は、そんな「純粋な」新聞配達の女の子に対する恋心を、ときに自分が働く編集部の男性の仲間たちに面白おかしく話しながらも、アスカを大切にしようとする。

 こういうところが、浩史をクリスチャンに似ていると思った部分である。自分がつきあっている女性に対してもはや興味がないどころか、うんざりしているのに優しくしてしまう。それ自体はまったく悪くはないし、彼女の支えになっていることは間違いない。浩史だって閉所恐怖症であり、父母との関係性にも悩んでいるところがあり、責めることはできない。

 しかし、繊細さがある分、敏感なダニーやアスカのような女性からすると、クリスチャンや浩史の優しさは、「優しくあるための優しさ」であると読み取れてしまう。彼女たちにとって彼らの優しさは、申し訳ない気持ちを抱かせ、たぶん気づかぬうちに、より心がしんどくなっている気がする。それで、どんどん不安定になるということもるのではないか。

 クリスチャンや浩史のような人は、どんなことがあっても自分を受け入れてくれるスポンジのような吸収力を持った人物でもある。こういう人はめちゃめちゃモテる。だって、彼女たちの発した言葉をすべて吸い込んでくれるし、本当につらいときには、黙って抱き寄せてくれるのだから。

 しかし、こういう人が、あまり使いたくない言葉だがそれ以外にないからあえて使わせてもらうと「メンヘラ製造機」と化してしまうことはよくある。特に浩史の場合は、彼自身が自分の幼いころのトラウマを相殺しようと、女の子にエキセントリックさを求めているところがあり、風俗店でもそういうエキセントリックなプレイをリクエストする。それが恋人に対しても目に見えにくい形で表れているように思う。

 以前、『僕の変な彼女』という漫画がネットで話題となった。この漫画のヒロインの女の子は、ごくごく普通の彼氏が自分が不思議ちゃんであるから好きになってくれたと思っているため、ずっと不思議ちゃんであり続けようとしていた。当の彼氏は彼女が本当は不思議ちゃんでないことは知っており、彼女が不思議ちゃんであろうとしていることすらも吸収してしまっている。

 『死にたい夜にかぎって』のアスカは不思議な子ではあるが、アスカ自身が意識して不思議な子になろうとしているわけではないと思う。でも、人の深層心理なんてそうそうわからない。アスカは浩史と出会ったときは、そこまで不思議でもなかったし、鬱でもなかったのだが、浩史と付き合う中でなぜかどんどん精神状態が不安定になっていく。どこかで浩史が求める「アスカ像」を演じてきた部分があったのではないだろうか。

 アスカは、出会ったときから浩史にとっては「よく食べてよく笑う」子だった。鬱、不安神経症になってからも、めちゃめた泣きじゃくったあとのアスカに気を使って笑わせようとする浩史は、彼女が笑ったら独りよがりに安心し、「俺のアスカは泣いてもすぐに笑ってくれる。大丈夫。俺たちはやっていける」と自分に言い聞かせたりしている。

 浩史は決して悪い人間ではない。でも、その恐ろしいほどの吸収力が、彼女の何かを吸い取ってしまう。なぜそんなことが起こるのかというと、お互いに気づいていないながらも、完全に共依存関係にあるからだろう。

 しかし強く依存しあっていると、一方、もしくはどちらもが壊れてしまう。そうならないようにするには、どちらかが関係性を断ち切るしかない。

 『ミッドサマー』では、関係性を断ち切るきっかけが、カルト集団が与えてくれる形式的な”癒し”によるものだから、賛否両論があった。ダニーはクリスチャンとの共依存は断ち切れても、新たな依存先を見つけたにすぎないからだ。それでも、なにかその結末にカタルシスを感じてしまうのは、男女の依存に疲れた経験があったり、現在も疲れている人がいたて、そこから抜け出した経験があったり、抜け出したいと感じているからではないだろうか。

 『死にたい夜にかぎって』では、311をきっかけに生まれた溝がどうにも埋まらなくなり、またアスカは浩史のほかに好きな人ができたことで、関係性を断ち切ることができた。それは本当にあっけなかいものだったのだが、現実にはそんなにあっさりアスカのように断ち切れるものだろうかとも思ってしまった。

 結局『死にたい夜にかぎって』の中で「死にたかった」のは誰だろうか。原作者は男性で、自身の経験をエッセイにしたというし、自分の生きづらさを書いたものだから、きっと「死にたかった」のは彼自身ではあるだろう。ドラマの中で「死にたそう」なアスカは、浩史と別れてから地元に帰ったのかと思いきや、ケロっと東京に戻り、「好きな人」との暮らしを浩史の生活圏で再会していた。だから、浩史から見れば、なんだかんだ言って「女は強い」などと思うのかもしれないし、アスカは「死にたそう」なだけで「死ななかった」人になる。

 私にはなんとなくアスカの気持ちがわかる。「よく食べてよく笑う」「泣いてもすぐに笑ってくれる」と思われていることで、死にたくなることはあるのだということが。いや、だからこそ、そんな「よく笑ってくれる存在であれ」という期待を断ち切り、アスカのようにそこから華麗に距離をおくべきなのだ。

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