キンポウゲが旬なので、水に浸して切り(こうすると長持ちするのです)、家じゅうの花瓶にいけました。お家で過ごす時間が長くなった今だからこそ、これはときめきをもたらしてくれます。
NYT紙とのやりとりで、こんまりこと近藤麻理恵は #stayhome での暮らしをこんな風に語った。
今や世界的な片づけコンサルタントになったこんまりについて、きっとあなたもよく知っているだろう。残すものを「ときめく」かどうかの基準で選ぶ、という「こんまりメソッド」で名を馳せたこんまりは、2015年にはTIME誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれた、「お家で過ごす」ことにかけてのカリスマだ。
断捨離ブームから数年、彼女の影響力は強まり続けている。
彼女の書いた『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)は30カ国以上に翻訳される世界的ベストセラーとなり、彼女に認可された片付けコンサルタントは全世界で400人を超え、“konmari” はレイオフを示す動詞として使われることすらある。
彼女自身、昨年1月からNetflixで「Konmari~人生がときめく片づけの魔法~」というメイクオーバー番組を公開し、11月には自身のウェブサイトに音叉や水晶などの商品を取り扱うオンラインショップも開設した(ことで、「要するにものを捨てて空いたスペースに自分の商品を置けってこと?」とちょっとした騒動を招いた。これについてはまた後で)。
今年に入り、ロックダウンで各種イベントがキャンセルされてからも、LAの自宅から仕事を続ける彼女は、今月10日より『人生がときめく片づけの魔法』をLINEノベルで無料配信するなど、精力的に活動を行っている。私たちの多くが、予期せぬ形で「お家で過ごす」ことを余儀なくされる今、彼女のプレゼンスはますます大きなものになるだろう。
けれどもちろん、「お家で過ごす」ことの意味は社会階層によって違う。
誰かにとってそれはソファで優雅にくつろぎながらミニチュアダックスフントをなでることだったとしても、誰かにとっては収入がなくなり家賃や光熱費の支払いが困難となり文字通り明日生きられるかの不安を抱えることだし、別の誰かにとってはオンライン・ワークの増大によって仕事と仕事以外の境がますますなくなることかもしれない(「リモートワークにより家で働く社畜は『家畜』だ」という趣旨のツイートは数万件RTされた)。
BBCは4月8日の番組で新型コロナウィルスの被害は平等ではなく、低所得者ほどリスクが高いと報道したけれど、同じように「お家で過ごす」ことの持つ意味も平等ではきっとない。
だからここで、こんまりの言う「ときめいた」お家での過ごし方について、もう一度考えてみようと思う。この記事の前半では彼女のオンラインショップ騒動を足掛かりに、彼女の掲げる「ときめき」と新自由主義の関係、特にこんまり哲学における女性のジェンダー役割に目を向けてみたい。後半では、Netflixのメイクオーバー番組「Konmari」を細かく見ながら、私たちが「お家で過ごす」ことを余儀なくされる今、彼女の哲学が持つかもしれない危険性について考えていくつもりだ。
こんまりと「ハッピー」な新自由主義
冒頭にも書いたように、こんまりは昨年11月に自身のウェブサイトに音叉や水晶、食器などのグッズを取り扱うオンラインショップを開設し、ちょっとした騒動を招いた。ものを捨てることで人生をときめかせる、という彼女の哲学と一見矛盾したこうした展開は、けれど実のところそれほどおかしなものでもない。
というのは、ミニマリズムを掲げるこんまりメソッドは消費主義のアンチテーゼなどではなく、むしろ私たち個人個人が「ハッピーである」ようにセルフマネジメントすることを求める、新自由主義の精神と切り離せない関係にあるからだ。
言うまでもないことだけど、こんまり哲学の最大のポイントは、片づけを「ときめき」と、つまり「ハッピーさ」と結びつけたところにある。
「人は誰でも、完璧な片づけを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚えます。そして、『片づけたあと』に人生がドラマチックに変化していくのを実感します」と始まる『人生がときめく片づけの魔法』は、なにかの雑誌広告のように、人生の変化を喜ぶお客様の声を紹介し、彼女の魔法を保証する。いわく、「子どもの頃からの夢に気づき、会社を辞めて、なんと起業しちゃいました」「自分にとって何が必要で何が必要でないかわかるようになって、その結果、ダンナと別れ、スッキリしました」「なぜか3キロやせました」……。
ときめくものだけを身近に置くことで、あなたの人生もときめいたものになる。
こうしたこんまり哲学は、現代の資本主義が私たちに行う、「いつもハッピーでいられるように自分をコントロールしなさい」という呼びかけとひどく良く似ている。現代社会において、ハッピーであることは、いわば私たち一人一人が果たさなければいけない義務なのだ。
2014年、世界金融フォーラム年次総会(ダボス会議)が、ダライ・ラマの通訳としても知られる「世界で一番ハッピーな人」こと仏教僧マチウ・リカールをスピーチに招いたのは象徴的だ。
各国の首脳やビジネスリーダーがリカールの教えを求めたのは、その数年前からの「マインドフルネス」や「ウェルネス」といったリラクゼーション技術のブーム、つまりポジティヴ心理学、認知行動療法、仏教、スピリチュアリズムなどをごちゃ混ぜにした「ポジティヴな心身」への着目の証だと言っていいだろう。リカールに倣った瞑想は翌年以降もダボス会議での慣習になった。
ウェルネスは一大産業となり、2018年の時点で4兆ドルを超える規模にまで拡大した巨大市場に成長した(The Global Wellness Institute (GWI) 調べ)。そしてウェルネス産業にとって、今私たちを取り巻く新型コロナウィルスのパンデミックは言ってみれば危機ではなく商機なのだ。自宅待機を強いられ、心身に不安を抱える今だからこそ「良く生きる」ためのセルフケアが大事なのだ、とうたうウェルネス産業は、とりわけモデルやライフスタイル・アドバイザーのInstagramといったオンライン部門を中心に、ここ数週間かつてないほどの熱気を帯びている。
片づけを通したときめいた人生をうたい、片づけのカリスマとしてセルフ・ブランディングするこんまりは、そもそもの始めからこうした「ハッピー」な現代の資本主義を代表する存在だ。彼女は言う。
モノを捨てつづけることで、判断の責任を人にゆだねなくなるのです。つまり、トラブルが起きたときも、「あのとき、あの人がこういったから……」というふうに原因を外に求めなくなる、ということ。すべては自分の判断で、大事なのは今自分がどう行動するべきか、というふうに考えられるようになります。
そう、こんまりメソッドが約束する自己実現は、トラブルの責任を他者や社会ではなく自分自身に求める、新自由主義的な自己責任論のそれなのだ。
だから水晶などのスピリチュアルな商品を扱う彼女のオンラインショップは、彼女の哲学と矛盾しないどころか、「片づけで空いたスペースに自分の商品を置け」ということですらない(や、まあそういう側面もあるとは思うけど)。片づけによるときめきと自己実現をうたうこんまり哲学は、「常にハッピーな心身でいること」を自らに課し、自分の人生に起きたトラブルを他の誰でもなく自己責任として引き受ける、新自由主義の精神そのものなのだから。
こんまりとポストフェミニズム
こんまりの哲学が、新自由主義の精神が私たちに課す「常にハッピーな自分でいること」と折り重なっていることを考えると、彼女のいう「ときめき」は女性にとって一見したほど解放的なものでないかもしれない。一言で言ってしまうと、こんまり哲学のもとめる「女」のあり方はポストフェミニズムそのものなのだ。
ポストフェミニズムについては何年か前に書いたので詳しい説明は省くけど、ざっくりと言えば、これは男女平等が達成したことにされることで、フェミニズムの要求が女の社会的地位や権利の問題から個人の問題にすり替えられ、経済競争を通じた自己実現をうたう新自由主義に絡めとられてしまうという、現代の女を取り巻く状況だ。
日本でのポストフェミニズムのあり方は、wezzyでも紹介されている、菊地夏野が説明する「女子力」という概念が象徴的だ。菊地は書く。
「女子力」は古いジェンダーの秩序を守りながらも、政治経済の新しいネオリベラルな要請に柔軟に応えること、そのために日々たゆみなく努力することを期待されています。
言い換えれば、家事や子育てといった古い「女らしさ」を発揮することと同時に、その「女らしさ」を生かしながら労働力としても柔軟に力を発揮すること、この両者を求められているということでしょう。
菊地の言うように、「女子力」のポイントは、個人が自ら「鍛え」なければならないものであること、そして古い「女らしさ」と新しい「労働力」としてのあり方を臨機応変に発揮しなければいけないものであることだ。こうした「女子力」は、男女平等はすでに達成された(ことになった)のだから、あなたの抱える問題は女としての社会的地位の問題ではなくあなた個人の努力でどうにかすべき問題でしょう、というポストフェミニズムのロジックとして、一人一人の女に課せられる途方もないタスクになる。
こんまりの言う「ときめき」は、こうしたポストフェミニズムの体現としての「女子力」とひどく良く似ている。「ときめき」のキラキラ感は、実のところ女が進んで家事をやるという伝統的なジェンダー役割をコーティングする飴細工に過ぎないからだ。
顧客を女性に限定した「乙女の整理収納レッスン」を主宰するこんまりが片づけの魔法をかけるのは、ほとんどいつだって女性だ。仮名で登場する顧客の全員が女性で、読者をほぼ完全に女性と想定して呼びかける『人生がときめく片づけの魔法』は、家の片づけという仕事を行うのは女性であるということを自明の理として疑わない。
言い換えると、片づけという家事労働に「ときめき」という名前を与えるこんまりは、家事労働が持つ個人的・象徴的な意味(やりがい)を変えることで、皮肉にもその社会的な意味(家の仕事は女がやるものだということ)をそっくりそのまま温存する。
「ときめき」に潜む伝統的なジェンダー役割は、部屋着についての彼女の言葉が象徴的だ。長くなるけれど引用しよう。
ときめかない服を部屋着に流用するのは今日かぎりやめてしまいましょう。[…]
誰に見られるわけでもない、だからこそ、最高に自分がときめく部屋着に着替えて、自分のセルフイメージが高まるようにするべきだと思いませんか。パジャマも同様です。もしあなたが女性なら、思いっきりかわいい恰好とか、上品な格好をしてください。
最悪なのは、下はジャージをはいて、上はトレーナーを着て過ごすこと。[…]
ジャージをはいていると、自然とジャージが似合う女になっていく。ちょっと極端に聞こえるかもしれませんが、私はそう思っています。
男性の場合はどうかというと、部屋着がセルフイメージに与える影響が女性に比べれば小さいので、女性ほど気を使う必要はなさそうです。
ちなみに、ジャージ姿で過ごす独身女性の部屋には、なぜかサボテンの鉢植えが置いてあることが多いということ、知っていますか。
大きなお世話だ、と叫びたくなる気持ちをぐっとこらえて、こうした「ときめき」を先ほど紹介した菊地の「女子力」論と見比べてみてほしい。
美しい女でいることや家事労働を楽しんですることへのたゆまぬ努力。そしてその結果実現される、他の誰かや社会に異議を唱えずトラブルを自己責任として引き受ける自己。伝統的なジェンダー役割を「ときめき」という砂糖菓子でくるんで自己責任論的な自己実現としてお出しするこんまり哲学とは、ポストフェミニズムの精神そのものなのだ。
ここまでに見て来たように、片づけの魔法とは、私たち一人一人に「常にハッピーな心身でいるようにセルフマネジメントすること」を求め、トラブルを自己責任として引き受ける新自由主義の精神と、「家事を楽しんで行う美しい女」という伝統的なジェンダー役割が折り重なった、女にとって古くて新しい魔法だ。
では、思いがけぬ形で「お家で過ごす時間が長くなった」今、彼女の魔法をどう考えるべきだろう? 次回はNetflixのメイクオーバー番組「Konmari~人生がときめく片づけの魔法~」を見ながら、今「ときめいてお家で過ごすこと」の意味について考えてみたい。