
「GettyImages」より
「コロナ禍と戦争は違う」
新型コロナウイルスの感染が広がるなか、各国首脳は現在の状況を「戦争」にたとえ、国民の一致団結を促したり、国の感染予防策について理解を求めたりしている。
4月16日、フランスのマクロン大統領は、テレビ演説で「我々は(ウイルスとの)戦争状態にある」と述べ、25日に東部ミュルーズの野営病院を視察した際には、治療にあたる医師や看護師を「最前線にいる人たち」と讃え、「国民はこの戦争で一つにならねばならない」と語った。
18日にはアメリカのトランプ大統領が「国防生産法(政府が非常時に企業活動を指示できる)」を発令したことに関連して、「私はこの戦争に勝つ。見えない敵を打ち負かす」と宣言した。
安倍首相も日本で感染者が出た当初から、ウイルスを「見えない敵」にたとえ、国民の協力なくしては「戦いに勝つことはできない」と訴え続けている。
たしかに新型コロナウイルスは大勢の人の命を奪い、経済的損失ももたらす。その影響力は戦争に匹敵するといえよう。対策として強硬的措置をとらざるを得ないため、状況を「戦争」にたとえ、国民の理解を得ようとするのもわかる。また、首脳にはそれくらいの覚悟をもって、コロナ撲滅に当たってほしいとも思う。
しかしそれでもやはり、「コロナ禍と戦争は違う」という当たり前のことを言っておきたい。戦争は国と国が敵対し、人が人を殺す。ウイルスも人の命を奪うが、その性質はまったく異なる。
「戦争」「国難」「英雄」は人に自己犠牲を強いる言葉
フランスの哲学者クレール・マランは、こう語っている。
「病気を戦争のモデルによって考えることは流行っていますが、生命の本質を見誤っています。コロナウイルスをイメージしたりその作用を理解したりするために、戦争のように考えることが役に立つとは思いません」「いま大切なのは対峙することではなく、むしろパンチを返さない俊敏なボクサーのように回避することが重要なのですから、なおさらです」(※)
マランはしかし、医療現場が「戦場と化している」ことは比喩ではないと述べている。
実際日本でも、感染者の治療にあたる医療従事者、そして生活必需品の販売、配送に関わる人たち、社会インフラに関わる人たちは、感染の危険をおかしながら懸命に働いている。
安倍首相は4月17日の記者会見で、医療従事者に対する報酬の倍増と処遇の改善を約束した。コロナ禍を「戦争」にたとえ、自己犠牲の上に懸命に働く人たちを「英雄」視するのみならず、こうした具体的な対価が必要であろう。
「戦争」「国難」「英雄」といった言葉は、人に自己犠牲を強いる言葉である。その言葉が本当に適切なのか、考えながら使いたい。
「戦争」には「勝利宣言」がつきもの
命をかけて働く人たちがいる一方で、多くの国民にできることは「外出自粛」くらいだ。私もその1人である。
「ウイルスと戦いましょう」と言われても、できることは、うがい、手洗い、「除菌ウェット」であちこち拭く、(自粛生活で食費は嵩むものの、そこはケチらず)栄養バランスを重視した食事、適度な運動くらいだ。
これらは「戦い」ではなく、単なる健康管理だ。しかし、医療崩壊が懸念されるなか、国民1人1人が病気やケガをしないことが、一見地味だがとても大切であるはずだ。
「戦い」という言葉よりも、「国民のみなさん、ご自愛ください」の方がわかりやすいし、実際的である。「長期戦」ならなおさら、「戦争」にたとえて人心を鼓舞するよりも、「自愛(自己管理)」を強調すべきだろう。自粛による生活の変化や精神的な緊張状態は、体調不良のみならず精神疾患をも招きかねない。
コロナ禍を「戦争」に例えると、終息の暁には「勝利宣言」が行われる。手柄は「最前線」で働いていた人たちではなく、「宣戦布告」をした人のものになりはしないか。
終わりの見えない自粛の日々を私は「修行」と捉えることにしている。「修行」の先には何もない。「修行」自体に意味があるのだ。
(※)『クーリエ・ジャポン』https://courrier.jp/news/archives/196382/