「#私が初めて性被害にあったのは」から目を背けてはいけない

文=原宿なつき
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注意:本稿には性被害に関する描写があります。

 

 2020年3月、ツイッターで話題になったハッシュタグがありました。「#私が初めて性被害にあったのは」です。

 文字通り、初めて性被害にあった経験を告白するこのムーブメントには、大きな意味があります。目を背けたくなるほどひどい犯罪被害を受けた年齢は、一人一人違います。中学生のときだったり、小学生のときだったり、7歳、5歳だったりもします。「そんな小さい子が性犯罪の対象になるなんて」と思われるかもしれませんが、性犯罪者は卑劣です。「小さい子、まだ知識がない子」の方が、自分の犯罪が暴かれる可能性は低いと知っています。

 日本の法律では、強制性交等罪10年、強制わいせつ罪7年が時効とされています。10歳のときに強姦された人が、30歳になってやっと被害事実と向き合うことができたとしましょう。でもその時、犯人が誰かはっきりわかっていても、もう逮捕できません。

 強制性交等罪、強制わいせつ罪にいては、イギリスでは時効はありません。フランスでは、被害者が未成年者の場合、成人に達したときから時効のカウントが始まり、長さは30年です。

 現行の日本の司法制度では、「幼いころ性犯罪被害にあったこと」を罪に問うことがかなり難しいため、「幼い頃の性被害を訴える」事例は少数です。しかし、法律上、罪に問えないからといって、被害がなかったことになるわけではありません。

 「#私が初めて性被害にあったのは」では、もう法律的には「時効」だとみなされる幼い頃に受けた性被害について、数多く綴られています。今まで語られることのなかった現実が、匿名のSNSという場所で白日の下に晒されたのです。

12歳から6年間、日常的に痴漢被害に会い続けた少女の実話

 性被害は語りにくい。そう感じている人は多いでしょう。「あなたに落ち度があったのではないか」とセカンドレイプを受けることを恐れて、口に出せない人も少なくありません。

 『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』(イースト・プレス)は、そんな性被害を「あなたが悪い」と責められた女性のひとり、佐々木くみさんの実体験を、フランス人作家のエマニュエル・アルノーが小説化した本です。フランスで出版され、その後、邦訳されました。

 クミは、12歳のとき初めて痴漢被害にあいます。自分の胸のあたりを、親指で小さく円を描くようになぞり始めた男性に対し、最初はそれが痴漢だとは気がつかなったと言います。痴漢というのは大人の女性を襲うもの、というイメージがあったからです。しかしクミは自分が性的なターゲットになっていると気づき、その瞬間から恐怖で動けなくなってしまいます。

 家に帰って、ショックを隠しながら母親に今起こったことを打ち明けると、返ってきた言葉は「あなたも悪いのよ」。それからクミは毎日のように通学の電車で痴漢にあうのですが、母親にそのことが知れたらまた責められると感じ、相談することもできません。「下着の中に手を入れられる」「あとをつけられ、君の中で出したい、と懇願される」など痴漢はどんどんエスカレートしていきます。

 本書の痴漢の描写を読んでいると、性暴力を「痴漢」という言葉で表すこと自体が、その卑劣な犯罪の内実を見えにくくしている面があると感じました。

 痴漢に関わった経験がない人は、痴漢は「スカートの上から軽くお尻を触られる」ような“軽いタッチ”をイメージするかもしれません。でも実際は、より悪質かつ日常的に行われているケースもあり、被害者の受ける精神的な損害は計り知れません。

<精神的な被害というのは、恐怖だけでなく、日常的につきまとう不安や罪悪感、孤独や犯人が捕まっていないことへの憤りの感情が何年にもわたって続き、絶望へと向かってしまうことである。このような精神的な被害を抱えた女性は多くいるにもかかわらず、それがメディアで取り上げられることはほとんどない。>(P6-7)

 クミは、かつては恋愛小説が大好きな少女でしたが、痴漢にあってからはそれも読みたいとは思えなくなってしまいます。小説も、文学も、愛も信じられず、日常的に性被害にあうことを「あなたが悪い」と責められる。クミは、電車に飛び込んで自殺しようと決意します。幸い、間一髪のところで命は取り止めるのですが、33歳になった今でも、憤りの感情が消えることはありません。

 佐々木くみさんは、本書について「すべての親に、まず読んでほしい」と訴えています。自分の子どもが性犯罪の被害者になる可能性を考えたい親などいないでしょうが、現実には十分あり得る話です。犯罪被害を防ぐためには、まずは実態を知ることから始める必要があります。

 痴漢撲滅を訴えても明後日の方向から「冤罪もある」と反論し、被害者側の自己管理の甘さを問うような声が未だにあります。『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』は、被害者を軽視する社会のおかしさを突きつけています。

痴漢被害の怒りを認めず、「恥かしがること」を求める迷惑防止条例

 クミさんは、大学生になって初めて痴漢加害者を捕まえ、警察を呼ぶのですが、和解するよう促され、犯人が罪に問われることはなかったと言います。もしクミさんが和解を拒否して、検察が犯人を起訴し、法廷で裁かれることになったとして、たとえ有罪でもせいぜい数万〜数十万円の罰金刑。それなら和解したほうが被害者の負担も少ない、とも言われます。痴漢という性犯罪は、それほど軽視されているのです。

 1995年、大阪府警鉄道警察隊が行った痴漢取り締まりキャンペーンでは「チカンは犯罪です」というキャッチコピーが使われました。逆に言うと、それまでは、痴漢は犯罪ではない、と考える人が多かったということです。信じがたいことですが、かつて、「痴漢をしやすい路線」が週刊誌で特集され、「痴漢」専門誌が発売されていた時代もありました。90年代にはそのまんま東や、サンプラザ中野が自らの痴漢加害について、明るく語っている記録が残っています。彼らが特別なのではなく、「痴漢くらいしちゃうよね」という空気が90年代にはあったのです。

かつて、痴漢は“娯楽”だった――「痴漢を語ればみえてくる」、現在の痴漢と地続きな大問題

 10代の女性アイドルがビキニ姿で痴漢被害について話したり、痴漢の触り方が図解されていたりする。痴漢の手口や痴漢しやすい場所、路線の選び方や、ターゲット…

「私が初めて性被害にあったのは」から目を背けてはいけないの画像2
「私が初めて性被害にあったのは」から目を背けてはいけないの画像3 ウェジー 2019.12.27

 膨大な資料をあたり、そうした90年代の空気を暴き出したのは、牧野雅子著『痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学』(エトセトラブックス)です。

 さすがに現在、「痴漢は娯楽」などという認識は一般的ではなくなりましたが、痴漢事件の多くに適用されるのは「迷惑防止条例」であり、ここにもまだ問題があることを同書は指摘しました。

 迷惑防止条例の卑わい行為条項は、「人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような卑わいな言動」を禁じたものです。被害者の供述書には、「性的羞恥心が侵害されたこと」が記載されるのです。

 しかし『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』で繰り返し主張される感情は、恥ではありません。怒り、不安、軽蔑、絶望です。

 それでも被害者供述書の記載例には、「恥かしがっていた様子を記載するよう注意書きがしてある」ので、被害者は「痴漢されて羞恥心を覚えた」と言わなければなりません。そう決められているからです。

<条例違反として立件するためには、恥かしがっていたことを立証しなければならず、供述調書もそれを具備すべく作成しなければならない。性的羞恥心が侵害されたことになっていなければならず、被害者には、性的羞恥心についての記述が求められてしまう。>(P.52)

 私はこの条項に、非常に強い憤りを感じます。被害者の怒りを、「恥かしかった」に変換するな、ということです。被害者が「恥ずかしかった」と証言しなければ、被害を受けたことすら認めてもらえない現状は、勇気を出して被害を訴えた人の人権を二重に踏みにじることになるでしょう。

 クミさんは日常的に性犯罪被害に遭っていました。犯人はひとりも捕まっていません。Twitterで「#私が初めて性被害にあったのは」をつぶやいている人の多くは、もう犯人を捕まえることができないことを知っているでしょう。それでもなぜ、それぞれの犯罪被害を書くのか、書かずにはいられないのか、それは、「なかったことにはできない」という思いからでしょう。

 加害が繰り返されないためにも、そこにある被害と加害を「軽視してはいけない」と認めなければなりません。

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