こんまりの魔法から解放されて「幸せ」を考える

文=Lisbon22
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よい「家族」と女性の家事

 「幼児と一緒にお片づけ」にはこんまりのジェンダー哲学のエッセンスが凝縮されている。

 大前提になるのは、家が散らかっていることは家族がバラバラであることに等しく、それはとりわけ女性にとっての不幸だ、という認識だ。「片づけの魔法」を伝えるこんまりは、当然ではあるけれど二人の家がなぜ片づかないのか(乳幼児を抱える共働きの夫婦であることによる時間・金銭的問題)には一切手を付けられない。彼女がするのは、こうした片づけの社会的意味を変えることなく、個人的・象徴的な意味(ときめき)を変えることで、夫婦の、とりわけ二つの涙に現れる、妻レイチェルの心理的負担を軽くすることだけだ。

 夫マットが片づけるのは自身の服とガレージのみで、それ以外のほとんどすべてを妻レイチェルが片づけるように、こんまりの魔法は女が家事仕事に取り組むあり方を決める社会的・環境的要因(経済状況やジェンダー役割分業)を変える代わりに、心理的意味合い(ときめき)を変えることでしか女を「解放」しない。そしてその先に待つのは、「幸福な家族」という「女の幸せ」に他ならない。

 退職した日系人夫妻が片づけを通じて「お互いをより知るようになる」2つ目のエピソード、ミシガンの大きな家からLAの小さなアパートへ移住するアフリカ系一家を描く3つ目のエピソードと、「Konmari」シリーズは片づけの主役が女であることという前提を崩さないまま、片づけを通した「幸福な家族」の達成を描き続ける。

 ただ、書籍版『片づけの魔法』から8年の時が経ち、こんまりが活動の拠点を日本からアメリカに移した2019年のNetflix版では、彼女が描く幸せな家族の形がある程度多様化していることは注意しておきたい。上の人種的多様性に加えて、冒頭で書いたように8つのエピソード中2組はクィアなカップルだ(そしてこの2組は、カップルの間で片づけの負担が最も平等に割り振られている=女性だけが片づけの主役にさせられないカップルでもある)。

 では、唯一女性を主役としない、ゲイカップルに焦点を当てたエピソードにおいて、「幸せ」はどのように描かれるのだろうか?

ゲイカップルと「普通」の家族

 まずはタイトルの話からしよう。

 それぞれライターとして働く、マットとフランクの若きゲイカップルが登場するのはエピソード5「社会人らしい空間作り」。この日本語版タイトルはオリジナルタイトル“From Students to Improvements(学生から進歩へ)” に比較的忠実ではあるものの、オリジナルタイトル自体も含めて、エピソードの内容を完璧に反映しているか少し疑問が残る。

 なぜかといえば、このエピソードにおいて若きカップルが「大人になる」ことは単に「学生から社会人へ」生活を変えることである以上に、自分たちの性的アイデンティティや恋愛関係を自律したものとして両親に認められるという、同性愛の承認の物語だからだ。やや小難しい言い方をすれば、「社会人」という言葉は、同性愛の承認という物語を漂白して普遍的な若者の自立の物語に変えてしまう、脱同性愛化の契機になっている。

 シリーズのほかのカップルたちと比べ、マットとフランクは最初から二人の間それ自体ではほとんどトラブルを抱えていない。その代わり彼らを悩ませるのは、二人の家が両親にどうみられるか、ということだ。

僕たちの家は僕たちの関係の反映なんだ。だから僕たちの家が調和していなかったら、両親は僕らの関係が一時的なものなんじゃないかって心配してしまうかもしれない。

 このフランクの言葉は、同性愛者の恋愛関係は異性愛者に比べて即時的で長続きしないものだ、という古くからのステレオタイプを念頭に置いたものだ。だから、と彼は続ける。

両親が僕たちの家を真剣にとってくれたら、僕らの関係も真剣にとってくれるんじゃないかって。僕たちはこれからここでしばらく暮らしていって、そしてずっと一緒に居続けるんだって。

 彼らにとって、「ちゃんとした家」として認められることは「ゲイとしての安定した家族関係」として認められることとイコールだ。このことを念頭に置くと、「学生寮みたいな家」から「ちゃんとした(respectable)大人の家」へのメイクオーバーは、単に「学生から社会人へ」という普遍的な若者の自立である以上に、同性愛者としてのアイデンティティを「若いころの一時の気の迷い」ではなく「自律した大人としてのセクシュアリティの自己自認」として認められる、という性の承認の問題であることはわかるだろう。

 「ああ、俺も若いころは一瞬同性に惹かれたことはあるよ。でもね、大人になれば……」。直接的にしろ間接的にしろ、こんな言葉をかけられたことのないLGBTQはいないだろう。古くはジークムント・フロイトの精神分析から、「正しい」異性愛者でないことは「大人になりきっていない」ことだとホモフォビアは伝え続けてきた。

 自分たちが「大人」だ、という証明に賭けられているのは、こうした「異性愛者でないこと=成長していないこと=若者の一時の気の迷い」というステレオタイプに対する、「ちゃんとした大人」としてのゲイ・アイデンティティの承認だ。

 確かに、こうした「ちゃんとした大人」のイメージは階級に縛られたものではある(こんまりメソッドに従い、不要なものを全て捨てるか寄付し、中古の品など買おうともしないクリエイティヴな中産階級である二人の生活は、全ての同性愛者に手が届くものでは決してないだろう)。けれどそれは、単に中産階級としてのきちんとした暮らしをするとか、単に学生から社会人へ生活を変えるといった、性とかかわりのない誰にでもあてはまる話などではない。

 彼らがゲイカップルであることをわざわざ特別扱いせずごく当たり前に受け止める「社会人らしい空間作りへ」という一見リベラルな枠組みは、こうして同性愛を脱同性愛化することによって、彼らを「普通の家族」の物語に漂白する。

 だから、このエピソードがシーズン1の8つのエピソードのうち唯一、顧客の家族以外の人物が重要な存在として登場することは驚きではないだろう。エピソードを締めくくるのは、片づけを済ませたフランクとマットの家をそれぞれの異性愛の両親が訪れるシークエンスだ。

 きちんと片づいた家を前に、フランクの母は「私たちをがっかりさせたことがない素晴らしい子よ。彼が私たちの息子で本当に幸せ」とほほ笑む。マットは「僕らの関係が両親に尊重されてよかった。家族が味方なのはうれしい」と頷き、ご馳走一杯のテーブルに着いたカップルとそれぞれの両親の6人が乾杯をするシーンでエピソード5は幕を閉じる。

 別の言い方をすれば、マットとフランクのゲイネスを漂白するこのエピソードは、最終的には彼らが「ちゃんとした息子」としてそれぞれの異性の両親に認められる、という「異性愛の家族の中での幸せ」の枠組みに彼らの「幸せ」を落とし込む(繰り返すと、「Konmari」において顧客の家に住む家族以外がこれほど大きなウェイトを占めるエピソードはほかに一つもない)。一見「幸せな家族」の人種的・性的多様性を描いているように見える「Konmari」において、「幸せ」のバリエーションは実のところそれほど多くないのだ。

いま、「ときめき」について考えること

 トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家族はどれも似ているけれど、不幸な家族の形はそれぞれ違う」と書いた。

 彼の時代から150年、同性婚合法化やシングル・マザーの増加を経た今、「家族」の形自体は確かに多様化した。では「幸福な家族」の形はどれだけ変わったのだろうか?そして、そもそも「幸福」のイメージがほかの何よりも「家族」の形を取るということは、果たして変わったのだろうか? 

 幸せの形は一つじゃないと人は言う。

 けれどNetflixシリーズ「Konmari」は、私たちに渡された幸せのメニュー表には今でもそれほどたくさんの品が載っていないのかもしれない、と感じさせてしまう。私たちに渡された「幸せ」は多くの場合「良い家族」の形を取る。そうした「良い家族」はしばしば男女の夫婦と子供から成り、中流以上の暮らしをし、そこでは女が片づけを積極的に楽しんで行いながらも同時に美しくあり、また時には家の外での「労働力」としての顔と柔軟に切り替えることを求められるような、そんな家だ。ゲイカップルの場合であっても、こうした「良い家族」は幸せのモデルとして掲げ続けられる。

 言うまでもなく、こうした「良い家族」は誰にとっても手が届くものなどでは決してない。昨年末に話題となったケン・ローチ監督『家族を想うとき』やポン・ジュノ監督『パラサイト』といった映画が鮮やかに描き出したように、フレキシブルな労働という美名を掲げる現代の新自由主義がもたらすのは、「良い家族」を持つことができる層と「家族」に文字通り手が届かない層の分断だ。

 こうした分断は、テレワークなどによって「お家で過ごす」ことができる層と、仕事の性質上ソーシャル・ディスタンスを保つことが許されない層の分断という形で、あるいは後者を代表するような「夜の仕事」に着せられたクラスター感染源という汚名の形で、今私たちの前にひどく残酷に浮かび上がっている。

 「家族」が常に幸せなものでないことを私たちはよく知っている。この記事を書いている最中、新型コロナウィルスの感染拡大を目的にした一人10万円の現金給付が世帯主を受給権者とする形で行われる、との発表がなされた。これを受けて、SNSではDVへの懸念や虐待・家族不和などにより家にいられない人への心配から#世帯主ではなく個人に給付してという声が相次いだ。

 家族が常に幸せなものでないのと同様に、幸せも家族という形だけを取らなければいけない必要なんてどこにもない。

 こんまりの「ときめきの魔法」が、人生に閉塞感を覚える女性に与えた解放感を否定するつもりは少しもない。けれどその解放感は、必ずしも本当の意味での解放ではきっとない。むしろ私たちが考えたいのは、「良い家族」の形でしか幸せを考えられないこんまりの魔法から解放されることだ。その時初めて、家に閉じ込められた私たちも、閉じ込められる家すら持てない私たちも、なぜ「幸せ」がほとんどいつも「家族」の形を取るのか、だれがそうした「幸せ」の形を決めているのか、そうした「幸せ」は誰にどのようにふりわけられているのかを考え始めることができる。それはきっと、フェミニストとしての幸せだ。

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