——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。
自分を肯定するための化粧
「女の子なんだから、化粧くらいしなさい」
女性として生きていく中で、こう投げかけられたことがある人は少なくないだろう。就活をしている時には「企業受けするメイク」という本を読み漁った。日本では、表紙に大きく「モテメイク」と謳われた雑誌を見かけることもしょっちゅうだ。善悪の基準は人それぞれだとしても、ふと「メイクは”誰のもの”なんだろうか」と考えてしまう。
そもそも人間特有の「化粧」という文化は、どのようにして始まったのだろう。
日本における化粧の始まりは、縄文時代にまでさかのぼる。当時の化粧とは、「紅殻(ベンガラ)」と呼ばれる赤い塗料を顔に塗ることで、「魔除け」の意味合いが強かった。魔除けから“美意識”としての化粧へと移り変わったのは、6世紀後半になってからのこと。大陸や半島から化粧品が輸入されるようになったことで、広まっていったのだという。
その後、平安時代になると日本独自の化粧文化「お歯黒」が誕生する。歯を黒くする風習は当初、男性の間にも浸透しつつあったものの、次第に「夫以外には染まらない」という意味が加わり、既婚女性のものとなっていく。
「社会的な意味合いを持つ化粧」が注目され始めたのは、大正時代に入ってから。戦後にアメリカ製品が輸入され、化粧の種類が爆発的に増えたことで、現代に続く「化粧」の価値観が確立されてきたらしい。歴史というのは面白いもので、その物事の成り立ちを知るだけで、自分の立場を表明したい気持ちになってしまう(私だけかもしれないけど)。
あなたにとっての化粧は、どういう意味があるのだろう。キレイに見られたい、強く見せたい、モテたい、コンプレックスを隠したい……きっと100人いれば100人分の理由があるはずだ。
私が初めて化粧に触れたのは、幼稚園の時だった。母親の口紅を盗んで、こっそり塗ったことを覚えている。その時はなんとなく、自分が大人になったような、大好きな母親に近づけたような、そんな気持ちになった。でも鏡に映る自分は少しイビツで、アンバランスな表情をしていた。そのことにショックを覚えた私は、2度と母の口紅を塗ることはなくなった。
そんな私が再び化粧に触れたのは、中学生の時だ。当時はまだSNSが発達していなくて、さまざまな雑誌を読み漁りながら化粧の勉強をした。
しかしながら、雑誌の通りに化粧をしたとしても、自分自身の納得のできる「顔」は生まれなかった。国内外の雑誌を集めてパーツごとに切り取っていくことで、ようやく「自分の顔に合う」化粧に出会えた。
ファンデーションを塗り、眉毛を整え、分厚めのマスカラの後にはきゅっと上がったキャットライン、最後には色の濃い口紅を塗る。これで完成だ。この私のメイク方法は、その時から今までほとんど変わっていない。
化粧とは、自分自身を少しだけパワーアップさせてくれるような魔法の側面がある。しかしながら自己肯定感が下がってしまう時には、化粧は「自分以外の誰かのもの」になってしまいやすい。「好きな人に好かれたいから」とか「その場で好まれたいから」とか、「どう見られているか不安……」から始まる化粧は、いつしかあなたを苦しませてしまうかもしれない。
私にとっての化粧は「魔除け」そのものだった。そんな気合いで化粧をしてきた。私にとって「素顔」を見せることは、敵に背中を向けることと同じだった。中高生の頃には1日5回以上は化粧直しをしていて、化粧道具を忘れた日には、近くの薬局で手元にないものを購入するくらいだった。化粧をする理由はただ1つ。「攻撃性を向けられにくくなる」からである。化粧をしていない私の顔立ちは、一見すると「気が弱そう」に見られやすかった。化粧をして街を歩いている時にはかけられなかった「言葉」を、薄化粧の時には多くかけられた。私はそれが不快で仕方なくて、武装するように化粧をしていた。
そんな自分に気がついたのは、大学院に入ってからのことだ。きっかけは、恩師のひと言だった。「あなたの化粧は隠しすぎている」——自分の中に何か隠したいものがあるからこそ、化粧で覆い隠しているのだ、と恩師は言った。私は、ハッとした。ずっと化粧で隠してきたつもりだったコンプレックスは、実は外見の問題ではなく、内面からくるものだったのだ。今まで無意識に塗り重ねて隠していたものは、クマでもニキビでもなくて、「自信のない自分自身」だったのだ。
私は今のパートナーと付き合ってから初めて「すっぴん」の自分を受け入れられるようになった。大まかなメイクの仕方は変わらないものの、今まで「隠すメイク」だったものは「映えさせるメイク」に変わっていった。そうしたら、もっともっとメイクをすることが楽しくなった。1日に何度もしていた化粧直しをしなくなった。顔に油が出て、化粧がよれていく様も「自然現象」として受け入れられるようになった。そして自分自身が「醜形(しゅうけい)恐怖症」に近付いていたことを知ったのだった。
「醜形恐怖症」というのは、「客観的に見て醜くないのに、自分の身体の1部を極めて醜いと悩み、自傷行為を行ったり生活に支障を及ぼしていること」を指す精神疾患のひとつである(現在は「身体醜形障害」と呼ばれている)。自分の見た目に過度に自信がなかったり、美容整形を繰り返している人たちの中には、醜形恐怖症の人もいる。また摂食障害との併発も多い疾患だ。
私は日常生活に支障をきたすレベルではなかったため、疾患まではいかないものの、確実に「醜形恐怖」自体は抱いていた。外見を過度に気にしたり、1日に何度も化粧直しを行う自分に疲れを感じていた。だからこそ、それがなくなった時に初めて、自分の問題が内側に存在していたことを知った。
現代ではもう「メイク」は女性の代名詞ではない。女性だってメイクを好まない人はいるし、化粧をすることが好きな男性だっている。最近は、「メンズメイク」をうたった商品も多く出てきた。先述の通り、人によって「メイク」への思いは千差万別だ。でも、いずれも「自分を肯定する道具である」という点は共通している。ただその上で「自分がメイクをする理由」について、振り返ってみることも大切なのかもしれない。
あなたの顔のすべてのパーツは、あなたにとって唯一無二で、替えの効かないものである。それに化粧品を乗せようが乗せまいが、その事実は変わらない。雑誌のモデルと「パーツ」が違ったとしても、あなたにはあなたの美しさが存在している。そしてその美しさは、ほかの誰でもない「あなた自身」のものだ。
もしかすると、あなたが「外見の問題」として捉えていることは、実は心の中にあることなのかもしれない。これはあくまで私の体験談であるので、すべての人に当てはまることではないと思う。ただ、もしもあなたがこの節に少しでも「引っ掛かり」を覚えたのであれば、一度「自分にとってメイクとは何か」について考えてみて欲しい。
【そんなあなたに伝えたい、心の処方箋】
★自分にとって「外見に問題がある」と感じる部分がある人は、いつどこで感じたかを書き出してみよう。(例えば、人前で話すときとか、雑誌のモデルさんを見たとき等)
★その上で、自分にとっての「美しさ」が誰のためにあるかを考えてみよう。(恋人に綺麗に思われたい、周りの人に美しく見られたい等)
★もしあなたのそばに、「あなたの外見」について意見してくる人がいるなら距離を置いてみよう。誰の意見も、気にすることはないよ
★手をよく洗ってから、鏡のない場所で自分の顔のパーツを1つずつ触ってみて。あなたのおでこ、まぶた、鼻筋、唇、どれもが全て「オリジナル」で愛しいものだと“敢えて”感じてみて欲しい。
★次に、鏡の前で自分の顔を触ってみて。パーツよりも「外見」に目がいってしまうんじゃないかな。自分の顔のパーツに対する意識は、鏡のない場所とある場所で違ってくるかな?心の変化を書き出してみよう。
★自分が生きやすくなるような「生き方」をしている、ロールモデルを見つけてみよう。
★化粧も美容整形も、自分が生きやすいと感じるために必要な時もある。でも「やり過ぎ」は、いつかあなたをもっとしんどくさせてしまうかもしれない。自分の外見への意識が、本当に「自分だけのため」にあるのか、もう一度考えてみてみよう。
(記事編集:千吉良美樹)