芸能人・著名人が政治的発言をしたとき、「がっかりした」「ファンだったのに残念」「〇〇(音楽、芸術など)に政治を持ち込まないでほしい」「よくわかってないくせに発言するのは、やめたほうがいいですよ。あなたが恥をかくだけです」などと、横槍を入れられている様を見たことがある方は多いでしょう。つい最近も、まさしくそんな出来事がありましたね。
政治的発言をした際に非難・攻撃されるのは、芸能系など目立つ仕事をしている方だけではありません。ラーメン屋の店主がツイッターで政治的発言をしたときに叩かれる場合もあります。どうやら、「政治家や、政治に詳しい法律家以外の人は政治的発言をするべきではない」と考えている方が一定数いるようです。
ただ、「政治的発言をするなんて、がっかり」という言葉もまた政治的発言なので、政治的発言が嫌なのではなく、自分の政治的信条と異なる信条を発信されるのが嫌なだけだ、という見方もできます。
いずれにせよ、現状、政治のプロ以外が政治発言をすると、発言の是非の前に、「発言すること自体をやめてほしい」といった声が寄せられるケースが散見されます。
「#検察庁改正案に抗議します」のハッシュタグに関しては、まさにそうでした。笛美(@fuemiad)さんによって発案されたこのハッシュタグは瞬く間に広まり、数々の市民・著名人に指示されました(5月10日時点で470万件のツイート)が、声を挙げた著名人の中には、「発言したこと自体」を叩かれた人も少なくありませんでした。
なぜ、著名人の政治的発言に対して、「自分はそうは思わない」というコメントではなく、「政治的発言はするな」という批判の声が寄せられるのでしょうか?
法政大学キャリアデザイン学部教授・上西充子氏の著作『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)では、発言することそのものを抑圧しようとする言葉を「呪いの言葉」と表現しています。
他人を黙らせようとする「呪いの言葉」とは?
「呪いの言葉」とは、「相手の思考の枠組みを縛り、相手を心理的な葛藤の中に押し込め、問題のある状況に閉じ込めておくために、悪意を持って発せられる言葉」です。
たとえば、ブラック企業に勤めている人が職場の不満を述べると、「嫌なら辞めればいい」と言って責める人がいますよね。「嫌なら辞めればいい」という言葉は、親身になって考えて発せられたアドバイスではありません。相手の簡単に辞められない事情まで理解していれば、そんな無責任なアドバイスはできないでしょう。
では、「嫌なら辞めればいい」は、何を目的に発せられる言葉でしょうか?
<「嫌なら辞めればいい」という言葉は、辞めずに「文句」を言う者に向けられている。他方、その言葉を投げる者は、長時間労働を強いる者や、残業代を支払わない者、パワハラをおこなう者、セクハラをおこなう者、無理な納期を強いる者、無理な要求をする者などには、目を向けない。そもそもの問題はそちら側にあるのに。だから、「嫌なら辞めればいい」という言葉は、働くものを追い詰めている側に問題があるとは気づかせずに、「文句」を言う自分の側に問題があるかのように思考の枠組みを縛ることにこそ、ねらいがあるのだ>(P.15-16)
「嫌なら辞めればいい」は、端的に言うなれば、「辞職の覚悟がないなら文句を言わずに働け」ということですよね。労働者が文句を言わずに働くことで利益を得る経営者側がそう言うならわかります。しかし、強者に同化して一時的にでも強者気分を味わいたいだけの労働者、つまり実態は弱者であるはずの人々も、そうした発言をするのです。
「政治的発言をするなんて、がっかりだ」という批判も、「何もわかってないのに、言わないほうがいい。恥をかくよ」と心配するフリの声も、「嫌なら辞めればいい」と同様に、問題の所在をうやむやにします。「政治的発言を自由にするべきか否か」なんて、独裁政権下でなければ本来問われるはずのない問いでしょう。そのなかに発言者を押し込めようとする意図が感じられる言葉であり、立派な「呪いの言葉」だと言えます。
「なぜ、あなたは『呪いの言葉』を私に投げかけるのか」を問う
では、「呪いの言葉」をかけられたとして、自分がその呪いに囚われないためには、どうしたらいいのでしょうか?
上西先生は、呪いを解く方法として、「なぜ、あなたは『呪いの言葉』を私に投げかけるのか」と問うことを推奨し、「相手の土俵に乗せられずに、こちらを自分の土俵に載せようとする相手のねらいを俯瞰するかたちで切り返せば、相手の呪いの言葉は無効化できる」とアドバイスしてくれます。
たとえば、現政権の動向について意見を表明しているとき、「そんなこと言っても、選挙で選ばれた結果だから。グダグダ言ってないで、選挙で勝つしかないでしょ?」と言われたとしましょう。
そのセリフを放った意図はなんでしょうか。「なぜそんなことを言うのか」を考えたとき、相手の意図は「黙っていてね」ということだとわかります。相手の意図がわかれば、「選挙まで黙ってろ、ってことですね。嫌です」と、改めて自分の意見を表明することができます。
今日から使える「呪いの言葉」への切り返し方
「呪いの言葉」は、労働や政治発言だけではなく、ジェンダー関連の発言に対しても、頻繁に投げかけられます。同書には呪いを華麗にかわすための「呪いの言葉」への切り返し方(『呪いの言葉の解きかた』P.270-281参照)という非常に役立つページがあります。その一部をご紹介させてもらいますね。
★〇〇を政治利用しないで
→あなたが生きていく上で政治に関係ないものなんてあるんですか?
★女性は権利ばかり主張するようになった
→今まで男が女性の権利を奪ってきましたからね
★恥をかくぞ
→圧力が可視化されて恥をかくのは、あなたの方ですよ
→私は恥をかくことを恐れません
★不快な思いをさせたとすれば/誤解を与えたとすれば
→自分の非は認めたくないのですね
→私が誤って理解したということですか?
→「不快に感じる方が過剰。誤解をする方がどうかしていると思うけどとりあえず謝罪のような言葉を発しておく」という意味ですか?
★政治を語っちゃうの?自己主張するヤツは浮くよ?
→「おとなしく従え」、というわけですね。あなたには好都合でしょうが、私はそれでは不都合です。
……こんなふうにきっぱりと切り返せたら気持ちいいだろうなあーという文例ばかりですね。私自身は、今はまだこんなに颯爽と切り返せませんが、こういった切り返し方を知ることで、瞬発能力を鍛えていきたいな、と思いました。
最大の呪いの言葉「自己責任」
さて、世の中には様々な「呪いの言葉」がありますが、最大の「呪いの言葉」といえば、やっぱり「自己責任」ではないでしょうか?
たとえば、ひとり親世帯の貧困。自分が子供を産むって決めたんでしょ? 自分が非正規雇用を選んだんですよね? 自立できる経済力がないのに子供を産んだあなたの「自己責任」ではないですか……とかね。
ひとり親世帯の貧困率を見れば、それが「個人の責任」だけで語られる問題ではないことは明らかですが、にも関わらず「自己責任論」を振りかざす人はいます。非正規雇用で働き自立する経済力を持てないのは、その人の努力不足ではなく、この社会の構造の問題であると認めたくないのでしょう。
また、当事者が「自己責任論」を内面化しているケースも厄介です。どうにもならない貧困に苦しんでいるのに、「これは自分の責任だから」と思い込んでしまい、助けを求めることができなくなるのです。
この社会が抱える数々の課題について声を挙げることを、自分が生来所有している正当な権利・義務ではなく、「自分の責任を放棄して文句を言っているだけ」だと認識している人もいます。そうなるとやはり、適切な訴えを起こすことも、福祉に頼ることもできなくなってしまうでしょう。
「自己責任」というフレーズには、「自分が悪いんだから、(会社・国・政治など)に文句を言うな」という圧力が含まれています。社会の問題に目を向けず、すべて個人の責任だと思い込ませる力のある「自己責任」という言葉は、「呪いの言葉」以外のなにものでもないと私は思います。
とはいえ、「自己責任」が「呪いの言葉」だって言えるのは、今だからこそです。私は2004年ごろ、「自己責任」という言葉が流行っていたとき、何も考えずにこのフレーズを使っていましたし、自分で自分に呪いをかけていました。あるとき、「あれ、自己責任って言葉、めっちゃ理不尽じゃね? 私にとってデメリットしかないねんけど!」と気がついて、呪いは解けましたが。そう考えると自分自身、今も気が付かずにたくさんの「呪いの言葉」を身にまとっているんだろうな……。
でも「全部一気に片付けよう」なんて無理。ちょっとずつ、呪いを解いていきたい所存です。
(原宿なつき)