少女漫画の違和感とフェミニズム。「らしさの暴力」と「ジェンダーパンチ」の身が焼けそうな痛みを知ってから

文=みたらし加奈
【この記事のキーワード】

——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。

少女漫画への違和感

 私は自他共に認める漫画好きで、特に昔は、少女漫画が大好きだった。女性の主人公が恋に落ちて、喜んだり悲しんだりする様子や、ライバルが登場したり、数多のトラブルを乗り越えて強くなっていく様子を見ながら、自分のことのようにドキドキしていた。

 しかし、ある時 から「特定のシチュエーション」に疑問を抱くようになった。それは、いわゆる「王道」と呼ばれる類の、少女漫画の“おきまりパターン”とされるものだった。少しずつ少しずつ溜め込んでいった違和感は、やがて飲み込めなくなってしまうほどの大きな痛みに変わっていった。

 例えば、ある女性の主人公は自分の魅力には気付いておらず、「私は美しい」という自己評価をしない。彼女は謙虚で、人に優しいのが“取り柄”だと思い込んでいるかのように描かれる。私たち読者は、謙虚で直向きな主人公の姿勢に心を動かされつつ、彼女に“好意を寄せる男性の多さ”によって「主人公の魅力指数」を知ることになる。そして、主人公の家庭環境は「貧乏で苦労はあるが、温かい家庭」で、まっすぐに育ってきた少女、という設定のものが多い。そして、大抵の場合、主人公はお金に執着をしていない。

 対する“お相手”の男性は、“王子様”的なポジションを獲得している。彼らは裕福ではあるものの、少し斜に構えていて、心を閉ざしていることが少なくない。「俺のものになれよ」なんて平気で女性をモノ化しておきながら、「俺を受け入れて欲しい」と“母性”を求めてきたりもする。時には主人公を「ブス」となじり、体型や外見に対して平気で物を申す。

 そんな王子様に、私はその昔、確かにときめいていた。だって本当は優しいし、優しいのなんて私だけが知っているし、私が許せれば良いんじゃない? と。

 そもそもなぜそういった設定のものが多くなっているのか、そこには「読者の願望」も含まれているのかもしれない。もちろん、私はそういった漫画を批判したいわけではない。ただ、そのシチュエーションがまるで一般的みたいになって違和感が表面化しなかった、日本の「ジェンダー意識の緩さ」を問題視している。

 もしも主人公が裕福な家庭に育って、自己評価が高くて、「1人でも生きていける!」と思っているような女の子だったら? お金に価値を置いているような女の子だったら? きっとその漫画は「恋愛をテーマにした少女漫画」というジャンルから、少し外れてしまうだろう。

 経済格差を受け入れながらもお金に執着せず、「王子様に見初められる日」を待っていることが、はたして「女としての価値」なのだろうか。そもそも女性だからといって、男性だけが恋に落ちる相手ではないし、「お金」を愛していてもいいし、1人で生きていくことを選択してもいい。

 女だからといって「結婚」に価値を見出さなくてもいいし、「子ども」という存在を好きになれなくてもいい。「好意を寄せてくる男性の数」とあなたの魅力は比例しないことだってある。例え「恋愛」をしなくたって、私たちの「価値」が落ちることは一切ない。

「自分に必要」なのか「女性として必要」なのか

 私たちは少しずつ、日々の生活で刷り込まれている。女は母性本能があって、男や子どもを受け入れてくれて、癒してくれて、いつでも「綺麗」にしていて、謙虚に「夫を立てて」、お金とか車には興味がなくて、年齢を重ねればオシャレを必要としなくなる、と。

 女は男から外見や年齢について意見をされた時は笑って受け流さなくてはいけないし、自分のための「セクシー」は男性のための「セクシー」にすり替わってしまう。結婚をしたら大半の女性がそれまで使っていた名字を手放すし、夫婦の名字をどうするかという議論が重要視されないことだってある。

 私たちは自分が思っている以上に、世間が作り上げたイメージに沿うように生きていたりする。もちろん、それを選択することが悪いわけじゃない。ただ、もしもあなたがそのイメージに無自覚で、「息苦しさ」を感じてしまっているなら、少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。その選択は「自分に必要」なのか、「女性として必要」なのか。もしも後者なら、あなたにとっての「女性として必要なこと」は、本当に大切なものなんだろうか?

 「女性らしさ」や「男性らしさ」というものは、人間が組み合わせて名付けた入れ物みたいなもので、決して「必ず分類されなければいけないもの」ではない。そういった性別の「らしさ」に拘ることは個人の自由だが、そこに誰かを当てはめようとするのは暴力的だと思う。

 確かに「男性」と「女性」の体のつくりはまったく違うし、仕組みが違うところだってたくさんある。しかし、一時期流行った「女性脳」とか「男性脳」についての科学的根拠は、いまだに見つかっていない。男だからって闘争を好むわけではないし、女だからといっておしゃべりが好きなわけでもない。「女性」か「男性」かなんて単なる容れ物に過ぎないのに、自分がそこから外れてしまう時、なぜかそれを「他人に説明しなければならない」気持ちにさせられてしまう。

 例えば「女なのに、私が母親になりたくない理由は〜」とか「女なのに、オシャレに興味がない理由は〜」とか、ストーリーに仕上げることによって、やっと人が「了解」してくれる気がしてしまう。理由なんて言わなくてもいいのに、「女なのに」とか「男なのに」なんて枕詞は要らないのに、なんでかそれなしでは「許されない」と思い込んでしまう。

 そうして私たちは、「らしさ」によって首を締められ、そしてまたその手で誰かの首を締めていく。ドラマや映画やテレビ番組、CM、漫画、小説……そうしたコンテンツも、その一端を担っている。もしかしたら、家族や身近にいる誰かも、なのかもしれない。

「フェミニズム」が目指す社会

 ご存知の方もいるだろうが、私のパートナーの性別は「女性」である。私にとっては人生で初めての同性のパートナーで、それまではずっと男性と交際をしてきた。

 男性と交際をしている時、無意識に「女性らしさ」に縛られていた。料理は“できて当たり前”だったし、腕や脚に生えてくる体毛は“あってはいけないもの”だったし、いつだって小綺麗にしていなければ気が済まなかった。日本では「男」と「女」というだけで、境遇も状況もまったく違うはずなのに、それらを「ジェンダーの問題」として議論することは「面倒臭い女」としてのレッテルを貼られてしまうことと同じだった。相手に悪気がなかったとしても、ジェンダーの話でかみ合うことは少なかった。そもそも私自身、どこかで違和感を覚えながらも、自覚をするまでには至っていなかった。

 そんな私は、人生で初めての「彼女」ができたことによって、今まで感じていた違和感を初めて自覚するようになった。いや、「原点に返った」という表現のほうが正しいのかもしれない。今まで私の中に積み上げられてきた「ジェンダーへの偏見」が、同性と付き合うことによって完全に崩れていったのだ。

 私たちのパートナーシップはいわゆる「性別」に縛られていない。料理だって得意なほうがやればいいし、家事の分担について話す時には「平等な立場」から意見交換ができる。生理の時の「しんどさ」だって、「人それぞれ」だということをわかった上でケアし合っている。そして何よりも、私たちは「女の子だからこうしなければいけない」という“圧力”について知っていた。「女」として生きていく中で感じてきた「ジェンダーパンチ」の痛さについて、共感することができた。

 どこまでも平等で対等な関係性を体感した私は、次第に世の中にはびこる「らしさの暴力」について自覚的になっていったのだ。私は「女であること」にきつく縛られ、感覚を失っていた。紐が解けたとき、感覚が戻る痛みに身が焼けてしまいそうだった。

 今でも、私は少女漫画が好きだ。それは変わらない。しかし感覚が戻った今、例えば異性恋愛主義的であったり、セリフの中に少しでも「主語が大きい」ものがあると俯瞰して見るようになっていった。作者だって、悪気があって書いているわけじゃない。それをわかってはいながらも、「その表現」に傷付いてしまう人たちに思いを馳せるようになっていった。

 私は女性の立場でしか物を語れない。だって“女”としてしか生きていないから。昔は本気で男性になりたかった。でもそれは「男性の体を持つ」ということではなくて、「男性の立場になりたい」という欲求だった。「家を守る」というよりも、外で社会的なことをするほうが向いていると考えていたからだ。しかし、その考え自体もステレオタイプに縛られていることがわからなかった。

 振り返ってみれば、私だって男性に性役割を押し付けていたと思う。「男なのに泣くなよ」とか「男ならこうしろよ」という主語の大きい言葉を平気で投げていたし、その言葉通りに動くべきだと考えていた。だからこそ、「女だから」とか「女なのに」という主語を容易く使う人たちの気持ちが、今ではよくわかる。自分が差別をしていることや、差別を受けていることに気が付かないほうがずっとずっと楽だった。

 あなたがもし、この文章に少しでも共感をしてくれるのであれば、立派な「フェミニスト」である。私はここまで、あえて「フェミニスト」という言葉を出さなかった。日本ではまだまだフェミニズムについての誤解があるし、はなからそれをテーマにしてしまうと「読む人が限られてしまう」現実がある。「私はフェミニストではないんだけど〜」という枕詞をつけつつ「平等でないことの抗議」をする人たちは、実はみんなフェミニストだ。しかし悲しいかな、それを本人に伝えることは相手への負担につながってしまいかねない。日本において「フェミニズム」という名の元に物事を語るには、相当な勇気を要してしまうのだ。

 「フェミニズム」というテーマは、(どんな立場であったとしても)その人の根底を揺るがしてしまうような繊細なものだと思う。日本は家父長的な家制度を実践することで、社会構造を実践してきた。「家父長的な家制度」とは「家父長権を持つ男子が家族員を統制・支配する家族形態」である。

 インターネットを介してたくさんの情報が入ってくることで、私の脳の情報処理スピードは急成長を遂げた。その影響で、大好きだったテレビ番組や本や漫画やアニメを見ることができなくなってしまった。表現の中で「これは人権の軽視では……?」と感じてしまうと、心に黒いモヤモヤが浮かんできて、誰かを傷付けていないかどうか考えるようになった。作品や作者に非があるわけではない。私を含めた「誰かの痛みに鈍感になってしまった人たち」が、そうならざるを得なかった過程が、1番の悪なのだと思う。

 フェミニズムがいわんとしている「真の平等」とは、傷付いてきた人たちが癒され、性別問わずすべての人たちが尊重し合い、誰かが1人で痛みを抱え込まないような社会を目指すことだ。そして私もまた、その社会を構築している1人で、すべての人たちがその当事者なのだ。だからこそ、私はまず「共感できそうなこと」から話していって、心を掴んだところで、(それってフェミニズムだよ……)と小声で囁く運動をしていきたいと思う。そして今日も、すべての人が性別に囚われずに生きられる社会を目指すために、そして「“性別”らしさ」を「自分らしさ」として言い換えられるように、小さく小さく発信をしていくのだ。

【ジェンダーギャップにモヤモヤし始めたあなたへの処方箋】

★「男らしさ」「女らしさ」において、過去に自分が納得できなかったことを書き出してみましょう。その上で、自分にとって「なりたい姿」や「自分らしさ」について立ち止まって考えてみてください。

★他人からの「らしさ」の呪縛に窮屈に感じる中で、人によっては「NO」と伝えることのハードルの高さを感じる人もいるでしょう。NOと言わなくても、「笑わない」という選択だけで伝わることもあります。もしそれができたならば、「らしさ」の呪縛に”笑わなかった自分”を褒めてあげましょう。

★あなたが漠然と「息苦しい」と思う環境の中には、無自覚なまま「受け入れてしまっている自分」もいると思います。そういう時は、周りに「主語の大きい言葉」が転がっているかもしれません。「男だから」とか「女だから」とか、誰かの“属性”が「主語」になっていないか、まずは意識的に情報を選択してみましょう。

★ジェンダーの問題は、同じリテラシーや“意識”を持っている相手でなければ噛み合わないことも多々あります。ジェンダーへの価値観は、その人の「家族」がベースになっている場合があるからこそ、時には強い言葉で意見をし合ってしまうかもしれません。わかり合えないのであれば、お互いに傷つけ合う必要はありません。距離を置ける相手なら距離を置いて、それが難しいのであれば「お互いの妥協点」を見つけてみましょう。

★どんな性別であっても、1番大切なことは「あなたが自分らしく生きていること」だと思います。どんな属性であったとしても、人間の価値には「優劣」はありません。そして、あなたが「自分らしく生きる」ために、“何か”や“誰か”から距離を置くことは、悪いことではありません。どうか自分を責めないでください。

(記事編集:千吉良美樹)

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