家に人がいない平日の午後、私は寝間着のままキッチンに立つ。遅い昼食にパスタを茹でようとしていたのだ。昨晩からずっと、トマトソースのかかったパスタが食べたくて仕方なかった。寝る前に冷蔵庫の中身に思いを馳せるものではない。長いこと入れっぱなしのトマトのことを思い出して、あの舌をきゅっとつまむみたいな酸味と旨味を想像したら、もうどうしようもなくなってしまった。
まだぼうっとした意識のまま、トマトを軽く洗い、まな板の上で角切りにする。ずっと冷蔵庫に入っていたせいで芯まで冷たかった。どぅるどぅるした種がこぼれてくるけれど気にしない。加熱するならば皮が舌に障らないよう湯剥きをするのがいいそうだけど、それも別に気にならないからそのまま。どうせ自分しか食べないのだ。浅めの鍋にオリーブオイルを垂らし、チューブのにんにくとクミンシードを温める。適当なところでトマトを入れると、すぐに薄皮が端っこから丸まり、ぺろんと剥がれてどこかに行ってしまった。
しかし、生のだけではもの足りない。果肉の形がなくなるあたりでパウチのカットトマトも投入し、ふつふつと煮立つ音が重たげにくぐもってくるまで待つ。時折シリコンのへらでちょっかいをかける。味を見て、塩と胡椒やお醤油を振ったりもして、また待つ。こういう料理は気楽だなと思う。焼き物や揚げ物のように、運動神経が試されている感じがしないから。ぶつぶつ、ぶつぶつ、と水面が低く唸るのに耳を澄ませて、たまに様子を見てやればいい。待っている時間は苦ではなかった。いや、お腹はとても空いているし、早く食べたいなとは思うのだけど。だがそれでも、自分のために時間を遣って、自分が食べたいものを作るという行為には、なんだか癒されるものがあった。
この時間は一体なんなんだろう。料理について人が何かを語ろうとするとき、お決まりのように持ち出されるのが「料理は愛情」という言い回しだ。そしてその「料理」とは、だいたいが母親か妻のどちらかが作ってくれる/くれたものを指す。この間読んだ土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』もそうだった。土井先生のレシピには私もお世話になっているし、「一汁一菜でよい」という提案自体は、多くの人にとって救いになるものだったと思う。でもその説明というか、「日々料理をすること」の理由づけにあたる文章には、同意しかねる部分が結構あった。「愛情」とか「家庭」というものに信頼を置きすぎている。読んでいて少し息苦しかったし、危うい気持ちになった。
料理は愛情。言いたいことは分かるし、そういう感覚におぼえがないこともない。しかし料理とは行為の一つであって、気持ちそのものではないはずだ。愛情の表れとして料理をすることはあるけれど、料理は必ずしも愛を表すための行為ではない。愛がなくたって料理はできる。料理をしないのは、愛情がないこととイコールではない。ただの行為、あるいは作業として、私は「料理」を置いておきたいのだ。
愛はきっと確かな手触りと存在感をもってそこにあるものではなく、ごろっと取り出して「これが愛です」と言い切れるようなものでもない。世界が重層的な構造をとっているとして、少なくとも、その一番上のレイヤーに乗っているものでは絶対にないと思う。たぶん、作業中の背後に流れる音楽くらいのもの。それは私をくつろがせるものかもしれない。聞き取るのに苦労するくらい微かなときもあれば、うるさくてどうにかしてほしいと感じるときもある。確かに流れているはずなのに、何かに熱中していたり、あまりに当たり前すぎて耳に入らないということもあるだろう。
もちろん無音でもいい。その静けさを寂しく思ってもいいし、喜ばしく思ってもいい。何も思わなくてもいい。鳴っている音を耳障りに感じるのも悪いことではない。受け取りがたい、聞きたくないと思うときには耳を塞ぐ、あるいは聞き流すという方法も取っていいはずだ(「聞きたくない」というポーズを取るのもなかなか大変なものだし、特定の音を聞き流そうとして聞き流すのもまた難しくはあるのだけど)。
私は一人でキッチンに立ち、トマトが煮詰まっていく音に耳を澄ませている。今ここで、自分だけがこの音を聞いているのだ。そして少なからず癒しを得ている。だけど「これが愛か」と聞かれるとちょっと困ってしまう。強いて言えば、こうして一人料理をすることは、自分をもてなすことに近いのかもしれない。でも「もてなし」だって扱い方の一種でしかなくて、つまりただの行為だ。お会計をレジで打ってもらったり、ホテルの人に寝床を整えてもらったりするのと同じサービス。そこに確かな愛情がある必要だって、別にないのだ。
トマトのソースは思ったよりたくさんできて、一人分と少し余った。夜になれば、家に人が帰ってくる。パスタを茹でたら食べるだろうか。それとも、何か食べてきたから要らないと言うだろうか。どちらでも構わない。それはその人が決めればいいことだから。