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「ひとのことモノじゃなくてひととして見ろ」。これは、小説集『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生著・河出書房新社)に書かれた一文です。
表題作「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の主人公・大学生の七森つよしは、周囲の男性が女性を「68点くらい?」「ブスやん」「まあまあやろ」とか「ワンチャンあるかも」と品定めしていることに対し、「ひとのことモノじゃなくてひととして見ろ」と強い嫌悪感を抱いています。
「ひとのことを、ひとではなくモノとして見る」とは?
「ひとのことを、ひとではなくモノとして見る」とはどういったことでしょうか?
上記の文脈では、「外見を勝手にジャッジして、点数化する」「ワンチャンという言葉で表現して、相手をセックスできるかできないかで判断する」ことが、「モノとして見ている」と表現されています。
「モノとして見る」とは、相手の人格や主体性を無視して、(性的)対象物として値踏みすること、と言い換えられるかもしれません。そうであれば、私もモノとして見られた経験が過去にありました。
高校生のころ、友人とふたりで歩いていると、男子高校生から声をかけられました。美人の友達と歩いているときには、「めっちゃかわいい!ナンバーワン!」と、向かいの道路から叫ばれたこともあったし、別の友人と電車にのっているときに、近くに座っていた男子高校生から「芸人の〇〇に似てるよな?(笑)」とからかわれ、友人が泣いてしまったこともあります。バーで「めっちゃかわいいね。今日は君に決めた!」と指をさされ、つきまとわれたこともあれば、ナンパを無視して、「調子にのるな、ブス!」と罵られたこともあります。
相手が褒めているつもりにせよ、ディスっているつもりにせよ、どちらにせよ、不快でした。勝手に値踏みするなよ、と。
ところで、なぜ「相手の人格や主体性を無視して、(性的)対象物として値踏みしてもいい」と考える男性が存在しているのでしょうか?
善良な人たちが「同性愛をバカにし、女性をヤレる対象として語る」ノリ
理由のひとつは、それが「男らしいことだ」と考えられてきたからでしょう。
女性でも、男性の人格や主体性を無視して、性的な対象物として男性を値踏みしている人はいます。しかし、女性がそれを声高に表明したり、「ヤレるかヤれないか」を重視していると公言したりといった場面を、この社会で目にすることは多くありません。
「ヤレる女子大生ランキング」はあっても、「ヤレる男子大生ランキング」はない。(若い)異性を性的対象物として値踏みする行為は、「女らしい」とみなされず、社会的に推奨されておらず、女性にとっては同性からも異性からも評価されにくい、非常にコスパの悪い行為なのです。
しかし、男性の場合はどうでしょう。異性を性的対象物として値踏みする行為は、一部の男性集団の間では、「男らしいこと」「集団間の結束を強めるもの」だとみなされています。男性が集団になることで「女性をモノとして見る」ノリが発生しやすいとも言えます。
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」では、「男性が女性をモノとして見る」ノリがしばしば描かれています。
主人公・七森は、成人式に出席した際、高校の同級生ヤナと再会します。ふたりは中学・高校で一番親しくしていた友人でした。一対一では問題なく話せていたふたりですが、イケてるグルーブの男子たちが合流したことで、ヤナは、「そこで親しまれる話」を始めます。
たとえば、「つよしってまだ童貞?」「え? おまえゲイ?」というような。七森が「どっちでもいいだろ」と答えると、「やっぱゲイなんやー」とからかう。
「いや、ちがうって!」と冗談っぽく否定して、場を盛り上げることが「空気を読むこと」だとわかっているけれど、七森は黙り込み、普段はいいやつのヤナに対して「嫌なことをいってくるのはもっと嫌なやつであってくれ……」と思います。七森は、それがその場のノリなのだとは理解しつつも、そのノリにノることは決してしません。イケてるグループのひとりが、かつて七森が好意を寄せていると噂になった女性について言及し、「いま彼氏いないんだって。おれゴム持ってるけど」と言ったときも、「はあ」と答えるだけでノリの悪さを見せつけ、座を白けさせます。
七森は、そういったホモソーシャルなノリに嫌悪感を抱いているのですが、同時に、「悪いのはあいつらそのものじゃなくて、あいつらを作った環境なんだ」とも認識しています。
<あいつらの、僕らのことばがどこまでも徹底的に個人的なものだったらよかった。嫌なことをいうやつから耳を塞いで、そいつの口を塞いでそれで終わりなら、まだこわさと向き合えた。でもそうじゃない。どんなことばも社会を纏ってしまっている。どんなことばも、社会から発せられたものだ。そう考えるとどうしようもなくなって、七森はしゃがみ込んでしまう>(P.87)
たとえば、「性経験が無いことをネタにしてからかったり、同性愛をバカにしたり、女性をヤレる対象としてモノ化する」ひとりの人間と出会ったとして、その人と関わりたくなかったら、その人を徹底的に避ければいいだけです。単純に個人の性格の問題であるならば、それで済みます。
でも、女性のモノ化を含む女性蔑視や同性愛嫌悪を強制する同調圧力が社会に漂っているとしたら、どんなに善良な個人でもそういった圧力に屈してしまう可能性はあり、どこにも逃げ場所はない、ということになってしまいます。
「嫌なことをいってくるのはもっと嫌なやつであってくれ……」は、そういった、逃げ場のなさに感じるモヤモヤを言い表した言葉だと解釈できます。嫌な奴!と切り捨てたいけれど、個人の問題ではないとわかってしまっているし、自分も簡単に「そっち側」にいってしまう可能性があると気づいているからこそ、割り切れなさが残るのでしょう。
「ひとのことを、ひとではなくモノとして見る」こと、勝手に値踏みしたり評価したりすることは、個人の資質からのみ発生するものではなく、「集団」になったときこそ生じやすい、つまり、その場のノリによって「ひとのモノ化、値踏み」は加速すると言えるでしょう。
「他人をモノ扱いせずひととして尊重したい」なら?
そう考えると、「ひとをモノではなくひととして見る」ためには、自分自身ノリに流されないことが大切なのでしょうか。
主人公を見ていると、「ノリの悪い人間こそ、ひとをひととして尊重できるのかもしれない」と思えてきます。一人ひとりが、「その場で勝手にジャッジや値踏みが始まっても、それにノラない」ことが、「ひとをモノとして見る」流れを止めるためにできることなのかもしれません。
しかし、自分が「ひとをモノとして見るのではなく、ひととして見る」を心がけていたとしても、他人から「モノとして見られる」「モノとして扱われる」可能性は残ります。主人公がしゃがみ込んでしまうほど、「ひとをモノ扱いする」ノリは、そこかしこにあります。このノリが温存されていく以上、「モノ扱いされる人」はいなくなりません。
理想的には、「相手の人格や主体性を無視して、(性的)対象物として値踏みする」というノリが、集団への結びつきを強化するものではなく、「まだそんなことやってるん? ダサ!!」と思われる時代になることが望ましいでしょう。「ひとをモノ扱いする」ノリが徹底的にダサく古いものになればいいのに。
お笑い芸人「にゃんこスター」のアンゴラ村長が、ルックスいじりに対し、「顔とか生まれとか変えられないものをいじるのは古い」と切り返したのは2017年のこと。それまで当たり前だった、テレビのバラエティ番組でのルックスいじり・ブスいじりに毅然とした態度を示しました。それから3年、今はさらにルックスいじり・ブスいじりが「古い」「ダサい」ことになりつつあります。「他人の容姿を勝手に採点すること、異性を性的対象ブツとして捉え、人ではなくものとしてみなすことで同性同士の結束を強めようとすること」も、「古い」「ダサい」とされる日は近づいているのかもしれません。
(原宿なつき)