『テラハ』と賭け麻雀スキャンダルへの反応に共通する、情報リテラシーの本質

文=加谷珪一
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GettyImagesより

 コロナ危機に際して真偽不明の怪しい情報が世の中を飛び交ったが、偶然にも情報の本質について考えさせられる出来事が連続して起こった。ひとつはリアリティーショー『テラスハウス』に出演していた木村花さんの死。もうひとつは、黒川弘務検事長の賭け麻雀スキャンダルである。

 この2つの話は、情報リテラシーの本質について、私たちに強く問いかけている。

リアリティーショーが顕在化させた視聴者の存在

 木村花さんは、『テラスハウス: Tokyo 2019-2020』(フジテレビ系、Netflix)に出演。『テラハ』は日本のみならず世界中で視聴されている人気コンテンツで、シェアハウスで男女6人が共同生活する様子を記録した、いわゆるリアリティショーだ。木村さんに対してはSNSを中心に常軌を逸した誹謗中傷が寄せられており、木村さんはこれを苦に自殺したとみられている。

 著名人に対する誹謗中傷は以前から指摘されていた問題だが、日本社会には「誹謗中傷は有名税である」といった加害者を擁護する奇妙な論調があり、著名人が毅然とした対応を取ることについて批判する雰囲気すらあった。だが相手が誰であれ、誹謗中傷といった行為が許されるはずはなく、今回の事件を受けて一部の著名人が法的対応を表明するなど状況は大きく変わってきている。

 卑劣な誹謗中傷を繰り返す人たちの深層心理には、満たされない承認欲求や、脚光を浴びる人への妬みの感情などが渾然一体となっている。だが、これだけの理由で、コンテンツとして制作された番組の出演者に対して、常軌を逸した攻撃が行われるというのは少々考えにくい。一定数の視聴者が創作されたコンテンツと現実の区別が付いていない可能性について排除できないだろう。

 リアリティーショーはもともと米国で発達した形態の番組である。明確な台本がなく、完全にプロとは言えない人たちが「素」の状態で出演するところが魅力なので、通常の番組と比較した場合、リアル感が増すのは間違いない。とはいえ、あくまでも商業用コンテンツであり、創作されたものであることに変わりはない。視聴者の側には、一歩、引いた姿勢が求められる。

 テレビドラマに悪役として出演している俳優が、街中で罵声を浴びせられることがあるという現実からも分かるように、以前から創作と現実の区別がつかない人が一定数、存在することは分かっていた。だが、本人に直接アプローチできるSNSという手段が普及したことで、今まで水面下に潜っていた人たちが、一気に顕在化した可能性は否定できないだろう。

今の時代には「川口浩探検隊」は実現できない?

 もし、一定割合の視聴者が現実と創作の区別がついておらず、SNSの影響で行動に拍車がかかるのだとすると、コンテンツを制作する側には今まで以上に慎重な姿勢が求められる。

 1970年代から80年代にかけて、テレビ朝日系列で『川口浩探検隊シリーズ』という番組が放映されており、人気を博していた。これは著名俳優の川口浩氏が隊長を務め、ジャングルの奥地などを探検するというドキュメンタリー風の番組だが、過剰な演出がウリで、一部からは「やらせ」との批判も出ていた。

 だが、多くの視聴者は「やらせ」の可能性が高いことを理解した上で番組を楽しんでおり、その証拠に「やらせ」であることを前提に、同番組を揶揄した歌がヒットするという珍現象すらあった。また番組に出演している人たちも完全にプロであり、視聴者がどのように受け止めるのかという部分についても、ある程度、理解した上での演出だったと考えられる。

 だが、こうした番組制作が実現できたのは古き良き時代の話であり、SNSが高度に発達した今の時代では、同じようにはいかないだろう。ましてや、出演者が半分素人で、個人の恋愛感情なども扱うリアリティショーの場合、一歩間違えば、今回のような事態を引き起こしてしまう。

 制作サイドとしては、ギリギリのところで盛り上がる番組を作りたいと考えるかもしれないが、現代社会においては、創作であることがハッキリする形態でなければ、あまりにもリスクが高い。表現には制約が加わるかもしれないが、演出の方法には一定のガイドラインが必要だろう。

リーク報道がなければ、世の中に事件は存在しないことに

 受け手の情報リテラシーが低い場合、報道についても同じことが言える。東京高検の黒川弘務元検事長の賭け麻雀スキャンダルはまさにその代表例といってよいだろう。

 検察幹部でありながら賭け麻雀をしていた黒川氏が簡単な処分で済んだことについては、多くの国民が反発しているが、ここではその話題は横に置いておく。この出来事のもっとも重要な部分は、個人的に賭け麻雀をするといった緊密な関係を、検察幹部と新聞記者が構築していたことである。

 検察幹部と新聞記者は取材される側と取材する側なので、本来は一定の距離を保つ必要がある。だが現実には、検察幹部と新聞記者は今回の事例が示しているように、個人的に緊密な関係を構築している。その理由は、情報を提供する側とされる側で持ちつ持たれつの状態になっているからである。

 新聞記者は特ダネが欲しいし、検察幹部は親しい新聞記者に独占的に情報を提供することで世論をコントロールできる。政治家や官庁の幹部が、公開されていない情報を特定の記者に漏らすことをリークと呼んでいるが、実は私たちが日々、見聞きするニュースの多くが、公式発表ではない、こうしたリークによって成り立っている。だが多くの人は、その事実に気付いていない。

 私たちは殺人事件や強盗事件などが起こるたびに、空気のようにニュースを見聞きして「こわいですね」「犯人は許せない」などと語っているが、警察や検察が事件について公式発表するケースはほとんどない。「犯人が逮捕された」「素直に取り調べに応じている」「反抗的だ」「反省する様子はない」など、ニュースで流される情報のほとんどは、公式発表ではなく、関係者からのリークによって成り立っている。もし、こうしたリーク報道を一切なくしてしまうと、世の中には事件というものはほとんど存在しなくなってしまうし、犯人がどのような人物なのか知る術はなくなってしまうだろう。

事実だけを報道することは原理的に不可能

 一方で「反抗的だ」というリーク報道が事実である保証もまったくない。実際、警察や検察は世論を誘導するため、あえて庶民が怒りを覚えるような情報をリークすることがあるからだ。

 近年、マスメディアに対する批判が高まっており、ネット上を中心に「メディアは事実のみを報道せよ」との声高な主張が多い。だが、こうした主張に欠けているのは、「何が事実なのか」という、物事の根幹に関わる部分である。

 先ほどの事件報道を例にとってみよう。ある新聞記者が親しい警察(あるいは検察)関係者から「犯人は否認している」という情報を得たとする。通常、新聞記者は記事を書くにあたり、入手した情報が事実なのか確認する「ウラ取り」という作業を行う。だが、留置場あるいは拘置所に入れられている容疑者がどのような様子なのか、外から確認することは絶対にできない。

 そうなってくると記者は情報源を信用してその情報を流すしかなく、「否認している」ことが事実なのかは誰にも分からない。もし報道機関が本当の意味での事実しか報道してはいけないということであれば、公式発表以外の情報は報道できないことになる。

 では、官庁が行う公式発表は事実なのだろうか。必ずしもそうとは言えない。多くの公務員は職務に忠実だが、一部の公務員は公式発表する情報を意図的に操作しており、公式発表の内容が事実と異なっている場合がある。この時、ウソが書かれた公式発表を報道することが「事実を報道する」ことになるのだろうか。そうではないだろう。

 厳しい言い方になるが、リーク報道を見聞きして「犯人は厳罰に処せ!」「マスコミは事実を報道しろ」と息巻いている人の心理状態は、現実と創作の区別がついていないリアリティショーの視聴者と大差がない。

 結局のところ、真に中立で正しい情報というものは存在せず、すべての情報は、情報提供者の意図が入り込むものであり、受け手はそれを理解した上で情報について解釈する必要がある(政府の公式発表をそのまま報じるという段階で、すでに記者の意図が入り込んでおり、完全に中立とはいえなくなる)。

 リテラシーを高く保つには、情報に対して感情的にならず、その情報は誰が何を目的に流したのかについてまず考える必要がある。こうしたスタンスで報道を見ることができれば、政治や経済に対する理解力は一気に高まるはずだ。

(加谷珪一)

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