『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』におけるフィメール・ゲイズ 視覚が提示する読みの可能性

文=久保豊
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 トッド・ヘインズ監督が手がけた『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』(Mildred Pierce、2011年、Amazonプライムで配信中)の結末において、主人公ミルドレッド(ケイト・ウィンスレット)は、母親の元から逃げるようにニューヨークへ旅立つ長女ヴィーダ(エヴァン・レイチェル・ウッド)に対して、怒りに震えながら冷徹に言い放つ。

 “Go! Get out of my sight! I don’t need you either! Go to New York, for all I care! And don’t you ever come back! Do you hear me? Never again! I won’t have it!”(消えて。出ていけばいい。顔も見たくない。二度と戻ってこないで。聞こえた? 縁を切ってやる。もう懲りごり!)

 ミルドレッドの視界に入ることすらも拒絶されるヴィーダは、かつて彼女の自慢の娘であった。一体何が二人を引き裂くのか。

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【図1】照明による明暗が怒りと悲しみの混ざった複雑な感情を表現する(第5章)

 舞台は1931年のアメリカ、カリフォルニア州にある小さな町グレンデール。大恐慌で職を失い他の女と浮気している「役立たず」(useless)の夫バート(ブライアン・F・オバーン)を追い出し、ミルドレッドは非公式の「アメリカの象徴」たる「別居妻」(a grass widow)/シングルマザーとして、二人の娘を女手一つで育てる。

 ウェイトレスとして働き、のちに起業家として成功するミルドレッドは、次女レイを感染症で失うものの、母娘の絆を何度も修復しつつ、上流階級志向のヴィーダへ愛と金を注いでいく。だが皮肉にも、将来有望なソプラノ歌手へと成長したヴィーダは、母の愛を見限り、思春期から忌み嫌ってきた地元から、母の元夫であった恋人のモンティ(ガイ・ピアース)が待つニューヨークへと去る。

 古典的ハリウッド映画に親しむ者であれば、『ミルドレッド・ピアース』という名前からすぐにマイケル・カーティス監督の同名作品(Mildred Pierce、1945年公開)を連想するだろう。フィルム・ノワールとして名高いカーティス版は、ヘイズ・コード(自主規制条項)の要請に従いジェームズ・M・ケインの原作小説(1941年出版)を改変し、善悪二元論でミルドレッドとヴィーダの母娘関係を描いた。

 一方、2011年3月27日から4月10日までHBOミニシリーズとしてテレビ放映されたヘインズの『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』は、1930年代におけるジェンダー、労働、階級といった現代社会にも通ずるトピックを織り込んだケインの原作にほぼ忠実に作られている。各1時間の全5章というミニシリーズの時間的余裕を享受することで、ヘインズは1931年から9年間の物語をミルドレッドの視点から詳細に描くことに成功した。

 原作に忠実にと述べたものの、ヘインズと共同脚本のジョン・レイモンドは上述の場面に、“Get out of my sight!”(消えて)というセリフを追加している。なぜヘインズは、あるいはヘインズとレイモンドは、“sight”という視覚や視線に直結した言葉を用いる決断を下したのだろうか。

 『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』において、ミルドレッド自身の視線と他者から彼女に向けられる視線はどのような役割を果たすのか。本稿では、「女性の視線 フィメール・ゲイズ」(female gaze)の概念を援用して、ミルドレッドという女性の経験と欲望について考察してみたい。

 1975年にローラ・マルヴィが論文「視覚的快楽と物語映画」(”Visual Pleasure and Narrative Cinema”)において提唱した「男性の視線 メイル・ゲイズ」(male gaze)は、その発表から45年間にわたって映画研究やカルチュラル・スタディーズなど様々な学問分野で議論を促進させ、同時に批判の対象ともなってきた。他方、フィメール・ゲイズは比較的新しい概念であり、理論だけでなく、映画や写真など実践を通じて今後さらに洗練されていくことが期待される。

 本稿では『トランスペアレント』や『I Love Dick』の監督であるジル・ソロウェイが2016年トロント国際映画祭で共有したフィメール・ゲイズの定義を援用したのち、ヘインズ版におけるフィメール・ゲイズを分析していく。

フィメール・ゲイズとは何か

 ローラ・マルヴィによれば、物語映画におけるメイル・ゲイズは監督、観客、そして登場人物という三つの男性の視線を通じて、女性身体の見世物(スペクタクル)化とフェティッシュ化を行う。メイル・ゲイズは男性(の視線)の優位性を権威化し、女性を抑圧する家父長制的な権力構造を維持しながら、男性観客に視覚的快楽を与える。

 一方のフィメール・ゲイズは、メイル・ゲイズが女性身体を性的に見世物化するのと同様の方法を男性身体に対してとる女性の視線を指すものなのか。明確な定義はまだ曖昧で頭を悩ませるものの、答えはそんなに簡単ではないようだ。フィメール・ゲイズは視覚文化に偏在するメイル・ゲイズへの政治的なカウンターアプローチであり、単純にジェンダーリバーサルな関係を作り上げ、女性の視線を通じて男性身体を見世物化することが主な目的の一つではない。

 フィメール・ゲイズが何を指すのかは、ジル・ソロウェイが2016年トロント国際映画祭のMASTER CLASSにて提示した定義が役に立つだろう。

 ソロウェイによれば、フィメール・ゲイズは第一に、登場人物の行為(action)よりも感情(emotion)を重視し、フレームを通じて登場人物の感情を「見せる」のではなく、心の底から「感じさせる」ことを試みる。第二に、視線を受ける人物のポジションからカメラを使い、視線の客体となる経験がどのようなものかを観客に提示する。第三に、他者の視線に客体化されていると自覚したとき、その人物に向かって視線を返すことで、その他者が自分を見ていることに気づいており、客体化を拒むと主張する。

 ソロウェイが提示する三つの観点を参照すると、映画やテレビドラマの製作におけるフィメール・ゲイズとは、様々な選択を日々行うなかで女性(あるいは広義のシス・ヘテロ男性以外の存在)が積む経験や抱く感情がどのような視線のポリティクスのなかで形成されているかを表象し、観客に共感をうながす表現方法を想像する政治的ツールであると考えられる。

 本稿ではまず、このようにフィメール・ゲイズを定義したうえで、後半でトッド・ヘインズがどのように『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』を製作するに至ったかを確認し、ケイト・ウィンスレット演じるミルドレッドという女性の経験と欲望を考察していきたい。

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