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小さいころから読書が好きでした。近所の図書館で、一回で借りられる本はマックス10冊。カバンをパンパンにして帰路につき、途中で待ちきれなくて歩きながら読んだりしていました。
家にもたくさん本がありました。子供用に買い揃えられた本もあって、その中のひとつが「世界の偉人伝」のような絵本でした。偉人伝は、いつの時代も子供の教育を意識する親に人気がありますよね。
さきほど「伝記 子供用」でググってみたところ、たくさんの商品が確認できました。一番上位に表示されたのは、『改定新版 せかい伝記図書館』(いずみ書房)。全36巻で、93人の偉人の伝記が収録されています。私の家にも、これと似たような絵本がずらりと並べられていました。
しかし、それらの本を、私は好きではありませんでした。この偉人伝を読んだことで、私に良い影響があったのかどうかは、わかりません。もしかして、マイナスの影響の方が大きかったかも知れないとすら思います。
なぜなら、偉人たちの男女比が偏りすぎていたからです。
女性の“偉人”はとにかく少ない
『改定新版 せかい伝記図書館』で取り上げられている女性は、93人中6人です。偉人伝を読む効果は様々あるでしょうが、ひとつは「自分のロールモデルになる人を見つける」という効果が挙げられるでしょう。しかし、偉人伝には、たくさんの男性たちの姿がありましたが、女性はわずかしか見られません。
ひときわ輝かしい業績を残したマリ・キュリーの紹介のされ方も示唆的です。男性の偉人たちのいずれも、「〇〇の夫」とは紹介されていませんが、マリ・キュリーは、「キュリー夫人」と紹介されます。
男だらけの国会を見て育つ子供たちは、「政治は男性の仕事なのだな」と思い込んでしまっても不思議はありません。男だらけの偉人伝にも同じことが言えるのではないかと思います。「男だらけの偉人伝」には、男の子をエンパワーする効果はあるかもしれませんが、女の子にも同様の良い影響を与えられるかは疑問です。
ただ、偉人伝を編纂した人が性差別主義者だということではまったくありません。公平に、世界の偉人と言われる人をピックアップした場合、誰が編纂したとしても、男だらけのラインナップになることは避けられないと思います。
『才女の運命』男たちの名声の陰で
なぜ偉人は男性だらけなのか。その謎に対するひとつの答えを、『才女の運命』(フィルムアート社)は教えてくれます。
『才女の運命』は、ドイツの学者であるインゲ・シュテファンによって約30年前に上梓され、今もドイツで版を重ねている一冊です。日本でも25年前に翻訳書が出版されていましたが、今年(2020年)に入り新版が発売されました。
本書では、マルクス・トルストイ・アインシュタイン・フィッツジェラルド……など、誰もが知る天才たちの妻や愛人にスポットを当てています。取り上げられるのは、音楽家、画家、彫刻家、作家、数学者、歴史家、神学者として、才能や野心、熱意を持った女性ばかりです。
芸術家として、または学者として生きていきたいと望み、男性とも対等な関係を築こうとした女性たちは、その努力をことごとく打ち破られます。
かつて、ヨーロッパの女性たちは、大学や美術学校で教育を受けることが許されていませんでした。(教育を受けることが許可されたのは20世紀初頭です)学ぼうと思っても、学べる場所がなかったのです。ようやく学ぶことが許可される場所を見つけたとしても、その料金は男子学生が通う学校よりも高く、授業の質は低かったと言います。
教育の機会だけが、女性の熱意や才能をへし折ったのではありません。もっと大きな問題として、この時代の男女関係や、結婚というシステムがあります。当時の男女関係は、女性の側ばかりに無償の献身を要求するものだったのです。
たとえば、オーストリアの音楽家グスタフ・マーラーは、断固とした態度で、芸術家同士の結婚における男女の関係を定義しました。妻となるアルマも作曲家であったにも関わらず、マーラーは、結婚式の少し前に送った手紙で、次のように書いていたそうです。
<君の仕事はこれからはたった一つ、ぼくを幸せにしてくれるということだけなのです。わかりますかアルマ、ぼくの言っている意味が? 『作曲家』の仕事はぼくに割り当てられる。夫を愛する伴侶、そして理解にあふれるパートナーとしての仕事がこれからの君の役割になるのです>(P.19)
マーラーの男尊女卑思想が際立っていたというわけではありません。思想や価値観にも流行はあります。結婚したら女性は自己主張を捨てて夫に尽くすべし、というのが当時の当たり前の感覚だったのです。男尊女卑がデフォルトの時代、と言ってもいいでしょう。
どれだけ才能溢れる女性だったとしても、結婚後に自身のキャリアを追求することは不可能でした。いくら才能があっても、女性はせいぜい男性のミューズや秘書、世話人として、男性を支えるのが関の山でした。
<女性を抑圧するイデオロギーと、教育の機会の乏しさとがぴったりとかみ合っていた。もちろん男性のイデオローグ(引用者註:イデオロギーの創始者)たちは女性のために慰めを用意してもいた。自らの想像力を愛する夫の芸術のために捧げるならば、女性たちは真の存在意義を勝ち取ることができるというのである。>(P.190)
彼女たちの能力や労働力は、男性たちの功績に回収されました。彼女たちに与えられるのは、せいぜい「いい奥さんだね」と褒められるだけであり、正当に評価されることはなかったのです。
トルストイの妻で文学者のソフィアは、彼の日記を清書し、編集者の役割も担っていました。1日に5時間以上眠る日はなかったし、彼女のパッションであった絵や文章に取り組む時間はとうていありませんでした。
才能ある彫刻家だったカミーユ・クロデールは、ロダンの有名な彫刻作品『口づけ』『オーロラ』『思考』などのモデルになっただけではなく、ロダンの作品の手と足を担当しました。彼女の貴重な時間は、ロダンの名声を高めるためだけに使われました。ロダンと別離した後は、収入源も絶たれ、石膏像しか作成できなくなり、精神に異常をきたしました。
学問的野心と才能のあった女性で物理学者のミレヴァは、アインシュタインと共同研究を行いますが、結婚後は、共同のサインの代わりに、アインシュタインの名前だけが書かれることになりました。共同研究の成果はその後、アインシュタインにのみ世界的名声と世界の大学でキャリアを積むチャンスをもたらしました。その後、アインシュタインはミレヴァに離婚を求めました。
偉大な作家フィッツジェラルドは、同じく作家の妻ゼルダの手紙や記録類からテキストを抜き出し自身の小説に使っていました。ゼルダは精神病院に入院したあとフィッツジェラルドに手紙を送っており、それは彼にとって新たなインスピレーションの源になりました。彼女の手紙の大部分を、彼は、小説『夜はやさし』でほとんどそのまま使用しています。
マーラーやトルストイ、ロダン、アインシュタインなど“天才”の名前は広く知られています。しかし、その陰にどれだけの犠牲、献身があったのかは伝えられず、知る機会がほとんどありません。天才のそばにいた才能ある女性たちは、情熱と能力を夫のため、または子どものために使い果たし、希望に満ちていた自由な精神をすり減らし、自己犠牲と後悔に苛まれ、搾取されていたのではないでしょうか。
「内助の功・ミューズ」への賛辞は、犠牲や搾取のめくらましでは?
忘れられ、排除されてきた、様々な分野における彼女たちの存在を知るにつけ、有名な天才たちの陰に隠れ、決して語り継がれることのなかった無名の天才たちの無念に、思いを馳せざるを得ません。
<男性の天才がその能力をいかんなく発揮できるために必要な日常生活の枠組みを、事務的な面でも感情的な面でも作り出す妻として、男性の天才に知的な、あるいはエロティックなインスピレーションを与える芸術の女神として、この世のことは捨て去って次々と新たなライフワークに取り組ませてくれる完璧な秘書として、そして、偉大な作品の成功のために尽力する名もない協力集団として、女性は何世紀にもわたって男性の創作活動の場にお定まりの席を持っていた。「彼女がいなければこの作品は完成され得なかっただろう」という言葉で、「愛する妻」やその他の女性協力者たちに向けられた事務的な謝辞に、我々は本の序文や後書きなどでしょっちゅうお目にかかるが、これは裏切りに満ちた言葉なのである。というのも、これらの謝辞はほんの短い間、協力してくれた女性たちにスポットを当てはするものの、それはすぐにまた女性が関与した部分を消し去ってしまうためにすぎないのだから>(P.224-225)
現代でも、男性が偉大な賞をとったとき、メディアでは、「内助の功」の物語が繰り返し報道されます。日本人男性がノーベル賞を受賞したら、マスメディアは必ず「内助の功」エピソードを出したがりますね。スポーツで頑張る男性のために献身する女性マネージャーも、「心温まる物語」としてフィーチャーされます。でも女性が賞をとったときに、その女性を支える男性が「内助の功」として報道されることってあるでしょうか。女性だらけの部活を男子マネージャーがサポートした美談は? 監督やコーチではなく、マネージャーです。誰もそんな物語は望んでいないかのように、男女逆の物語については触れられることがありません。
あらゆる人にとって体力や時間は有限です。誰かのために時間を使えば、自分の時間はなくなります。他人への献身や自己犠牲が女性だけに求められる限り、偉人伝の男女比率も永遠に変わることはないでしょう。
女性が自分の情熱や野心、キャリアを追求しようとすると「でしゃばるな」と言われ、労力に対する正当な報酬も支払われず、結婚後は自分より夫や子どもを優先しろと圧力をかけられる。これを不幸と言わずなんと言うのでしょうか。もう「内助の功・ミューズ」といった言葉の欺瞞を、無視することはできません。
(原宿なつき)