『水曜どうでしょう』はなぜホモソーシャルに陥らないのか 栗田隆子×西森路代

文=カネコアキラ
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いまや伝説的な番組となった『水曜どうでしょう』(北海道テレビ、以下『どうでしょう』)の最新作「北海道で家、建てます」が、2020年3月に最終回を迎えた。現在、各地の放送局で放送されている最中だ。

いち地方局である北海道テレビ制作の『どうでしょう』は、1996年の放送開始から徐々に全国的に拡大し、レギュラー放送が終了した2002年から20年近く経つ現在も各地で放送されている。

出演者の大泉洋、鈴井貴之、ディレクター・藤村忠寿、カメラマン・嬉野雅道の4人が全国、そして世界中で荒唐無稽な企画を行いながら、互いに罵り合う『どうでしょう』の大ファンであると語るライターの栗田隆子さんと西森路代さん。フェミニズムへの関心も高いおふたりが、はたからみればホモソーシャル的なこの番組になぜハマることができたのだろうか。最新作完結をきっかけに、改めて『どうでしょう』の魅力を語り合っていただいた。

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栗田隆子
神奈川県出身。文筆業。女性の労働問題、貧困問題を主なテーマとして執筆活動を行う。著書には『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社 2019年) 。「高学歴女子の貧困~女子は「学歴」で幸せになれるか?」大理 奈穂子(著),栗田 隆子(著),大野 左紀子(著),水月 昭道(監修)(光文社新書 2014年)。00年代当時「フリーター」と呼ばれる当事者を中心とした雑誌『フリーターズフリー』1号~3号(2007年~2015年)の編著者を務める 。そのほかエッセイ・論考等メディアにて発表。

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西森路代
愛媛県出身。ライター。地方のテレビ局勤務を経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務、ラジオディレクターを経て現職に。香港や台湾、韓国、そして日本まで、アジアのエンターテイメントについて主に執筆。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)がある。現在、新聞、雑誌、WEBサイト等で連載やコラムを発表している。

『どうでしょう』との出会い

栗田 私は『どうでしょう』をリアルタイムでは見ていませんでした。『どうでしょう』のことを「男同士が愚痴りあい罵倒しながら旅をする様子を撮り続けている」って書いている新聞記事をどこかで読んだことを覚えていて、「男性の芸人さんがどつきあっているような、いわゆる「イジリ」とかがあるマッチョな番組なんだろうな」と思ってしまったんです。落語は好きなんですけど、いわゆるど突き合ったり、人を「イジる」といった「お笑い」は苦手で。

でも、あるとき、ネット上にアップロードされていた『どうでしょう』を部分的に見てみたら、ディレクターの藤村忠寿さんが大泉洋さんを「鈴虫!」と言ったり、反対に大泉さんが藤村Dのことを「大魔神」「カブトムシ」と煽ったりしていたんですね。「確かに罵ってはいるけど、想像していたものとはずいぶん違うな。むしろ仲のいいグループで敢えて悪口を言い合って楽しんでるみたい」と思いました。それからDVDや配信サービスで見続けるうちに、どんどんハマっていきました。西森さんはどのように出会ったんですか?

西森 私もリアルタイムでは見ていないんです。当時は『パパパパパフィー』(テレビ朝日系)で大泉さんが邪険に扱われているのをみて、面白い人がいるんだなあと思っていたくらい。大泉さんに注目し始めたのは映画『探偵はBARにいる2』のときの取材がきっかけです。そこで大泉さんのファンになって、『どうでしょう』を見始めました。私がハマった頃には大泉さんはもうスターになっていたので、「北海道ではこんな扱いをされていたのか!」って驚いたんですよね。藤村Dや鈴井貴之さんから無茶ばっかりやらされてヘトヘトになっていて(笑)。

栗田 シリーズを通して大泉さんはずっと騙されてますからね(笑)。大泉さんを好きになった理由に、同い年というのもあると思います。同級生がわちゃわちゃ楽しく笑いあっているのを見ている感じ。でも、大泉さんみたいなタイプが教室にいたら、私は遠くから眺めてクスッと笑っているようなタイプですけど(笑)。だからこそテレビを通して大泉さんや他のメンバーがわちゃわちゃしているのを見ている、という感覚がすごいしっくりくるといいますか。それに大泉さんは番組に出た当初はただの大学生でしたよね。私たちの世代は超氷河期で就職もしんどかった。だから大泉さんがいわゆる「就職」をせずになんとなくアルバイト的な感覚で、『どうでしょう』に出て、大学卒業後もそのままどうでしょうに出続けた感覚がよくわかるんですよ。

西森 それについては、私がインタビューしたときにも「よく考えると、私らの頃は『将来を決めないこと』に対して追い風だった時代だったのかもしれないですね。不況で就職先も見つからない、だったら好きなことをやってもいいんじゃないっていう空気がありました」と大泉さん自身が言われていました。

私たちの頃って、女性は腰掛け程度で働かせてくれるところしかなかったですよね。私は就職はしたけど、一生そこで働ける気がしなくて、実際その後辞めて途方に暮れて上京してきたし、その根無し草な感じはよくわかる。

栗田 そうそう。あと大泉さんって「おじいちゃん子」のせいなのか、古いネタを普通に知っているんですよね。小林旭のモノマネとか、「アメリカ横断」企画の時には昔のカントリーの歌手、小坂一也の「ワゴン・マスター」という歌を歌って、藤村Dに「なんであんたそんな歌知ってるの!?」と突っ込まれていたり。お笑いの教養もあって、おじいちゃん子が大きくなって年上に面白がられている。

西森 そういう感じですよね。ずっと落語聞いていたり。

栗田 語りが落語家さんっぽいですよね。大泉さんは柳亭痴楽(4代目)が好きで、大学には落語研究会がなかったから演劇に行ったと言っていたのを聞いたことがあります。ああいう落語家さんがいてもおかしくないなって思います。だから「お笑い」が苦手な私でも好きになれた気がします。

藤村Dが『どうでしょう』を決定づけた

栗田 『どうでしょう』って男性4人が集まっているのに、ホモソーシャル的なマッチョなノリがあまり感じられないのが不思議だなと思っています。いつもアクシデントが起きるというのも、いまひとつマッチョになり切らない理由だと思うんです。

西森 これがホモソーシャルの特徴なのかはわからないですけど、走りだしたら止められない、目標に必ず到達しないといけないということがありすぎると、集団って歪になりやすいと思うんです。でも、この番組って「ちゃんとした形で完成させないといけない」という意識が少ないと思うんです。藤村Dは、「カメラが何も撮れていなくても音や文字だけでなんとかする」ということをやってますよね。でもそれってテレビマンの常識では許されないはずで。そういう、保守性に抗う感じや、予定が崩れたときでも、流れに身を任せられる感じが、ホモソーシャルにならないひとつの理由なんですかね。

栗田 「マッチョ」の特徴のひとつに、その場や状況を自分でコントロールしたいって気持ちがあると思うんです。藤村Dってマッチョなところもあるわりに、予定を覆されるところをそのまま見せていて。例えば、釣りバカ対決シリーズの「門別沖釣りバカ対決」の時は、もともと乗り物に酔いやすい大泉さんと同時に藤村Dも船酔いしてダウンしちゃうし。

西森 あと、ただ聞いていると、藤村Dの笑い方もマッチョな感じすると思うんですよ。でも、よくお笑いの番組で見る、ことさらに笑うディレクターみたいな感じでもなくて。

栗田 不思議ですよね。藤村Dの『けもの道』(角川文庫)という本を読んだことがあるのですが、意外にと言ったら失礼ですが、普通のディレクターだって感じるんです。ラグビー部のキャプテンを経験してて体育会系だし。しかも彼は入社して5年間はHTB(北海道テレビ)の東京支社の編成業務部というところにいて視聴率とお金の計算ばかりしていたそうです。だから『どうでしょう』を作る時には本当にシビアに「視聴率の高い番組を作る」と決めていた、と。そのもとできちんと彼自身の番組づくりの方針を持っていて、役割に徹するところがあるといいますか。

西森 それと、お笑い番組で笑うディレクターや構成作家とかっていうのは、演者とか前に出てる人に対して「私はこんなにあなたに忠誠を誓っていますよ」という忖度アピールもありますからね。そういう関係性じゃないので、豪快な笑い声にも、ホモソーシャルに感じないのかもしれないですね。それと、藤村さんが、しっかりしたテレビマンだというのはやっぱり『笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考1』(朝日新聞出版)を読んだときにも思いましたね。

栗田 そう。いろいろなことをコントロールできずに振り回されながら番組を続けるイメージとはぜんぜん違う。

西森 本を読んでいると、そんな藤村Dの意思が『どうでしょう』の方向を決めたと思うんです。ハンディカメラで撮るべきじゃないとか、何も映ってない状態はダメとか、そういうものに抗う強い意志がある。局の上の人からも、ちゃんとしたカメラを使うようにと言われるんですけど、それを「テレビとしての体裁」であり「地方の保守性」だと藤村Dは言ってるんです。

それと、藤村Dは、この番組を壮大なドキュメンタリーと位置付けているんですけど、行き当たりばったりに見えて、そういう大きな流れっていうのは、テレビマンとしてしっかりとあるんですよね。

栗田 藤村Dって労働組合委員長の経験もあるんですよね。新作も労働組合色が出てましたよね。大泉さんを使用者側として、藤村Dやミスター(大泉さんが所属している事務所CREATIVE OFFICE-CUEの会長であり、『どうでしょう』の出演者でもある鈴井貴之さんのこと)、カメラマンの嬉野雅道さんは炭鉱の労働者ってことになっている(笑)。『どうでしょう』新作ではないのですが、何かの折に大泉さんに「君はそういう(左翼っぽい?)本ばかり読んでいる!」って藤村Dに突っ込んでたり(笑)。

西森 番組を見ているとそういうところを感じますね。それから藤村Dがあとになって演劇をはじめたのも面白いなと思っています。「いまさら演劇なんかはじめて」って言われていたけど、年をとってから新しいことを始めるのってやっぱり柔軟性だから。

栗田 展開がある。

西森 リベラルな人がなんらかの表現方法を求めて年を取ってから演劇に行くのってなんとなくわかるじゃないですか。

栗田 現状にとどまっているだけでいいのか?という問いが生じたり、そこから新たな自分の表現の仕方、物事へのアピールの仕方などをある程度歳をとったからだからこそ、模索するのはわかります。

西森 テレビマンで、しかも隣に俳優がいるのに。もちろん、会社の中でも異端であるとか、収益を出しているからこそできることかもしれませんが。

『水曜どうでしょう』はダメさを曝け出す

栗田 私はカメラマンの嬉野さんにも注目しています。控えめで、カメラワークがすごくいいとかキャラクターが濃いといういうわけでもない。もちろん編集が入って演出している部分があるとは思いますが、ほとんど人を写さないで窓越しの風景を撮ってしまっているとか、『どうでしょう』のレギュラー番組としての最後の企画「原付ベトナム横断ハノイ→ホーチミン1800kmの旅」でも、せっかく鈴井さんのバイクの後ろにタンデムでカメラ持ちながら乗って、大泉さんの顔を正面から映すチャンスがあるのに、そういう撮影はしないとか。でもだからこそ狭い「有能」という枠では汲み取れない魅力をもった人だと思うんです。浮世離れというか、泰然としている感じ。藤村Dは嬉野さんを「(嬉野)先生」と呼んでるし。仙人的な意味での「先生」って雰囲気がある。

西森 嬉野さんにインタビューしたときは、すらっとしていて、すごいおしゃれな雰囲気だなと思いました。「HTBに来たら普通にお茶を飲みに来て大丈夫だよ」って言われていて。社内でそういう風に誰もが来られる場所を作っているということでした。行ったことはないんですけど。

栗田 藤村Dと嬉野さんってスターウォーズのR2D2とC3POみたいなところがありますよね。お互いに能力主義でつながっているわけではなくて。

西森 R2D2とC3POのコンビ大好きです(笑)。いるだけで関係性が漫才みたいなところありますよね。

栗田 嬉野さんも若い頃のミスターも素敵なビジュアルなのに、その部分を打ち出したり、フォーカスをあてるわけでもない。「持ってる能力や魅力は全部活用しなきゃ!」みたいなものとの距離がある。

西森 失敗は全部活用するのに(笑)。嬉野さんは最新シリーズでもログハウスの柱に塗料を塗るときに「これくらいしかできないってわかってるから」「俺はもうね、ディレクターもできねぇから」って言っていて。大泉さんに「悟ってるなあ」って言われてましたね(笑)。

栗田 どうでしょう原付日本列島制覇の時は病み上がりだったせいもあるらしいですが、カメラ撮影は他の人がされてたらしく、完全に大泉さん曰くの「一視聴者代表」みたいになってる。その立ち位置がちょっとかわいくてずるい(笑)。

あと今度はミスターの話になりますが、ミスターは当初はすごく自分たちが「頑張る」ところを見せようとしてたみたいなんですよね。深夜バスの企画でも、『どうでしょう』の最初の頃のミスターはちゃんと喋ってるし、仕切ろうとしてるし。自分たちは無名だからこそすごい強行スケジュールを組んででも、がむしゃらに身体を張って頑張っている姿を見せないと面白くならない、と考えてたそうです。そのスタイルをどうでしょう用語では「合宿」と呼んでるようですが。これはすごくマッチョで、ちょっと怖いですよね。

――鈴井さんは不機嫌になると黙っちゃったりして、ときどき怖いなって思います。

栗田 しかしこういったらミスターに失礼になってしまうと思いますが、その頑張りのままずっと放送され続けてたとしたら、どうでしょうがこんなにも長く愛される番組にはならなかったのでは?と思います。

「アメリカ横断企画」のときにインキーして車に乗れなくなったり、サイコロの旅(サイコロの目で行き先を決める番組の代表的な企画)で過酷な目を出すのはたいがいミスター。「絵ハガキの旅2」(くじ引きのように絵葉書を引いて、その風景に描かれた場所に日本中を移動する企画)では他の都府県に移動をするはずだったのに始まってすぐにいきなりスタート地点である北海道の札幌時計台の絵葉書を引いて日帰り旅行になってしまったり、「原付ベトナム1800km」でカブに乗っている最中にポケットに入れていたトランシーバーを落とすという地味なのに致命的なミスをして、『どうでしょう』の「伝説」を作るのはミスターなんですよね。ミスターがよしとしてきた「頑張り」よりも、いわゆる「イケメン」なのにとんでもなく残念なエピソードに彩られたミスターの方に、一視聴者の私としては親近感が湧きました。

「ヨーロッパ21ヶ国完全制覇」くらいから、むしろ大泉さんと藤村Dのやり取りを中心にしてミスター自身は一歩引くと決めたという話を聞いたことがあります。その結果として「頑張り」が後退していき、ひいてはマッチョさとの距離にも繋がったように感じます。それはどうでしょう用語で言うところの「合宿」スタイルから、とにかく飯より宿をキープして、ゆるく旅をすればいいと言う「ミスターのいいじゃないか!運動」に転じたという表現になります(笑)。

ただし、それはあくまで『どうでしょう』内の話で。鈴井さんの元妻で現在CREATIVE OFFICE-CUEの代表取締役である伊藤亜由美氏(出版当時は鈴井亜由美氏)の話が掲載されている『CUEのキセキ クリエイティブオフィスキューの20年』(メディアファクトリー)には、私生活での若い頃の鈴井さんの酷いエピソードも書かれています。

そういう怖いところがあるけど、少なくともどうでしょうという番組におけるあの四人の関係性の中では運の無さとかダメなところが前面に出ていて、関係性の中でマッチョな部分が浮きあがりにくく、救われているんだと思います。

西森 確かに、男性の生きづらさの話の中で、弱音がはけないこととか、ダメなところを認められないことがよく挙げられますが、『どうでしょう』ってダメさをさらけ出しているんですよね。

それは大泉さん自身のキャリアにも良い意味で作用していると思います。大泉さんがリアリティのあるロスジェネ世代を演じてこれたのって、ダメさをずっとさらけ出してきたからだと思うんです。それが唯一無二の存在感になった。ダメなキャラクターを演じて俳優として大成する人なんてほかにいないんじゃないですかね。最近はけっこうスーツの役も多くはなっていますが。

栗田 2004年に放映された「ジャングル・リベンジ」ではジャングル内のトイレが暗く、大泉さんが怖くて一人では入れないということで、藤村Dと嬉野さんに明かりをつけてもらって、見守られながらみんなの前でトイレをする羽目になったり。でも大事なのはそこをただイジって「笑い者」にするのではなくて。確かにD陣(ディレクター二人)は笑ってはいるのですが、それでも「もう、気の毒で、気の毒で……」と嬉野さんが泣き出したり、「(明かりを)照らしてやれよ、照らしてやれって!」と藤村Dが励ましたりと、ただ「笑い者にする」とか「いじる」だけにはならない感情の綾があるのがいいんですよね。

ホモソーシャルにならない理由

西森 あそこまで曝け出すと、そのことがむしろ「勇敢なこと」とされてホモソっぽくなるのに、『どうでしょう』はそうならないんですよね。

栗田 「曝け出してる自分」を演出しようとしているわけではないからだと思うんです。

西森 わかります。「あのときつらかったけど、あとでこれをネタにして笑いをとれば救われる」みたいな転換ってしんどいけど、『どうでしょう』はつらいときにつらいって言っているから。さっきも栗田さんが言われていたように、人間性をさらけ出すということにも「頑張り」を強要する感じではないんですよね。それって、ものすごく今につなげてしまいますけど、リアリティーショーの問題にもつながるところですね。

栗田 笑かそうとしているんじゃない。それぞれが何か固有のキャラクターを打ち出して演出しているんじゃなくて、あの4人の関係性がそのまま出ているんだと思います。

西森 『どうでしょう』はさっきも触れたようにドキュメンタリーなんですよね。ドキュメンタリーってディレクターやプロデューサーの力がすごく出るんですよ。もし藤村Dが「こういうキャラで面白くして」って指示していたら違う番組になって早く終わっていたかもしれないし、旅に行ったんだから、いっぱい見せ場を作ってねという無言の圧をかけていたら、みんなそれに従っていたのかもしれません。でもそうではなくて、困ったときに困ったままを撮っているから面白くなった。

東海テレビって、今やドキュメンタリーですごく有名なんですが、そのドキュメンタリーをけん引している阿武野勝彦さんてプロデューサーは、ドキュメンタリーというのは「イベント的な、派手なものを繋ぎ合わせてはいけない」と言われてるんですね。イベント的な見せ場が撮れると、メリハリもついてディレクターなら「おいしい」と思ってしまう。でも、人間ドラマって、そういうところにあるんではないってことだと思うんですよ。

あと、『ハイパーハードボイルドグルメリポート』っていうテレビ東京のドキュメンタリーがあるんですが、プロデューサーでディレクターの上出遼平さんって、たった一日だけしかその人を追いかけていないのに、出会ったばかりの難民の男の子との関係性がものすごく濃密になっていて。他の人が同じことをしても絶対同じ番組にはならないはずです。それだけ人を追うディレクターの人間性って番組に表れるもので、『どうでしょう』も、やっぱりディレクターが出演している人たちと、どう関係性を築くかが番組に表れているなって。

栗田 『どうでしょう』は、ひとネタやらせようみたいなことを抑制している気がします。「面白いことをこいつに言わせよう」みたいなものがないですよね。いわゆる一発芸ではなくて、状況とか、文脈の中で出てくる言葉ややりとりが面白いという。

西森 そうですね。私、大泉さんが「ヨーロッパ20ヵ国完全制覇 ~完結編~」で、渡辺篤史のモノマネで「小林製薬の糸ようじ」を連発する回が大好きなんですけど、あれも一発芸を強要されたんじゃなくて、大泉さんがもう自分で面白くなっちゃって止まらなくなってるんですよね(笑)。ああいう夜中のノリみたいなのの面白さを、そのままテレビの向こう側にまで伝えるのって難しいんですけど、ある種のドキュメンタリーだからこそ伝わるのかなと。

『電波少年』にならない世界観

栗田 『どうでしょう』の面白さにコミュニティができていく点も挙げられると思うんですよね。ハマった人が友達に布教しちゃう。名台詞みたいな独特の言葉を合言葉のように言い合って楽しくなったり。

西森 早くからファンを集めた祭り的なものをやっていましたよね。アーティストやアイドルのファンクラブみたいに、ファンが集まるような場所を作るのは昔からありましたけど、番組、それも地方局が長きに渡ってコンスタントにファンを集めるような仕組みを作っているのは珍しいと思います。だからこそファンダムが出来上がっていく。

栗田 私たちベビーブーマーの世代は人も多いですもんね。番組のHPでも一生懸命コミュニティの運営をしてましたよね。いまもYouTubeでやってる。

西森 古いテレビマンはやらないようなことをやっているんですよね。

栗田 しかもそれをやっているのがいち地方局の人たちという。

西森 すごいことですよね。なんでもないただの大学生が出ていた番組20年経った今でも何度も何度も放送されている。

『電波少年』(日本テレビ系)は『どうでしょう』に先行していて、当時は爆発的な人気があったけど、あっという間に消費されつくしてしまったじゃないですか。今もし再放送があっても、再度見て、すごいってなるとは思うけれど、するめのように何度も噛むみたいな楽しみではないと思うんですよ。やっぱりあの番組は「事件」と「頑張り」を見る番組だから、見ている方にも緊張感があって、何度も見るには刺激が強い。でも、『どうでしょう』は、これ前に見たなってものをやっていても、やっぱり見て、ふふって笑ってしまえる。消費って一瞬のものと、長く続くものがあるんだなと。

大泉さん自身、消費されることを意識的にコントロールしてると思うんですよね。東京でバラエティのレギュラーは持たないって言われているし、TEAM NACSの舞台も何年かに一回で。それもずっと続けられるということを考えているのかなと。

栗田 いわれてみれば確かにレギュラーで出演してないですね。

西森 バラエティは映画の宣伝で出るだけ。それと東京では『SONGS』(NHK)のレギュラーがあるだけで。

そんな風に、一気に消費されないようにしながらも、一方でアイドルみたいな存在であることも認めている。事務所の『CUE DREAM JAM-BOREE』ってイベントでは歌ったりトロッコにのったりしているわけで。珍しいですよね。いま50歳近くになってまで続いているグループってなかなかないじゃないですか。SMAPさえ解散しちゃいましたし、EXILEも新陳代謝をするわけですし。

栗田 嵐も解散宣言してますしね。私が小さい頃は40を超えたアイドルなんていなかった気がします。

西森 アイドルグループとしては世界中に40歳を超えるまで休止なしで続けてる人たちってそうそういなかったし、そこは本当に日本の独自性だったと思います。どっちかというと40代は再結成の時期ですよね。

栗田 資本主義社会の今、まったく消費されずに生きていくのは難しいと思うんです。その中で、4人は消費についてこれだけ考えさせてくれる。

西森 芸能にかかわっていく以上、消費について考えざるを得ない立場だと思うんですけど、さっきも出てきたように、同じような成り立ちに見える『電波少年』と比べると全然違う。それはやっぱりディレクターの考えの違いもあれば、局としての違いもあるんでしょうね。やっぱり、無名の人ばかりの地方の番組を、DVD化したり、番販してきたってことは、今では当たり前に見えて、ものすごくフロンティアなことだったんだと思います。

栗田 画面から感じる圧力というか、世界観が違うんですよ。

西森 あと『電波少年』の場合、スタッフ側は黒子ですよね。

栗田 私たちの視線だけになってますね。

西森 一方で『どうでしょう』はスタッフとのコミュニケーションがある。ディレクターもカメラマンも出演者のひとりだから、被写体だけに求めすぎることはなくなるのかもしれないですね。支配、被支配の関係性みたいなものもフラットになりやすい。それも、リアリティーショーを考えるときの、重要なポイントかもしれない。

栗田 ディレクター陣も一蓮托生の運命というか、一緒に苦労していますしね。

西森 結局、撮っている側の人間味が左右するんだと思います。

栗田 私たち側も、ただ起きていることを見ているんじゃないと思うんです。ドイツの道端でキャンプする羽目になったときは、なんだかこちらも一緒にキャンプしているような気分になっていて。

西森 そうですね。「画面の中の人」として切り離して、こっちは見ているってだけなのが消費なんだなって思いました。『どうでしょう』のファンとのイベントも含めて、本当に「一緒に」「寄り添いながら」これから年を取っていく感じがありますしね。

『どうでしょう』をなぞればいいわけではない

――もう一度4人の話に戻したいのですが、あの4人組からホモソーシャルっぽさがまったくないとは思えません。たとえば、ああいう4人組の中に女性が入ったら、かなりしんどい気がするんですよね。

西森 ホモ・ソーシャルって女性を異性愛の対象として必要としながら、自分たちの絆を強固にするために、異物である女性を排除するということだと思うんですけど、なんか、『どうでしょう』って、異性愛への欲望がまったく見えない番組ですよね。それって、歪なことみたいに聞こえるかもしれないけれど、女性だけの空間でも、そういう空間って妙な心地よさがあったりすると思うんです。例えば『映像研には手をだすな!』なんかにも感じるもので。

だから、もちろんあの4人には番組を離れたときには、家庭があったりするんですけど、あの空間が男性だけでいい関係性を築けるならそれでいいのでは、というのはあります。女性は女性で好きにさせてもらいたいからというのもあって。女子会でどうでもいいような話をしているのを男性に「けしからん」って言われる筋合いがないように、男性は男性同士でホモ・ソーシャルではない男性だけの空間があってもいいと思うんです。それこそ『ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド』のブラッドピットとディカプリオみたいに、男性同士がダメなところをぶつけ合いながらも癒しあう様子は、見ていると安心するというか……。

栗田 一般的な話ですが、若い女性をわざとらしく入れる場合のほうが、見ていてつらいと思うときはありますね。ホモソーシャルの気持ち悪いところは女性を排除しているくせに、女性を求める二律背反なんですよね。

西森 そうですそうです。絆の中にいれないくせに性的に求めているのが問題であって。ミソジニーが排除されている中で男性同士が癒しあうのはむしろいいんじゃないかって思います。

――あの4人の中にホモフォビックなところはあると思いますか?

栗田 ヨーロッパ縦断企画のとき、ツインルームをお願いしたのにホテルの人間にダブルベッドの部屋を割り振られたシーンがありましたよね。

――大泉さんは強い口調で「ウィーアーオールメン!」ってホテルマンに言っていました。

栗田 受け取り方によってはホモフォビックに感じられますよね。「俺たちはゲイじゃない」って雰囲気も確かにありました。

ただそのシーンで藤村Dは「不思議な4人組と思われた」ってアナウンスしていたんです。独特の言葉遣いですよね。ベストとは思わないですけど、当時にしてはニュートラルな言葉を使って納めたのかも。

そういえば藤村Dは、これも先ほど触れた彼の本『けもの道』に書いてありましたが『どうでしょう』を作るときに意識したいくつかの規範の中に、「下ネタと恋愛話を入れない」があるそうです。これはフェミニズムを意識してというより、視聴率を上げるためには「(視聴者の)ターゲットは絞らず女性も男性も見られるようにする」と決めたみたいで。そうなると「男同士が集まれば必ず下ネタも出てくるけど、そんなものは自分たちが楽しいだけで、女性は聞きたくもない」から下ネタは出さない。逆に大泉さんの好きなタイプなんて聞いても面白くない人もいるから恋愛話は出さないことにしたそうです。

その話を知ってから意識して見てみたら、確かに下ネタはほとんど出てこないんです。アラスカにオーロラを見に行く企画では、現地のドライバーが下ネタを言い続ける様子を「下ネタばかり言い続けているんですよ」とあっさり終わらせていましたし、ある企画で自動車での移動中に、大泉さんが読んだという渡辺淳一の官能小説「失楽園」の朗読をするくらい。これも下ネタというよりは、むしろ「失楽園」そのものを笑いのネタにしている印象で。そのあたり藤村Dはやっぱり意識的なんだと思います。

西森 大泉さんはそれこそ北海道の番組にでているときやTEAM NACSでいるときのほうが、マッチョなところが見えることはありますね。

ただ大泉さんって自分ですごく慎重で豪快なところがないって言われているのはいいなと思っていて。『青天の霹靂』という映画にでたとき、やっぱり物語だから、登場人物が何かを「言わない」ことで誤解が生じて、そのことで物語がまわっていくところがあったんですけど、「自分は言わないことでトラブルになるのは耐えられない。全部説明したい」って言っていたんです。多弁な理由なのかもしれません。

栗田 そのくせ、法螺話の内容はいつもマッチョ(笑)。

西森 法螺ってわかる話をしますからね。

栗田 「松方弘樹と俺は仲がいい」みたいな。本当にマッチョな人が言っていたら「はあ……」って感じですけど。

西森 人を言葉で笑わせたいというサービス精神もあるでしょうしね。

栗田 『どうでしょう』はホモソーシャルっぽさは確かにあるのだけど、藤村Dの演出のうまさとか、4人の組み合わせの妙によって絶妙にできているんだと思います。でも、あの4人の関係性が誰にとってもいいものだって思うのは違う。他の人が真似もできない。あくまでその関係は単独性というか、すべてに当てはめることが可能みたいに考えちゃいけないですよ。

西森 ドキュメンタリーですからね。あの人たちだけがたどり着いた関係であって。

栗田 そうそう。あの4人の真似をするのがジェンダー的にいいってことでもないし、問題がまったくないわけじゃない。例えば男性で、子供の頃に同性として男性にいじめられた経験がある人の中には、あの関係性がしんどいと感じる人もいるはずです。普遍的なジェンダーモデルになるようなものではなくて、そこでしか起き得ない、それぞれの単独な関係性をどれだけ大切にできるかって話なんだと思います。マッチョやホモソーシャルは、個人の努力とか「キャラ」だけでどうにかできるものではなく、どういう関係性をどういう理念のもとで築くかという点を意識するところに、解決の糸口があるのかもしれないと『どうでしょう』を見ていて思います。

西森 あと私は今の時節柄、やっぱりテレビとして、人を映すというときの矜持みたいなものも考えてしまいましたね。作り手が演者に求めすぎないこと、そして視聴者も求めすぎないことにつながると思います。『どうでしょう』の場合、作り手が出演者にもなっているからってこともあるんですけど、ドラマや物語を勝手に作りすぎず、流れにまかせて見せることでも、人間性ってこっちに十分伝わる。ハプニングに頼ってメリハリのある番組を作ることは、刺激を与えることだから、その瞬間には注目されるけれど、消費されてしまう構造なんだなと思いました。『どうでしょう』はある種、リアリティーショーなんですけど、そういう構造をとらずに、長く愛されるものになった。そこには、いろんな理由があるなと思いました。
(構成/カネコアキラ)

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