『水曜どうでしょう』はなぜホモソーシャルに陥らないのか 栗田隆子×西森路代

文=カネコアキラ
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『どうでしょう』をなぞればいいわけではない

――もう一度4人の話に戻したいのですが、あの4人組からホモソーシャルっぽさがまったくないとは思えません。たとえば、ああいう4人組の中に女性が入ったら、かなりしんどい気がするんですよね。

西森 ホモ・ソーシャルって女性を異性愛の対象として必要としながら、自分たちの絆を強固にするために、異物である女性を排除するということだと思うんですけど、なんか、『どうでしょう』って、異性愛への欲望がまったく見えない番組ですよね。それって、歪なことみたいに聞こえるかもしれないけれど、女性だけの空間でも、そういう空間って妙な心地よさがあったりすると思うんです。例えば『映像研には手をだすな!』なんかにも感じるもので。

だから、もちろんあの4人には番組を離れたときには、家庭があったりするんですけど、あの空間が男性だけでいい関係性を築けるならそれでいいのでは、というのはあります。女性は女性で好きにさせてもらいたいからというのもあって。女子会でどうでもいいような話をしているのを男性に「けしからん」って言われる筋合いがないように、男性は男性同士でホモ・ソーシャルではない男性だけの空間があってもいいと思うんです。それこそ『ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド』のブラッドピットとディカプリオみたいに、男性同士がダメなところをぶつけ合いながらも癒しあう様子は、見ていると安心するというか……。

栗田 一般的な話ですが、若い女性をわざとらしく入れる場合のほうが、見ていてつらいと思うときはありますね。ホモソーシャルの気持ち悪いところは女性を排除しているくせに、女性を求める二律背反なんですよね。

西森 そうですそうです。絆の中にいれないくせに性的に求めているのが問題であって。ミソジニーが排除されている中で男性同士が癒しあうのはむしろいいんじゃないかって思います。

――あの4人の中にホモフォビックなところはあると思いますか?

栗田 ヨーロッパ縦断企画のとき、ツインルームをお願いしたのにホテルの人間にダブルベッドの部屋を割り振られたシーンがありましたよね。

――大泉さんは強い口調で「ウィーアーオールメン!」ってホテルマンに言っていました。

栗田 受け取り方によってはホモフォビックに感じられますよね。「俺たちはゲイじゃない」って雰囲気も確かにありました。

ただそのシーンで藤村Dは「不思議な4人組と思われた」ってアナウンスしていたんです。独特の言葉遣いですよね。ベストとは思わないですけど、当時にしてはニュートラルな言葉を使って納めたのかも。

そういえば藤村Dは、これも先ほど触れた彼の本『けもの道』に書いてありましたが『どうでしょう』を作るときに意識したいくつかの規範の中に、「下ネタと恋愛話を入れない」があるそうです。これはフェミニズムを意識してというより、視聴率を上げるためには「(視聴者の)ターゲットは絞らず女性も男性も見られるようにする」と決めたみたいで。そうなると「男同士が集まれば必ず下ネタも出てくるけど、そんなものは自分たちが楽しいだけで、女性は聞きたくもない」から下ネタは出さない。逆に大泉さんの好きなタイプなんて聞いても面白くない人もいるから恋愛話は出さないことにしたそうです。

その話を知ってから意識して見てみたら、確かに下ネタはほとんど出てこないんです。アラスカにオーロラを見に行く企画では、現地のドライバーが下ネタを言い続ける様子を「下ネタばかり言い続けているんですよ」とあっさり終わらせていましたし、ある企画で自動車での移動中に、大泉さんが読んだという渡辺淳一の官能小説「失楽園」の朗読をするくらい。これも下ネタというよりは、むしろ「失楽園」そのものを笑いのネタにしている印象で。そのあたり藤村Dはやっぱり意識的なんだと思います。

西森 大泉さんはそれこそ北海道の番組にでているときやTEAM NACSでいるときのほうが、マッチョなところが見えることはありますね。

ただ大泉さんって自分ですごく慎重で豪快なところがないって言われているのはいいなと思っていて。『青天の霹靂』という映画にでたとき、やっぱり物語だから、登場人物が何かを「言わない」ことで誤解が生じて、そのことで物語がまわっていくところがあったんですけど、「自分は言わないことでトラブルになるのは耐えられない。全部説明したい」って言っていたんです。多弁な理由なのかもしれません。

栗田 そのくせ、法螺話の内容はいつもマッチョ(笑)。

西森 法螺ってわかる話をしますからね。

栗田 「松方弘樹と俺は仲がいい」みたいな。本当にマッチョな人が言っていたら「はあ……」って感じですけど。

西森 人を言葉で笑わせたいというサービス精神もあるでしょうしね。

栗田 『どうでしょう』はホモソーシャルっぽさは確かにあるのだけど、藤村Dの演出のうまさとか、4人の組み合わせの妙によって絶妙にできているんだと思います。でも、あの4人の関係性が誰にとってもいいものだって思うのは違う。他の人が真似もできない。あくまでその関係は単独性というか、すべてに当てはめることが可能みたいに考えちゃいけないですよ。

西森 ドキュメンタリーですからね。あの人たちだけがたどり着いた関係であって。

栗田 そうそう。あの4人の真似をするのがジェンダー的にいいってことでもないし、問題がまったくないわけじゃない。例えば男性で、子供の頃に同性として男性にいじめられた経験がある人の中には、あの関係性がしんどいと感じる人もいるはずです。普遍的なジェンダーモデルになるようなものではなくて、そこでしか起き得ない、それぞれの単独な関係性をどれだけ大切にできるかって話なんだと思います。マッチョやホモソーシャルは、個人の努力とか「キャラ」だけでどうにかできるものではなく、どういう関係性をどういう理念のもとで築くかという点を意識するところに、解決の糸口があるのかもしれないと『どうでしょう』を見ていて思います。

西森 あと私は今の時節柄、やっぱりテレビとして、人を映すというときの矜持みたいなものも考えてしまいましたね。作り手が演者に求めすぎないこと、そして視聴者も求めすぎないことにつながると思います。『どうでしょう』の場合、作り手が出演者にもなっているからってこともあるんですけど、ドラマや物語を勝手に作りすぎず、流れにまかせて見せることでも、人間性ってこっちに十分伝わる。ハプニングに頼ってメリハリのある番組を作ることは、刺激を与えることだから、その瞬間には注目されるけれど、消費されてしまう構造なんだなと思いました。『どうでしょう』はある種、リアリティーショーなんですけど、そういう構造をとらずに、長く愛されるものになった。そこには、いろんな理由があるなと思いました。
(構成/カネコアキラ)

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