Netflix『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』は「レズビアン映画」か? 

文=近藤真弥
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Netflixより

 アリス・ウー監督の長編デビュー映画『素顔の私を見つめて…』(2004)を初めて観たとき、筆者の心は滾った。ニューヨークが舞台の物語で、同性愛や家父長制といった要素を上手く表現していたからだ。

 女性は男性に従うという儒教的価値観が強い中国系コミュニティーの背景、その価値観に縛られレズビアンであることを打ち明けられない女性など、いま観ても心に刺さる視点が多い。そうした抑圧を表現するため、女性同士の激しいセックス・シーンを盛りこんだりと、言葉より雄弁な映像も秀逸だった。

 このような良作を生みだしたウーだが、『素顔の私を見つめて…』以降は映画界から距離を置いていた。ウーの言葉によると、健康面に不安があった母親の世話をするため、映画界から去ったという。

 しかし、さまざまな問題を抱えるこの世界にも良いところはあるようだ。幸い母親の体調は良くなり、新たな作品に取りくむ余裕をウーは手に入れた。こんなにも素晴らしい才能を眠らせるのは惜しいと、何かしらの見えない力が気まぐれで介入したのだろうか。いずれにせよ、私たちはウーの才能を楽しむ幸運に恵まれた。

 そうした才能が生みだした新たな作品こそ、Netflixで配信されている『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』だ。本作はウーにとって『素顔の私を見つめて…』以来の監督作となる映画で、アメリカの田舎町スクワハミッシュが舞台の物語を描いている。

 物語の中心はエリー(リーア・ルイス)、ポール(ダニエル・ディーマー)、アスター(アレクシス・レミー)の3人。

 成績優秀な高校生のエリーは、5歳で中国からアメリカに移り住んだ。母親は既に他界しており、いまは父親のエドウィン(コリン・チョウ)と2人暮らし。文章のセンスに恵まれ、クラスメイトのレポートや手紙の代筆でお金をもらっている。

 ある日エリーは、アメフト部の補欠部員ポールから代筆を頼まれる。クラスメイトであるアスターへのラヴレターを書いてほしいというのだ。最初は断ったものの、家の電気代を払う必要に迫られ、仕方なく引きうける。

 エリーはポールのふりをしてアスターに手紙を書きつづけるが、次第に複雑な感情が心のなかで膨らんでいった。もともとエリーはアスターに惹かれていたからだ。

 その想いは手紙やメールのやりとりを重ねるごとに大きくなっていく。自分のセンスが理解されていると感じ、本や映画の趣味も合う。こうした心の繋がりを重ねた末に、エリー、ポール、アスターの三角関係は思いもよらぬ方向へ走りだす。

多様な愛を知って変わっていくポール

 本作は古代ギリシャからの引用で始まる。かつて人には4本の手足と2つの顔があり、幸せで完璧な存在だった。しかし完璧すぎたため、神は人の力を恐れ、体を2つに引き裂いた。引き裂かれた人々は失われた半身を探し求め、地上をさまよう。失った半身に出逢うと本能でわかり、1つになるという神話だ。

 劇中では明確に示されていないが、これはプラトン『饗宴』におけるアリストパネスの演説が元ネタだ。

 この引用からもわかるように、本作は愛する人を半身に例え、それを求める人たちの様子が描かれる。

 ところが、その方向性は物語が進むにつれて薄れ、“そもそも愛とは何なのか?”という幾多の聡明な哲学者も決定的な答えを出せていない難題と向きあいはじめる。アスターとポールの男女関係だけでなく、エリーとアスターの女性同士の関係も含めたさまざまな角度から愛を考察する。こうした本作は、愛の形は1つじゃないことを浮き彫りにしていく。

 考察を見つめながら特に興味深いと感じたのは、ポールの変化だ。エリーに代筆を頼んだときのポールは問題の多い男性に映る。アスターと結ばれたい理由のひとつに見た目をあげたりと、相手の中身を見ようとしない無自覚なルッキズムが目立つからだ。アスターに対するエリーの想いを知ったときも、エリーに〈大罪だ(It’s a sin)〉と言ってしまうなど、同性愛への偏見もうかがえる。

 しかし、アスターと仲良くなるため努力するうちに、愛の多彩さを学んでいく。エリーから多くの哲学、文学、映画を教えてもらうなかで、愛し方は1つだけではないと悟る。

 エリーの想いに対する戸惑いも、エドウィンとの会話をきっかけに消え去る。エドウィンに誰かを愛したことはあるか? と問いかけられ、エリーにはありのままでいてほしいという心情を吐露されると、ポールは目に涙を浮かべる。その涙は自らの偏狭な心を悔いると同時に、戸惑いがなくなったことに喜びを感じているようにも見える。

 ポールの変化は、欠陥だらけの人でも、学びを得れば変われると示している。狭隘な規範を社会に植えつけられたとしても、そこから脱するためのヒントさえあれば、幅広い視野を持てるのだ。ポールの場合、ヒントはエリーに教えてもらった哲学、文学、映画であり、エリーと交流することで得られた新たな人間関係だった。

 こうした前向きな描き方は、変わる前のポールを断罪する爽快さが欲しい人にとって、あまりに理想が過ぎると感じるかもしれない。確かに、人は簡単に変わらないし、そのことは現在の世界を見まわしてもわかる。これまで多くの人々が努力と言葉を尽くしてきたにもかかわらず、理由もなく白人警官に黒人が命を奪われ、生活困窮者への眼差しは相変わらず冷たい。

 それでも、ポールのように人は変われると本作は描いてみせる。観客という他者を信じ、破壊よりも変化に可能性を見いだすウーの眼差しは、とても凛々しい。

あまりに「理想的」な作品か?

 エリーの描き方にも強い興味を抱いた。アスターという女性に性的魅力を感じる過程において、同性愛への抑圧や偏見に苦しむ姿がほとんど見られないからだ。差別に見舞われる可哀想な女性..…….といったよくある描写を期待したら、肩透かしを食らうだろう。

 なぜ、抑圧や偏見に苦しむ姿が少ないのか。そもそも本作は、エリーを同性愛者だと断定していないからだ。アスターに惹かれるの様子だけを切り取れば、エリーは女性を愛する女性にしか見えない。

 しかし、本作全体を見渡すと、あることに気づくはずだ。エリーが自らをレズビアンだと決定づけるシーンがないことに。この点をふまえれば、エリーはバイセクシュアルかもしれないし、でなければ別の性的指向を持っている可能性もあるとも考えられる。ポールからのキスをエリーが拒むシーンにしても、拒んだ理由がレズビアンであるからと示されることはない。

 これらの要素を無視できない筆者としては、本作が世間で言われているような「レズビアン映画」と呼ぶのは抵抗がある。自身の性的指向やそれに伴うアイデンティティーを見つける物語とも読める映画なのだから。

 もちろんセクシュアル・マイノリティーの観点からも楽しめる作品ではあるが、はっきりとした性的指向を最後まで表さないエリーに対し、外野から何かしらのレッテルを張るのは暴力的に感じる。それはエリーの主体性と自由意志を奪うことになりかねない。

 そのようなエリーを物語の中心に据え、典型的なロマンティック・コメディーをやっているのも本作に惹かれた理由の1つだ。性的指向が定まっていない人があたりまえのように存在するだけでなく、物語を進める力強いエンジンにもなっている。世界から疎外された人物という憐憫な見せ方もしない。

 ポールの変化と同様、これもあまりに理想的すぎる描かれ方なのだろう。いまだ差別や偏見がはびこる現在をふまえれば、なおさらそう感じるかもしれない。

 それを承知のうえで筆者は、本作に強く惹かれてしまう。現実が厳しいからこそ、せめてフィクションでは理想を描こうとするウーの矜持を感じるからだ。この矜持を忘れなければ、それこそポールのように変われる人だって増えるはず。

 そんな一縷の希望が光り輝く『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』は、2020年代のバイブルだ。

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