ベルギーの巨匠ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』は、背筋が凍りつくような問題作だった。
ある13歳の少年が、インターネットや周囲の排外的な人間たちに影響され、過激な思想にのめり込んでいく……そして、ついには重大な事件を起こしてしまう姿を、主観的な演出によって描き、間違った方向に進む少年の心理や感情を観客に体験させてしまう。その意味で本作の内容は、民族的な緊張が高まっている、いまの世界の状況を生み出す原因を、一人の加害者の視点から探る試みでもあるのだ。
本作の主人公・アメッドは、母や兄とベルギーの某所に住んでいる、アラブ系の平凡な少年だ。身長は伸びてきたが、まだまだあどけなさの残るアメッドは、最近になって、現代の少年らしく動画サイトの映像を見ることに熱中するようになった。だが彼が見ていたのは、イスラム過激派の思想を説く導師の説教だった。
アメッドは小さい頃から放課後学級でお世話になっている、“イネス先生”という女性の教師に勉強を教えてもらっているが、近頃は彼女に対しても反抗的だ。「大人のムスリムは女性に触らない」と、握手を拒否し避けるようになってきた。
イネス先生は比較的自由な思想を持っているため、一部の保守的なグループからは、浮ついていて“反イスラム”的だと思われている部分がある。とくにアメッドが熱心に通うようになった礼拝所の若い導師は、彼女を“背教者”と呼び、その思想がアメッドの行動にも影響を与えていたのだ。
次第にアメッドは先鋭化し、自分のことを“聖戦”の戦士だと思うようになっていく。そして、身近な反イスラムの象徴であるイネス先生を“排除”することが自分の役割であると信じ始める。「アラーよ、僕の行動を受け入れてください」……アメッドは、靴下にナイフを隠し、イネス先生の住むアパートを訪問する。そして、ドアを開けた彼女に向かって、ナイフを振り下ろした……。
この展開に観客は戦慄することになるだろう。アメッドは遊び盛りで、人を助ける優しさも持っている純粋な子どもだ。そんな彼が自ら望んで一人のテロリストとなり、人を刺殺しようとするのである。一体、なぜそんなことになったのだろうか。
ヨーロッパ各地のイスラム地区で起きていること
2015年に起きた、イスラム過激派による「パリ同時多発テロ事件」は、フランスやベルギーのある特定の地域が温床になっているといわれる。ベルギーのブリュッセルには“イスラム地区”とも呼ばれる、アラブ系の住民が集まる一帯があり、アラビア語だけ話せれば、仕事をして生活できるだけの規模の社会が存在する。「パリ同時多発テロ事件」のリーダーと見られる人物は、そこで育った20代の若者だった。
2001年の「アメリカ同時多発テロ事件」の後、ヨーロッパ各地の過激派は捜査を逃れるため、このイスラム地区を潜伏先に選び、移り住んだといわれる。そして、おそらくは自分たちの思想を流布し、勧誘を行うことによって、“聖戦”に身を投じようとする青年たちを2015年までに新たに生み出したと考えられるのだ。その背景には、イスラム地区の貧困も関係しているはずである。本作のアメッドも、父親が家を出て母親が毎晩酒を飲んでいるという家庭環境にある。
イネス先生やアメッドの母親のように、イスラム教徒の多くは、このような暴力的な思想を持ち合わせてはいない。過激な行動を起こすのは、ごく一部の人々である。若者がそんな思想に惹かれてしまうことを防ぐ一つの方法として、ベルギーの異なる民族同士が相互に理解し合い、活躍する場を広げることが重要になるだろう。そのような相互理解の架け橋になっていたのが、イネス先生のような存在だったのではないか。
イネス先生はイスラム教を尊重しながらも、ベルギーにおけるイスラム教の外の思想や文化の良いところを積極的に受け入れ、子どもたちに教えていた。そして、だからこそ彼女はコミュニティの保守派や過激な一派から異端視されるようになってきたともいえよう。孤立や閉塞、思想の先鋭化を求める人々にとって、彼女のような人間は邪魔になる。
ジャン=ピエール、リュック・ダルデンヌ兄弟が最初に大きく脚光を浴びたのは、1999年のカンヌ国際映画祭において最高賞を受賞した『ロゼッタ』だ。トレーラーハウスに住み、生存をおびやかされるほど困窮した少女の日々を追うという、これもまた極限的な内容だった。イギリスの巨匠ケン・ローチ監督などに代表される、生活困窮者の実情を表現する、イタリア発祥の“ネオレアリズモ”のテーマを、ドキュメンタリー風の手持ちカメラによって対象に極度に近づき続けることで、この作品では追いつめられていく主人公の心理や社会の現状を、これまでにないほどのリアリティで観客に伝えることに成功している。
このように、登場人物の見るものを限定的に、主観的に見せていく手法は、ガス・ヴァン・サント、ダーレン・アロノフスキー、ネメシュ・ラースローなど様々な映画監督に受け継がれてきた。ダルデンヌ兄弟自身も、『息子のまなざし』(2002年)、『ある子供』(2005年)などの傑作群によって、この演出法を自らも深化させてきている。これらの表現を確立したことで、監督は映画史における一つの到達を成し遂げた重要な存在になったといえよう。
本作『その手に触れるまで』は、この手法が持っていた可能性がさらに引き出され、人生の落とし穴にはまっていく主人公アメッドの孤独や、彼の見る世界の狭さを映し出す。ダルデンヌ兄弟の演出法は、まさにこの一作のために生み出されたものだったと思うほどに。
少年がミソジニーを抱いた複雑な背景を描く
アメッドはイネス先生を襲った後、少年院に入ることになる。更生プログラムの一環として農場作業を手伝うようになると、農場主の娘・ルイーズと出会う。歳も近く、互いに心惹かれていくことになる二人だが、アメッドはまだ過激な思想を持ったままだった。ルイーズに触れられてしまったアメッドは、彼女に対してイスラム教徒に改宗しろと、しつこく迫り始める。そうでなければ、教義によって自分は地獄行きになるというのだ。
ここで明らかになってくるのは、アメッドの身勝手な支配欲である。アメッドはルイーズが自分の思い通りにならないことに苛立ち、彼女を憎み始める。こうした女性憎悪は、多くの男性排外主義者に共通する点でもある。本作は、イネス先生やルイーズなど女性に執着し、暴力の矛先を向けるアメッドの奥底に隠れている、性的な要素が絡んだ複雑な感情まで明らかにしていく。
本作は社会的な問題を描きながら、人間の心理を分析的に見つめ、さらに正しい道を探してあがき続ける魂を表現した文学的な作品である。複数の意味において高いレベルの描写をかなえるのは、人生経験や知識をたくわえ、円熟の境地を迎えた映画作家ならではの仕事だといえよう。
そして、一歩間違えれば、アラブ系の人種やイスラム教徒についての偏見を与えかねない内容になってしまうところを、内にこもるアメッドと、外に開こうとするイネス先生という、同じコミュニティのなかの対照的な存在を設定することで、どの民族、どの文化にもあてはまる題材へと昇華させ、様々な軋轢に共通する困難な課題と、ささやかな希望を見事に映し出すことに成功している。本作を見ることで、ベルギーを含めたヨーロッパのみならず、世界に横たわる深刻な問題に思いを馳せることができるのだ。そしてもちろん、自分の国にも存在する同種の問題に考えをめぐらせるきっかけにもなるだろう。
(小野寺系)
映画『その手に触れるまで』
6/12(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!