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母というのは人間です。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、母親も人間、という事実は、案外、見過ごされがちな気がしています。
今の時代、人間にはそれぞれ個性があり、一人ひとり違った生き方がある、多様性を受け入れよう、といった価値観はメジャーです。しかし、「母親」となると、急に「個性よりも、母という属性の方が大切」だとみなされます。
たとえば、派手なメイクにネイル、夜遊び、お酒、仕事や趣味に没頭すること、彼氏を作ること……など、母親でないならば「その人の生き方」として尊重されることも、子どもという存在が追加されただけで「母親のくせに!」「育児を最優先しろ」と思われたりする。自分らしく生きているだけなのに、責められたりもする。
ひどい場合は、「母親より女を優先した」とか言われますが、「母親より女を優先した」という言葉が示すのは、「母親は女ではない」ということ。
「母親なのに恋愛をするなんて」とか、「母親のくせに仕事の方が大切なのか」などと言う人が少なからずいるということは、「母である限り、人間でもないし、女性でもない。母親という生き物である」と思っている人が多い、ということの証左ではないかと思います。「子どもを産んだら、自分らしさより、母親らしさを優先しろ」という圧力があるのです。
ある友人が、「子どもを産む前に、自分のやりたいこと、全部やる!」と言っていました。私が、「産んでからも、やりたいことやったらいいんじゃない?」と言ったら、「あ、そうか。そうやね。なんか、産んだら自分のことは何もできなくなる気がしてた……」と。彼女は知らずしらずのうちに、子どもを産むということは、自分がしたいことはできなくなることだ、と思い込んでいたわけです。
「正しい母親像」は、品行方正で家事をしっかり行いつつ、子どものために色々手作りし、仕事もしたとしても何をおいても子どもを優先し……なかなか非現実的ですよね。だから真面目な人ほど、正しくあろうとするほど、子どもを産むことを躊躇してしまいます。別に取り立てて真面目な性質じゃないとしても、将来的に子どもがほしいと考える気持ちは、萎えます。
いざ出産して子育てを始めると、「母親とはこうあるべき」という価値観を内面化し、苦しい思いすることもあります。世の中には素晴らしい母親たちがいて、母親の愛ゆえの献身が褒め称えられたりもする。それ自体は素晴らしいことだけれど、「正しい母親像」ばかり目にしているうちに、自分の育児への自信を失いそうになるのです。
「正しい母親像」にときめいて、「あんな風になりたい!」と思う人もいるかもしれないですが、一方で私のように「正しい母親像ってなんか疲れる」と感じている人も多いのではないかと思います。そんな「正しい母親像ってなんか疲れる」という女性にお勧めしたいのが、堀越英美さんの『スゴ母列伝〜いい母は天国に行ける。ワルい母はどこへでも行ける〜』(大和書房)です。
「こんなヤベエ母たちがいるんだ……開放感!」な一冊
『スゴ母列伝〜いい母は天国に行ける。ワルい母はどこへでも行ける〜』は、数々のスゴ母エピソードをまとめた一冊です。スゴ母とは、「正しい母になろうとするのではなく、自分を貫いて独特な育児をするスゴい母」のこと。
著者の堀越英美さんは、自身の育児中に、作家・岡本かの子の「息子を柱に縛って仕事に励んでいた」という育児伝説を知り、「これに比べれば私の育児は全然大丈夫」と安堵感に包まれたことをきっかけに、本書を執筆されたそうです。
確かに、本書に登場する母親たちの行動は、今生きていたらネットで叩かれまくっているだろうな、と思われます。でも、それにも関わらず、子どもたちは立派に育ち、母親たちを尊敬していたりする。そんなスゴ母たちの生き様は、母親を監視する世間の目および、世間の目を内面化した自分の目に苦しめられがちな、現代の母親たちに希望を与えてくれるものです。
たとえば、岡本太郎を出産した後の岡本かの子。彼女は作家として身を立てることに燃えていて、かの有名なエピソード「書きものをするために、タンスなどに太郎を縛り付けておく」というエクストリーム育児を行い、夫が遊び歩くなか、かの子自身も愛人をひとつ屋根の下に住まわせる破天荒ぶりも発揮しています。
世間に広く知れたら毒母と罵られかねない行動だけれど、当の息子・太郎は、自身の著作『母の手紙 母かの子・父一平への追想』のなかで、以下のように語っていたそうです。
<母かの子は私にとって、まことに「母性」らしからぬ存在だった(…)世の常の賢母とか慈母とか、そんな型にはまった母ではなく、まったくユニークな、なまなましい人間そのものとしてあった。いわゆる親子関係をはるかに踏み越えて、強烈な人間同士の、対等なぶつかりあい。あの非母性的なところが、何ともいえぬ嬉しさだ>(P.2)
母性とは自己表現の手段。生まれながらの本能ではなく、選択肢のひとつ
太郎は、母かの子が「母性らしからぬ存在・非母性的」であったことを、「何ともいえぬ嬉しさ」と表現しました。では「母性らしからぬ存在・非母性的」とはどういった意味でしょうか?
当時の母性とは、「女性が意識的に自己啓発することによって体得し、厳しく子どもを正しい道に教え導く、たいへんハードルの高い概念」だったそう。当時は、女性が社会で働くことができなかった時代で、女学校を出ても、評価される場所はありませんでした。そんな女性たちにとって、「自らの手で子どもを立派に育てること」こそが、数少ない自己表現の手段となっていたのです。
「母性とは、女性の自己表現のひとつだった」と考えると、様々な自己表現が選択できる現在において、「女性なら誰しも生まれついての母性がある」とするのは適切ではないでしょう。
かの子に関して言うなれば、恋愛もしていたし、何より作家としての自己表現の場があった。子どもを正しい道に教え導くという点においての自己表現にこだわる必要がなかったのですね。
太郎の発言を見ると、子どもが必ずしも「母性的な母親」を求めているとも限らないようです。太郎はむしろ、非母性的な、子どもを産む以外の自己表現手段を持つ母親を嬉しく思っているのです。
一方、本書でスゴ母のひとりと紹介されている鳩山春子は、朝3時に起きて、幼稚園児に2時間学習させるなどの強烈教育ママで、ザ・母性の人。鳩山一郎の母であり、鳩山由紀夫、邦夫兄弟の曾祖母である彼女は、教育ママの元祖だそう。
ただ、教育ママと言っても、「自分が我慢をして子どもに尽くす」という姿勢とはかけ離れています。春子は勉強が大好きなのです。
幼い頃から非常に利発で貪欲に学問を吸収する春子は、男子より優秀にもかかわらず、「女子は米国の教育に夢中になるべからず」と国から散々邪魔をされ、留学の予定も取り消されてしまいます。不美人を自覚しており嫁に行かず学問一筋に生きようと決めていましたが、鳩山家との縁談が持ち込まれ、結婚。家事は女中がやってくれるので、学問に励んで良いという“破格の自由さ”な結婚生活で、妊娠すると「私のとりえは教育」だと胎教に励むようになりました。
堀越英美さんは、純粋に春子自身が学問を続けるために、「学問を追求するほど、夫と息子に尽くす良妻賢母になれる」という理屈で武装することで、保守的な男性たちを懐柔しようと考えたのではないか、と分析しています。
春子は自身もよく学び、子どもたちの教育に熱中しましたが、詰め込み教育ではなく工夫して子どもたちと向き合い、また午前中は集中して机に向かうのですが午後は囲碁将棋をはじめ様々な娯楽をする時間に当てていたといいます。成功者である男たちが女を侮辱するような遊びに耽るのは、若い時に勉強漬けで娯楽を我慢させられたせいだと憂いていたのです。これ、令和の現在でも共通していることのような気がします。
世間の評判では春子は「過保護な教育ママ」でしたが、息子の鳩山一郎は「母を賢母と、大っぴらに呼び得るような仕合わせな子」を自称し、母を賞賛しています。
私たちに希望の光を見せてくれるのは、「完璧な母」ではなく「ヤバイ母」だ
岡本かの子と鳩山春子は、非母性的・母性的といった面では真逆ですが、「母親だからこうすべき」ではなく、「自分のやりたいようにやってやる!」という熱量で突っ走った、という点においては同じです。
自分を貫いたふたりのスゴ母が、結果的に子どもたちから尊敬の念を勝ち得ている事実も、「母親かくあるべし論」に苦しめられる女性たちにとって、希望の光になるのではないかと思います。
『スゴ母列伝〜いい母は天国に行ける。ワルい母はどこへでも行ける〜』に登場するのは、テンプレ的な正しい母親像とは全然違う、泥臭く人間くさい、超個性的な母親たちの生き様です。聖母ではなく人間として生きる母たちの姿は、ヤバイかもしれないけれどとにかく面白い。ネグレクトして野放図に生きろなんてことではもちろんありません。正しい母親像なんて無視で、自分の信念を大事に貫き生きた女性たちがいること。その生き様がこんなに魅力的なんだということ。そのことに勇気をもらえる一冊です。
(原宿なつき)