ドラマ、映画、漫画……トランスジェンダーの語りの政治/映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』

文=ゆな
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 これまで欧米で作られてきた映画、ドラマシリーズなどで描かれてきた、トランス表象の「開示」にともなう暴力や排除の発露といった危険を、Netflixドキュメンタリー映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』は暴いていく。それはまさに、現在「Black Trans Lives Matter」として、アメリカの黒人トランスジェンダーの、特にトランス女性たちが、身体の状態の「開示」を巡って時に死に至るほどの暴力に晒されやすい、そうした現実に対して叫ばれる、命・尊厳の回復と呼応するだろう。

 トランスをめぐるさまざまな問題について、何者であるか「開示」せずに、Twitterやブログで鋭い分析やトランス女性個人としての地に足のついた声を披露する「ゆな」さんに、この作品について書いてほしいと依頼した。本作で分析されていく、映画やドラマのトランスジェンダー表象を手がかりに、『らんま1/2』『幽遊白書』など日本の漫画作品に登場するトランス的なキャラクターとその扱いについて、類似点が示される。

 しかし同時に、国ごとの社会構造や制度の差、人種の差など、違いは意識されながら。

Black Trans Lives Matter特集をはじめるにあたって

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ドラマ、映画、漫画……トランスジェンダーの語りの政治/映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』の画像2 ウェジー 2020.06.24

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 映画の公開をこんなに楽しみに思っていたのは久しぶりかもしれません。ドキュメンタリーとなると、数年ぶり? しかも映画館ではなくオンラインでの公開となると、もはや初めての経験です。

 2020年6月19日に映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』がNetflixで公開されました。原題はDisclosure(あとでお話しする理由からこの原題がとても大事だと思うので、以下では原題で表記します)。俳優やプロデューサーなどといった立場で活躍する何人ものトランスジェンダーたちが、これまでのメディアにおけるトランスジェンダー表象がどのようなもので、どんな影響を受けてきたのか、現在どういった新たな試みが起こりつつあるのか、といったことを語る、インタビュー形式のドキュメンタリーです。

 「そんな地味そうな映画、面白いの?」そう思われるかもしれません。でも、これが凄いんです。次から次へとトランスジェンダー当事者が登場して、自分自身の経験を、映画やテレビ番組、アニメとの関係を語っていくこの作品を見ていると、たいていは「トランスジェンダー」というひとつの箱に大雑把にまとめられてしまう人々が、その体つき、声、経験、思想、などなどのいずれをとっても、どれだけ多様なのか、どれだけいろいろな人々がそのうちにいるのかということを、映像というものが持つ圧倒的な力のもとで、味わわされます。それがすごく心地いい。勇気が湧く。

 とりわけ本作に出てくる女性たちを、そのひとりひとりがいかに違っていて、いかにさまざまなトランス女性が世の中にいるのかということを見ていると、私のこの低い声、この長身の体が、「これだけいろいろなひとがいるのだから、私も単に『こういう女』というだけでいいのではないか」と、特に恥じたり後ろめたく思ったりするべきものではないように思えてきます。だって、いろんな特徴のひとがいて、声が低いひともいれば高いひともいて、体格の大きなひともいれば小さなひともいて、それで、その全員がたまらなくかっこよくて、魅力的なのですから! 「私もこんなふうでいたい、堂々とこの姿をさらして、はっきりと自分のことを自分で語りたい」と感じさせられます。

 思えば、私はこれまで映画を見ていても、小説や漫画を読んでいても、あるいは実在の人物の話を見たり聞いたりするときにさえ、そこに登場する人物にうまく憧れることが出来ずにいました。「あんなふうになりたい」と思うことがなかったとは言いませんが、どうにもその憧れにリアリティが感じられず、うまく像を結ばずにいたように思います。例えば高校時代にオードリー・ヘップバーンに憧れたことがあったのですが、私にとってオードリーは「ああなりたい」と実感を持って思うにはあまりに遠すぎる存在でした。背が180を超え、体毛も濃くなって声変わりもすっかり終わり、学ランを着て高校に通う私には。「あんなふうになりたい、あんなふうになれるかな」などと夢見るには、オードリーはどう見ても、あまりに初めから私とはまるで違うように思えたのです。

 これは、これまでフィクションであれノンフィクションや現実の出来事であれ、トランスジェンダーの人物の表象がほとんどなかったためなのでしょう。自分と似た人間がテレビをつけても本を読んでも見つからない、自分がいま抱えているような苦しみを語っている人物がいない、自分に似た幼少期を生きてきた人物が見つからない……。うまく誰かに憧れるためには、自分からその誰かへと続く「道」をイメージできる必要があるように思います。そして、私はそのように自分からそのひとへ続く「道」をイメージできるような誰かを、ずっとまともに見つけられずにいたのでした。

 だから、問題は「表象」なのでしょう。映画Disclosureでは、まさにトランスジェンダーとその表象を巡る問題が、繰り返し語られています。この記事では、「表象」と「語り」、そして原題にもなっている“disclosure”(「開示」、「暴露」)という言葉をキーワードに、私がこの映画に何を見出したのか、なぜこの映画が凄いのかというお話をしていきたいと思います。

トランスジェンダーの表象

 私にとって、映画などでのトランスジェンダーの表象は、何とも言えない微妙な距離感で自分に関わるものでした。

 例えば子供のころに見たものだと、『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』というアニメ映画がありました。私が7歳かそこらのことです。

 おぼろげな記憶ですが、しんちゃんが憧れのアクション仮面とともにハイグレ魔王という宇宙人の野望を阻止しようとする話で、ハイグレ魔王はハイレッグのレオタードを着てモヒカンの髪型、普段はなよっとしていて怒ると荒々しくなる「オカマ」のキャラクターとして描かれていました。

 そうしたキャラが自分に「似ている」と思ったことはありませんでした。むしろ、そうしたキャラが笑われたりする姿を見ながら、「ああいうふうではありたくない」という意識を植え付けられ、それはのちに性別移行をし始めたとき、「女装者だと見なされたくないから体の変化が十分に感じられるまで女性服は着ない」などといった頑固さへと結実することとなりました。

 けれど他方で、私は漫画やアニメ、映画に出てくるトランス的な要素を持つキャラクターたちに、ときに自分を重ねながら、自分が何者なのかをずっと探ってきました。高橋留美子さんの作品にはトランス的な要素が多く、『うる星やつら』に登場する男の子として育てられた女の子である龍之介や、その許嫁であり、逆に女の子として育てられた男の子である渚には強烈な関心と好意を抱いていました。『らんま1/2』は、主人公の乱馬が水をかぶると女の子になるという体質であるという設定で有名ですが、私にとってあの設定は思春期の空想の9割ほどを支えるくらいに重要なものでした。いったいいくつの眠れない夜を、自分があの体質になる(もしくは突然変異で朝起きたら女の子になっている)という空想とともに過ごしたことでしょう。

 とはいえ、そうした作品においても、トランス的な要素は「ギャグ」として扱われるのが常でした。渚はとても可愛らしいけれど、女好きなあたるくんや面堂くんの「食指が動かない」相手とされ、「実は男だった」という「ギャグ」の前振りとされてしまいます。外見が美しく描かれていても、「オカマ」キャラの枠内に収められたなら、「笑える」人物となってしまうのです。もちろん、渚のアイデンティティは男性なので(龍之介のアイデンティティも女性です)、正確にはトランスのキャラクターとして描かれているわけではないのですが、しかしそのアイデンティティの描き方も含めて、「女性的な外見の人物が女性的に振る舞っていたとしても、結局のところは男性なのであって、笑うべき『オカマ』である」という、私たちが日常的にSNSなどで直面するのとまさに同じ偏見が込められているように思います。

 そうした描写は当時の私からしても辛いものでしたが、それでも私は、いろいろなトランス的な人物を見ては、自分自身を見つけ出す手掛かりにずっとしてきたように思います。たとえ笑われる人物であっても、私は渚が好きだったし(『うる星やつら』と聞いて、私の様に真っ先にこの人物が念頭に浮かぶ読者というのは、多くないのではないでしょうか?)、龍之介も好きでした。乱馬も好きでしたし、『クロノトリガー』(私が小学生のころにとてつもなく流行ったテレビゲームでした)でいちばん好きな人物といえばマヨネーです。でもそうしたキャラクターを好むというのは、つまりはそうしたキャラクターが「ギャグ」扱いされている物語を繰り返し楽しむということでもありました。

 この話をひとにしたときに、「そんな辛い描写、見なければいいのに」と言われたことがあります。でも、そうはいかなかったのです。私がうまく私自身を見出し、自己を確立するには、参照点として私に似た人物たちが必要だったと思うのですが、そうした人物が身の回りにいなくて、フィクション内の人物くらいしか見当たらなかったのですから。

 映画Disclosureのなかでも、このことは明確に語られています。映画で紹介されるGLAADの調査によると、アメリカ人の約8割は、トランスジェンダーの知人を持ってはいないそうです。それゆえ、多くのひとにとってトランスジェンダーとはどういうひとたちなのかということの情報源はもっぱらメディアになっている。GLAADのディレクターであるニック・アダムスは、Disclosureのなかで、このことはトランス当事者にとっても変わらない、私たちは多くの場合周りにトランス当事者がいない環境で育っているということを指摘しています。

 もしも身近にいたなら、そのひとのどこかに憧れたり、どこかに反発したりしながら、「自分の在り方」というものを見出すこともできるでしょう。でも、そもそも身近に似たひとがいなかったら? 私たち自身もまた、メディアでのトランスジェンダー表象をもとに自分自身を探していくしかありません。それなのに、メディアには偏った表象が繰り返される、そこにトランスジェンダーにとっての自己構築の苦しさのひとつがあるのではないかと思います。

 俳優のジェン・リチャーズは、Disclosureのなかでバラエティ番組でのトランス女性のかつての扱いの酷さを語りながら言います。「テレビでの扱いは不当だと思うけど、トランスの人々を見られてうれしかった」。

 これは私にも覚えがあります。中学時代に不登校になってしまった私は、お昼になると母が作ってくれたご飯を食べながら一緒に『笑っていいとも』を見ることを習慣にしていました。当時の『笑っていいとも』では、妙に「ニューハーフ」を取り上げることが多く、トランス女性だと思われる綺麗なひとたちがよく画面に登場していました。

 私は彼女たちを見るのが楽しく、「なんて綺麗なひとたちなのだろう」と憧れの目で見ていたのですが、そこではしばしば「実は(元)男」ということが笑いの種にされていたりしていたように記憶しています。

 私たちは、フィクションであれ、そうでないものであれ、不当な扱いを受けて笑われている彼女たちの姿を見ながら、自分自身を見出す手掛かりにしていて、そんな歪んだ自己構築は、どうしたって自己肯定感の低さなどの不具合を生み出してしまう。映画終盤、ジェン・リチャーズが、自分のことを受け入れなかった家族や友人の話をしながら、誰よりも自分自身が自分の価値を認めていなかったと声を震わせて語る場面がありますが、私もずっと自分は気持ち悪い、笑うべき存在で、だからこそ少しでもそうでない存在を目指して頑張らないといけないという意識を持ち続けていました。いまでもそれは、残っていると思います。

 なぜ、私たちはそんな苦しい自己構築をしないといけないのでしょう? これは、表象の問題なのです。

 Disclosureでは、映画の歴史を紐解きながら、トランスジェンダーがどのように表象されてきたかを、当事者たちのコメントともにたどっていきます。必ずしも時系列順ではないかと思いますが、大まかに次のような描き方が話題になっています。

 映画黎明期において、「ジョーク」となる存在としてのトランス女性の描き方が発明され、繰り返し笑いのネタにされてきた。やがてヒッチコックの映画などで、精神に異常を抱えた殺人鬼としてトランス的な人物が描かれるようになった。

 映画のなかでは豊富な実例とともに、こうした偏った表象が語られていきます。見ていると、本当に、本当に辛くなります。でも、だからこそこの歴史を語らないとならないのだと感じられます。

 さらに、不快感と嘔吐を巡る描写が語られていきます。映画によれば、『クライング・ゲーム』で、主人公がそうと知らずトランス女性と肌を重ねそうになり、直前にそれを知って嘔吐するというのが、そうした描写が増加する出発点になっていたそうです。

 Disclosureでのこれらの話題の取り上げ方はかなり強烈で、ぜひいろいろな方に見ていただきたく思います。これを見て辛くなるのは、トランス当事者だけでしょうか? たぶん違うのではないかと思います。そして、これは必ずしも「過去の悪しき習慣」ではないのです。

 時を経て、もう少し共感的に取り上げられるようになったと思ったら、今度はトランスであるがゆえに殺される人物や、もともとの体の構造のゆえに癌などの病気になって死んでいく人物ばかり。

 身近にほかにトランスの人物がめったにいないがゆえに、メディアでの表象を通して自分自身を見るしかない、にもかかわらずメディアでの表象はこのようなものばかり。このグロテスクさを、Disclosureは実際に映像を見せながら、当事者たちの語りとともに浮き彫りにしていきます。証言を通して巨大な問題の正体に少しずつ切り込んでいくその手さばきは、ほとんどサスペンス映画のように感じられます。

 こうした問題は、何もアメリカだけのことではありません。私が子どものころに流行った漫画に『幽遊白書』というものがありました。漫画の序盤で主人公の幽助が美しいトランス女性の敵と対決することになり、相手がシス女性だと思って殴ることを躊躇っていたはずの、主人公があるときに一転して力いっぱい相手を殴り飛ばすという場面がありました。殴った理由を問われた幽助は、戦いのさなかに相手の胸と股間を触ってその形状を確認したこと、「男」だと確信したうえで殴り飛ばしたことを自慢げに説明します。丁寧にも、相手の体を障った直後に嘔吐するコマまで描かれていました。

何か自分を投影するものがあったのか、私は子供のころから美しいトランス女性のキャラクターを好んでいて、この『幽遊白書』のキャラクターも例外ではなく、当時の私はこの物語を素直に楽しんでいました。楽しんでしまったのです。彼女が「『男』だとばれる」のは滑稽であり、ばれれば「吐き気を催す」存在なのであり、だからシス女性と違って殴られても構わないという、その物語を。

それが何年もあとになって、自分自身を「どれだけ美しい女性になってもばれれば笑われ、気持ち悪がられ、殴られる」という強迫的な意識によって縛ることになるとも知らず。こうしたいびつな自己形成は多くのトランス女性が共有しているように思えますし、そして現在でも同じようにいびつな仕方で自己形成をしつつある子どもがいるのではないかとも思います。

語ること、「開示」すること

 ところで、この映画のタイトルはなぜDisclosureなのでしょう? これが私にははじめ、不思議に思えました。というのも、disclosureという単語は映画内でほんのわずかにしか登場しないのです。

 disclosureは、「開示」や「暴露」と訳されますが、要するにclose、つまり「閉じている」状態を解除し、開いてしまうことを指します。

 この言葉は、ジェン・リチャーズが”disclosure”=「暴露」というアイデアへの嫌悪感を語る場面で印象的な仕方で登場します。映画におけるトランスの人物は、しばしばトランスであることを「隠して」おり、それが「暴露」されたとき、そのことを「秘密」にしていたという理由で友人や恋人を傷つけるものとして表象される、それが不当だとリチャーズは訴えます。

「トランスの登場シーンをいろいろ見ると、周りの人間は裏切られた感情を示す。この”暴露”という考えは嫌い。暴かれるべきことという考えがね。私たちには秘密があり話す義務があると、思い込ませるものだわ。そしてその秘密に相手は難色を示すものだと勝手に決めてしまう。[そして]相手側の気持ちのほうが尊重される」

 ここで語られているのは、映画の表象を通じて、トランスであるということは「秘密」であり、トランスの人々にはその「秘密」を「開示」する義務があり、もし「開示」を怠って相手が傷ついたなら、責められてしかるべきだという描像が構築されているということです。なぜ、そのようにして登場する言葉がタイトルになっているのでしょう?

 思うに、この映画ではずっと、語りと開示を巡る政治が問題になっているのではないでしょうか?

 この映画のなかでは繰り返し繰り返し、自分たち自身ではなく、他人によって自分のことが語られるということが取り上げられます。トランスの物語がシス目線で語られる、黒人の物語が白人目線で語られる、ボール・カルチャーがそこに属したこともない者の目線で語られる。何度も何度も語りを奪われ、歴史を書き換えられる。

 だからこそ、トランスジェンダーの表象は、当事者たちにとっては辛いものばかりが生み出されてきて、それ以外の人々を楽しませたり、ハラハラさせたりするのに使われてきたのではないでしょうか? 誰が誰を語るのか、語りの権利は誰に属すのか。これがこの映画で繰り返し問われているように思います。劇中で紹介される『ジョーン・リバーズ・ショー』という1993年のテレビ番組で、出演者のひとりであるレスリー・ファインバーグは言います。「今までずっと私たちの姿は他人に歪められてきた。他人が私たちを分析し、私たちの気持ちを語る。それより議員のゴシップを話そうよ」

 番組内でも喝采を受けていますが、私もDisclosureを映すiPadの前で手をたたきました。本当に! どうしていろんなひとが私たちのことを勝手に分析して、私たちのことを勝手に語るの!

 ”disclosure”はclose状態の解除です。そして私たちはきっと、とてもcloseな状態に置かれてきました。私たちについての、他人による語りに閉じ込められて。人々は面白いジョークとして、恐るべき加害者として、哀れな被害者(けれどもその被害は語る者には縁がない!)として。そもそも不当であったり、そうではなくとも一面であったりする語りが、私たちをずっと閉じ込めています。その極端な現われが、トランスであるということを「秘密」であるとともに、それについて語る義務があるものともする、「トランスの人々はこう語るべき」という語りなのでしょう。他人による私たちのdisclosure=開示に取り囲まれ、私たちはいざ自分が語るとなったときに何をdisclosure=開示すべきかまで指定されてしまっている。

 その扉をこじ開けて、自分で自分のことを語りだした。それが、その圧倒的な熱さが、希望が、映画Disclosureなのだと思います。どうか聞いてみてほしい。トランスとして生身で生きてきた人々の言葉の、声の多彩さを、豊かさを。その万華鏡のようなカラフルさに、きっと圧倒されます。

語りを奪わないために

 ここまで、私は何度も「私たち」と言ってきました。けれど、気を付けないといけません。「トランスである」ということだけを手掛かりにした安易な同一視は、ほかのひとの語りを奪ってしまうことになりかねないのだから。

 Disclosureを見ていると、トランスの内部での多様さと、それぞれの視点の違いに気づかされます。トランス女性はしばしば映画などでの表象の不当さを語ります。けれど、トランス男性やノンバイナリーの人々にとっては、不当な表象以前に、圧倒的な表象の不足がある。私はトランス女性として語ることはできるかもしれませんが、トランス男性やノンバイナリーの代弁をすることはできないし、その権利もない。

 また、この映画で驚いたのは、トランスジェンダーの表象と黒人の表象の問題が分かちがたく絡み合っているということでした。俳優のラヴァーン・コックスをはじめ、多くの出演者がそのことを指摘するのですが、私はそれをこれまで感じたことがなかった。おそらく、私の肌の色と、住んでいる地域のために。日本に住み、日本内で圧倒的なマジョリティである肌の色をした私には、そうした表象の絡み合いの問題を意識せずに暮らせるという特権に浴していて、だから、私はその線を越えて語るべきではなく、むしろ黙って語りを聞き取ろうとしなければならないのだと思います。

 このことは、映画内でも最近の素晴らしい作品として紹介されているPoseを見るなかでも、またBlack Lives MatterやBlack Trans Lives Matterの運動を巡るさまざまな言葉を読むなかでも感じられていたことでした。ついついマイノリティであるというので、「私たち」と呼びたくなってしまう、「私も仲間だ」と言いたくなってしまう。けれど例えば私は普段暮らしていて自分が殺される可能性を強く感じたことはありません。以前にTwitter上で、黒人トランス女性の平均寿命は35歳だという趣旨のツイートを見たときに、自分の目に映っている世界の狭さに、愕然としました。そんな世界があるとは思っていなかった。

 また、PoseでもDisclosureでも、ボール・カルチャーが非常に重要なものとして語られていますが、これも私が属している歴史ではありません。ニューヨークのボール・カルチャーどころか、私は日本のクィア・コミュニティにも何ら属しておらず、そうした歴史に参加してはいない。だから、これもまた「私たち」と語ってしまえば、不当に語りを奪うことになるでしょう。

 Disclosureには、非常に多くのひとが出演しているので、「同じ」という意識と「違う」という意識を同時に抱かされます。それはなめらかでない、ざらついた感触なのですが、このざらつきを忘れてはいけないのでしょう。それを忘れたとき、私はきっと、勝手にトランスを語る非当事者たちと同じことをしてしまうことになるのだから。

 そして、そんなことをトランス当事者である私が感じられる映画というのも、凄いものなのです。だって、トランスの人物を取り上げるたいていの映画は、私から見たら「もう知っている」話ばかりなのですから。そうなるとどうしても、「私と大きく違うトランス当事者が存在する」ということは意識されないままになります。でも実際には、私からは見えない経験をしているトランス当事者もまた、当然いるに違いないのです。Poseがそうしたものを描く優れたフィクションであるとしたら、Disclosureは実物のそれを目の前に示してみせるかつてないドキュメンタリーなのだろうと思います。これが、Disclosureの圧倒的な凄さなのです。

 と、あれこれと語ってきましたが、実は言いたいことはひとつ。見てほしい! トランスジェンダーと言ってもこんなにもいろいろなひとがいて、いろいろな姿、声、経験を持ち、いろいろな言葉を使い、いろいろな思想を語っていることを知ってほしい! 非当事者の方にも当事者の方にも、いままで味わったことのない経験になるだろうと思います。

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