ドラマ、映画、漫画……トランスジェンダーの語りの政治/映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』

文=ゆな
【この記事のキーワード】

語ること、「開示」すること

 ところで、この映画のタイトルはなぜDisclosureなのでしょう? これが私にははじめ、不思議に思えました。というのも、disclosureという単語は映画内でほんのわずかにしか登場しないのです。

 disclosureは、「開示」や「暴露」と訳されますが、要するにclose、つまり「閉じている」状態を解除し、開いてしまうことを指します。

 この言葉は、ジェン・リチャーズが”disclosure”=「暴露」というアイデアへの嫌悪感を語る場面で印象的な仕方で登場します。映画におけるトランスの人物は、しばしばトランスであることを「隠して」おり、それが「暴露」されたとき、そのことを「秘密」にしていたという理由で友人や恋人を傷つけるものとして表象される、それが不当だとリチャーズは訴えます。

「トランスの登場シーンをいろいろ見ると、周りの人間は裏切られた感情を示す。この”暴露”という考えは嫌い。暴かれるべきことという考えがね。私たちには秘密があり話す義務があると、思い込ませるものだわ。そしてその秘密に相手は難色を示すものだと勝手に決めてしまう。[そして]相手側の気持ちのほうが尊重される」

 ここで語られているのは、映画の表象を通じて、トランスであるということは「秘密」であり、トランスの人々にはその「秘密」を「開示」する義務があり、もし「開示」を怠って相手が傷ついたなら、責められてしかるべきだという描像が構築されているということです。なぜ、そのようにして登場する言葉がタイトルになっているのでしょう?

 思うに、この映画ではずっと、語りと開示を巡る政治が問題になっているのではないでしょうか?

 この映画のなかでは繰り返し繰り返し、自分たち自身ではなく、他人によって自分のことが語られるということが取り上げられます。トランスの物語がシス目線で語られる、黒人の物語が白人目線で語られる、ボール・カルチャーがそこに属したこともない者の目線で語られる。何度も何度も語りを奪われ、歴史を書き換えられる。

 だからこそ、トランスジェンダーの表象は、当事者たちにとっては辛いものばかりが生み出されてきて、それ以外の人々を楽しませたり、ハラハラさせたりするのに使われてきたのではないでしょうか? 誰が誰を語るのか、語りの権利は誰に属すのか。これがこの映画で繰り返し問われているように思います。劇中で紹介される『ジョーン・リバーズ・ショー』という1993年のテレビ番組で、出演者のひとりであるレスリー・ファインバーグは言います。「今までずっと私たちの姿は他人に歪められてきた。他人が私たちを分析し、私たちの気持ちを語る。それより議員のゴシップを話そうよ」

 番組内でも喝采を受けていますが、私もDisclosureを映すiPadの前で手をたたきました。本当に! どうしていろんなひとが私たちのことを勝手に分析して、私たちのことを勝手に語るの!

 ”disclosure”はclose状態の解除です。そして私たちはきっと、とてもcloseな状態に置かれてきました。私たちについての、他人による語りに閉じ込められて。人々は面白いジョークとして、恐るべき加害者として、哀れな被害者(けれどもその被害は語る者には縁がない!)として。そもそも不当であったり、そうではなくとも一面であったりする語りが、私たちをずっと閉じ込めています。その極端な現われが、トランスであるということを「秘密」であるとともに、それについて語る義務があるものともする、「トランスの人々はこう語るべき」という語りなのでしょう。他人による私たちのdisclosure=開示に取り囲まれ、私たちはいざ自分が語るとなったときに何をdisclosure=開示すべきかまで指定されてしまっている。

 その扉をこじ開けて、自分で自分のことを語りだした。それが、その圧倒的な熱さが、希望が、映画Disclosureなのだと思います。どうか聞いてみてほしい。トランスとして生身で生きてきた人々の言葉の、声の多彩さを、豊かさを。その万華鏡のようなカラフルさに、きっと圧倒されます。

語りを奪わないために

 ここまで、私は何度も「私たち」と言ってきました。けれど、気を付けないといけません。「トランスである」ということだけを手掛かりにした安易な同一視は、ほかのひとの語りを奪ってしまうことになりかねないのだから。

 Disclosureを見ていると、トランスの内部での多様さと、それぞれの視点の違いに気づかされます。トランス女性はしばしば映画などでの表象の不当さを語ります。けれど、トランス男性やノンバイナリーの人々にとっては、不当な表象以前に、圧倒的な表象の不足がある。私はトランス女性として語ることはできるかもしれませんが、トランス男性やノンバイナリーの代弁をすることはできないし、その権利もない。

 また、この映画で驚いたのは、トランスジェンダーの表象と黒人の表象の問題が分かちがたく絡み合っているということでした。俳優のラヴァーン・コックスをはじめ、多くの出演者がそのことを指摘するのですが、私はそれをこれまで感じたことがなかった。おそらく、私の肌の色と、住んでいる地域のために。日本に住み、日本内で圧倒的なマジョリティである肌の色をした私には、そうした表象の絡み合いの問題を意識せずに暮らせるという特権に浴していて、だから、私はその線を越えて語るべきではなく、むしろ黙って語りを聞き取ろうとしなければならないのだと思います。

 このことは、映画内でも最近の素晴らしい作品として紹介されているPoseを見るなかでも、またBlack Lives MatterやBlack Trans Lives Matterの運動を巡るさまざまな言葉を読むなかでも感じられていたことでした。ついついマイノリティであるというので、「私たち」と呼びたくなってしまう、「私も仲間だ」と言いたくなってしまう。けれど例えば私は普段暮らしていて自分が殺される可能性を強く感じたことはありません。以前にTwitter上で、黒人トランス女性の平均寿命は35歳だという趣旨のツイートを見たときに、自分の目に映っている世界の狭さに、愕然としました。そんな世界があるとは思っていなかった。

 また、PoseでもDisclosureでも、ボール・カルチャーが非常に重要なものとして語られていますが、これも私が属している歴史ではありません。ニューヨークのボール・カルチャーどころか、私は日本のクィア・コミュニティにも何ら属しておらず、そうした歴史に参加してはいない。だから、これもまた「私たち」と語ってしまえば、不当に語りを奪うことになるでしょう。

 Disclosureには、非常に多くのひとが出演しているので、「同じ」という意識と「違う」という意識を同時に抱かされます。それはなめらかでない、ざらついた感触なのですが、このざらつきを忘れてはいけないのでしょう。それを忘れたとき、私はきっと、勝手にトランスを語る非当事者たちと同じことをしてしまうことになるのだから。

 そして、そんなことをトランス当事者である私が感じられる映画というのも、凄いものなのです。だって、トランスの人物を取り上げるたいていの映画は、私から見たら「もう知っている」話ばかりなのですから。そうなるとどうしても、「私と大きく違うトランス当事者が存在する」ということは意識されないままになります。でも実際には、私からは見えない経験をしているトランス当事者もまた、当然いるに違いないのです。Poseがそうしたものを描く優れたフィクションであるとしたら、Disclosureは実物のそれを目の前に示してみせるかつてないドキュメンタリーなのだろうと思います。これが、Disclosureの圧倒的な凄さなのです。

 と、あれこれと語ってきましたが、実は言いたいことはひとつ。見てほしい! トランスジェンダーと言ってもこんなにもいろいろなひとがいて、いろいろな姿、声、経験を持ち、いろいろな言葉を使い、いろいろな思想を語っていることを知ってほしい! 非当事者の方にも当事者の方にも、いままで味わったことのない経験になるだろうと思います。

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