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新型コロナウイルスによってさまざまなものや考え方が揺らいでいます。そのなかでもStayHome、家にいることを余儀なくされたことで「家族」というものの存在が改めてクローズアップされ、またその問題点が浮き彫りになってきました。今回はこの点について考えていきたいと思います。
StayHomeが明らかにしたもの
子どもや夫が家にいるために「昼食」を作らざるをえないこと、休校になった子どもの勉強を見てやること、老いた親などが普段利用している介護施設のサービス縮小に対応すること。こうした事柄は、新型コロナウイルス対策としてのStayHomeによってやらざるを得なくなった家族の負担です。これにもっともコストを払っているのは女性であると、社会学者の落合恵美子さんは論じています(「家にいる」のはタダじゃない―家族や身近な人々が担う「ケア」の可視化と支援)。
落合さんはさらに、在宅で仕事をする夫のペースが家の時間軸となってしまい、妻の方は仕事を深夜にやるしかないという場合も珍しくないとしています。本論は、コロナ禍におけるStayHomeが女性たちの負担を増やし、睡眠時間を奪い、ときには仕事まで奪っている実態がある可能性を鋭く指摘しています。
災害を通じて家族が「危機」に直面しているとされたのは今回だけではありません。1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、その他数多くの災害により避難生活を余儀なくされた時に家族という存在はクローズアップされてきました。そして、その度にジェンダーの問題が取り上げられてきました。例えば、男性が「有償ボランティア」として瓦礫撤去などを行っている間、避難所に残った女性が無償で調理や掃除などに従事していたという話は珍しくありません。そのことを当たり前だと引き受けていて、多くの女性が疑義を示し難かったのがこれまでの日本社会です。
今回のコロナ禍においてキーワードとなったStayHomeは、家の外に出られないことによってジェンダーの問題に向き合わざるを得ない状況を作ったように思います。これまでブレッドウィナー(一家の稼ぎ手)は家の「外で働いていた」ために専業主婦(夫)が行っているシャドウワーク(専業主婦(夫)が行う家事など基本的に報酬がない仕事)が「見えない労働」となっていたのです。
しかし「家で働く」という事態は、シャドウワークの「見える化」をもたらしたといっても良いでしょう。一方、ずっと家の中に一緒にいるにもかかわらず「見えない労働」に対して「見て見ないふりをする」という戦略を選んだ人達も少なからずいるようです。そうした家庭では不和が発生しているのかもしれません。
専業主婦の存在を前提とした「近代家族」
ここで、これまで日本が女性たちのシャドウワークを前提に家族、そして社会を成り立たせてきたのかをみるために、戦後の日本の家族がどのように成立していったのかを簡単に振り返っていきましょう。
戦後の日本の家族は、「夫が外で働き、妻は家で専業主婦になる」というスタイル、いわゆる「近代家族」が主流になっていく過程を突き進んできたとされています。
第一次産業に従事する人が多数であった戦前の日本は、男女の区別なく働くことが当たり前でした。しかし明治期から「近代家族」が浸透し、高度経済成長期にあっというまに一般化していきました(父が家族を代表するのは「日本の伝統的な家族」だと誤解している人が今でも大変多いですが、家長である年長の男性が権限を持つ「イエ制度」も武家や公家のものであり、一般に広く普及していたとは言えない点も確認しておきたいところです)。
「近代家族」の普及に伴い、女性のあり方も変化しました。すなわち、女性は結婚して専業主婦になることが当たり前だと考えられるようになったのです。
家族社会学者の山田昌弘さんは、結婚の持つ意味が男性と女性とで異なっていると論じています。男性にとって結婚は人生における「イベント」であり、女性にとっては「生まれ変わり」とでもいうべき、人生を一変させる契機となるというのです。これはもちろん、女性が専業主婦となって家に入るため、それまでの人生とは大きく異なる役割を引き受ける結果になることを意味しています。
「近代家族」が一気に普及した高度経済成長期には、こうした「生まれ変わり」は結婚を促進させる側面がありました。経済が右肩上がりであった当時はサラリーマン化が進んでいた時代でもあり、若者が年功序列や終身雇用などに守られているのが当たり前でした。そのため女性は「生まれ変わり」にあたって、自分の父親よりも「恵まれている」相手を見つけることがたやすかったのです。もう一つ、大学進学率が上がったため父親よりも学歴が高い相手を見つけることも容易でした。
しかし、長引くデフレ・低成長のなかで、この図式は崩れました。結婚による「生まれ変わり」が困難になり、未婚化・晩婚化が進んだのです。未婚化・晩婚化の原因は「女性の上昇婚志向」であるという言説をしばしば見かけますが、これは若者の雇用状況の変化、親世代との格差、さらに恋愛における「好み」の問題を恣意的に結びつけている点で注意が必要でしょう。最近の研究では経済成長の低さ自体が結婚にブレーキをかけるという説も有力視されています。
ともあれ、結果としては同じことです。デフレ・低成長によって、高度経済成長期の生活の見通しの立てやすさを背景としていた結婚による「生まれ変わり」が崩れた今でも、日本の家族は、制度として「専業主婦」の存在を前提としています(もちろん男性の「専業主夫」もいることを忘れてはいけません)。ここに現在の家族に関する様々な制度の歪みがあるといえます。
近代社会は家庭内のシャドウワーク、つまり専業主婦(夫)が行う家事など基本的に報酬がない仕事を前提としています。主に男性が担当している、外で働く賃金労働者、すなわちブレッドウィナーの生活を維持するためにシャドウワークが不可欠だからです。
この構造は社会の再生産の仕組みそのものに深くかかわっています。シャドウワークには、家事、妊娠や出産、子育て、介護等も含まれていて、個人の生きやすさに直結しているからです。
この生きやすさを支えるシステムの代表として「家族」「政府」「市場」が挙げられます。近年ではNPOや地域のつながりなどもその担い手として期待されています。
ここで注目するべきなのは、日本政府が生きやすさの担い手として「家族」によるシャドウワークを当て込んでいるという点です。政府が家族を支援するために支出している額は、イギリスの3分の1ほど、フランスの半分ほどと先進各国と比べても非常に低いのが現実です(※家族関係社会支出(各国対GDP比): 子ども・子育て本部 – 内閣府)。
実際に1978(昭和53)年の厚生白書では次のように明言されています。「同居という、我が国のいわば「福祉における含み資産」とも言うべき制度」つまり家族による介護を当て込んで国家予算を節約してきたのが、「日本型福祉」と呼ばれる方式の一つなのです。
専業主婦(夫)の無償労働を当て込んでようやく成立してきた家族。それがここまで述べてきた、戦後の日本における家族の歴史でもあります。最初にみたように、この部分こそが、現代のコロナ禍で浮き彫りになった部分だと言えます。
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