ポストコロナと家族 StayHomeが暴いた近代家族の歪み

文=永田夏来
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StayHomeで「コト消費」ができなくなった

 話をStayHomeに戻します。

 そもそも「家族とずっと一緒に家の中にいる」という体験自体、実はかなり珍しいものなのではないかと考えます。子育て世帯は長時間労働や遠距離通勤などであまりに忙しく、子どもと夕食すら食べられないという状況が一般的です。こうした日常を送っていた人々にとって「家族とずっと一緒に家の中にいる」というのは大変新鮮な体験だったと想像できます。

 家族が一緒にいる、ということを考えるにあたって、参考にしたいのが「コト消費」です。ここ何年か聞かれるようになった「コト消費」という言葉は、モノを買うことではなく、コト、つまり体験そのものを消費するということを意味しています。

 経済産業省の「コト消費空間づくり研究会」では、次のように説明されています。「コト消費とは、魅力的なサービスや空間設計等によりデザインされた「時間」を顧客が消費すること」。

 このように、滞在して時間を過ごすことに対してお金を払う「コト消費」は、欲しいモノがなくても楽しめる新たな消費スタイルとして定着していきました。コト消費の最たるものとしてよく例に上げられるのが音楽のライブです。ライブを観に行って盛り上がることは、イヤホンを使って一人で音楽を聴くこととは全く違う体験です。そしてこの「コト消費としてのライブ」の極致が、夏フェスといってもいいでしょう。野外のステージで音楽を聞くことは、非常に素晴らしい時間の過ごし方だと感じる人が多いのでしょう。

 しかしそこには限界があります。いってみれば「どのコト消費も似たようなものに感じてしまう」、つまりコモディティ化の問題です。同じような構成、同じような出演者、同じような演出。体験を増やしていくにしたがってこうした状況に直面するのはどうしようもないことです。

 コモデティティ化したことによって、出かけることの特別感は目的地となる場所に集約されていきます。例えばフジロックであれば、会場となっている苗場スキー場がそのシンボルです。夏にあの場所に行って音楽を聴くということ自体が目的になっているフジロックのファンは少なからずいるはずです。そしてもう一つが、一緒に行く仲間です。つまり、気のおけない仲間とある場所に行くことが特別な「コト」となるというわけです。

 子育て世帯においては、バーベキューやドライブ旅行、オートキャンプなどが一般的な「コト消費」でしょう。小さい子どもがいる場合は大型商業施設のプレイルームやアンパンマンミュージアムなどがしっくりくるかもしれませんが、未婚者でもイメージしやすいように、温泉旅行を考えてみます。

 どこかの地方都市に行って、名物を食べて、浴衣を着て、温泉巡りをするという一連の行動は、実はほとんど同じことのはずです。本当の目的は「別府」や「草津」といった特別な場所に、大切な人(例えば家族など)と一緒に行くという「コト」なのではないでしょうか。こうして隆盛した「コト消費」は、子育て世帯においては、子供を自由に遊ばせることによって親自身の気分転換や休憩を期待できるという事実が確実にあります。また、日本の狭い住宅状況においては家族全員で過ごすためには外に出て行かざるを得ないという側面もあります。

 しかし、そのような「コト消費」は、コロナ禍の緊急自体宣言下では一切できなくなりました。もう少し踏み込んで言えば、「コト消費」に慣れ親しんだ現在の家族は長時間ただ家にいるという状況に初めて直面し、「コト消費」の代替となるエンターテイメントを家庭内で準備せざるを得なくなりました。これがいかに大変なことかは、みなさんが体験された通りです。

 私の友人たちも、ベランダにテントを張ったりパンやうどんを捏ねたり、子どもたちを飽きさせないように自宅で涙ぐましい努力をしていました。その担い手は主に母親です。大きな問題がなかったかのように見えるStayHomeですが、従来の家事育児に加えて、従来学校や学童が行っていた教育的な機能だけでなく、マーケットが担ってきた「コト消費」の代替までも家族が隠れて担っていたことを見逃してはなりません。

 こうした過剰負担こそが、「家族とずっと一緒に家の中にいる」ことにだんだんとイライラする背景です。家庭内に留まるという密室性がDVなど深刻な状況を招くのはいうまでもありませんが、そこまで行かなくても「もう限界だ!」と投げ出しそうになる気持ちをグッと堪えて子どもと向き合ったシャドウワーカーは少なくないはずです。

ポストコロナの可能性

 このように、コロナ禍は確かに家族をも襲いました。しかし不謹慎かもしれませんが、それは必ずしも悪いことばかりではなかったように思います。

 例えばシャドウワークの「見える化」。自宅勤務を通じ、子どもの相手がどれほど大変かを目の当たりにした父親も多かったことでしょう。見てみないふりをするのではなく、シャドウワークが現実に存在していること、その担い手が固定化されていることに気づけば、新たな家族間の関係性が構築できるように思います。

 あるいは「コト消費」に代わる時間の使い方。ご飯を食べたりテレビを見たり出かけたりする場合ではなく、ただ単に「一緒にいる」というただそれだけのことが意外に難しいことに気づいた家族も多かったと思います。

 私もハマっている任天堂のゲーム「あつまれ どうぶつの森」は自分が島に住んで他の住人たちと交流するゲームで、世界的大ヒットとなっています。注目したいのは、あの中で描かれる住人同士の「なんてことはないけれどなんだか愛おしい」というような関係性です。ただ一緒にいるだけで、特に何もしないけど安心できる。そんな関係性が改めて重要になる時代かもしれません。戦後長い間温存されてきた「女性が担うシャドウワーク」という構造を根本的に変わるきっかけとして、積極的な位置付けを与えることを考えたいものです。

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