「セクハラされたことある?」と聞かれて、私は答えられなかった——セクシャル・ハラスメントに傷ついたあなたに伝えたい“心の守り方”

文=みたらし加奈
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——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。

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 先日話題となった、ある男性編集者による「セクハラ」問題と、某芸能プロダクションの幹部による、アイドルへのセクシュアル・ハラスメント問題。いずれも「文春オンライン」が報じたもので、どちらのケースもやりとりの詳細が掲載されており、(後者に関しては報道の仕方に疑問は残るものの)“仕事をもらう”立場だからこそ、「そうせざるを得なかった」対応をしているように感じた。努めて明るく振る舞う両者の文字から滲み出る、悲しい「笑顔」の理由を私は知っている。

 「セクハラ」が日本で初めて注目されたのは、今から31年前のこと。平成元年に初めて、セクシュアル・ハラスメントを争点にした裁判が起こされた。前例のない裁判は、センセーショナルなニュースとして大々的に取り上げられ、原告である女性は相当なバッシングを受けたという。

 結果は、原告側の全面勝訴。セクハラを行った元上司や、会社側にも損害賠償請求がされることとなった。裁判から5年後には、男女雇用均等法に規定が設けられ、日本中の企業に対してセクシュアル・ハラスメントの予防や対策の義務化が求められるようにまで社会は動いた。

 しかし、現実ではどうだろう? 法律は変わったのに、セクハラの被害はなくならない。「セクハラ」という言葉すら、性暴力をめぐる問題の矮小化に繋がる恐れだってある。平成元年の裁判によって、ようやく“問題”として扱われ始めるようにはなったものの、結局は「個人の認識の違い」としてスルーされてしまう事案は後を絶たない。

 セクシュアル・ハラスメント、いわゆる「性的嫌がらせ」は、職場での不快な会話などに限った話ではない。強姦や強制猥褻という刑事犯罪にあたるものから、「民事上の不法行為にあたると判断されない単なるマナー違反」まで、その罪も決して軽くない。そしてその対象に、性別やセクシュアリティは関係ない。

 ではどのような事柄を「セクシュアル・ハラスメント」として断定できるのか、法務省の人権研修シリーズ「セクシュアル・ハラスメント」の資料をもとにまとめると、以下のような行為が該当する。

1. 性別や容姿、身体的特徴によって、仕事の内容を変えられる

2. 身体的特徴を話題にされる

3. 食事やデートにしつこく誘われる

4. 私生活上のことを暴露されたり、話題にされる

5. 性的なことを聞かれたり、話題に出される

6. 服装についての冗談を言われる

7. 身体をじっと見つめられる

8. 身体に触れられる

9. 個人的な性的体験談を話される

10. 肉体関係を迫られる

 上記に含まれてはいないものの、例えば「目に映る範囲に、アダルトコンテンツを置くこと」などもセクハラだ。

「そのスカート、もっと短い方がいいんじゃない?」

「女の子はお茶だけ汲んでくれる?」

「もう少し隙がないほうがモテるよ!」

「今度2人でご飯食べにいかない?」

「女同士ってどんなセックスするの?」

「肩凝ってるね、揉んであげようか?」

 そうした言葉の数々と、舐めまわされるような目つき、そっと触れてくる手、こちらに向く笑顔……。今まで自分が遭遇したシーンが、走馬灯のように蘇る。これらは上記の定義に十分当てはまっていた。しかし、明らかに「性的に見られている」と感じる時でさえ、私は「自分が自意識過剰なんだ」と怒りを呑み込んできたのだ。それらの言動に対して、「もう〜! それセクハラですよ〜!」と冗談めかして笑う自分も大嫌いだった。

自分と相手の「快・不快」をわける

 「セクハラされたことがあるか?」と尋ねられた時、あなただったらどう答えるだろう。私はずっと、「どこからがセクハラっていうのかわからない」と答えてきた。そもそも「どこから」というワードが出ている時点で、私の答えは”YES”に近いはずなのだが、昔はなんとなくそう答えることで「余裕のある自分」でいられるような気がしていたのかもしれない。

 「性的な嫌がらせ」を受けた時、それについてすぐに反応できる人は限られていると思う。その言動を受け取る瞬間はすぐに過ぎ去り、心にモヤモヤしたものを抱えたり、思考停止をしてしまう人だっているだろう。本当は傷ついているのに、さらに傷口を広げるような行動をとってしまう場合だってある。「これは問題じゃない」と思い込んでいても、後でその傷の大きさに気付く人もいる。

 私たちは1人の人間で、平等な人権を持っているはずなのに、その前提はいとも簡単に吹き飛ばされてしまう。「傷ついたこと」を認めるのは決して弱さではないのに、「傷ついた」と口にすることを躊躇し、自分の心を疲れさせてしまう人も少なくない。でも、誰がなんと言おうと「あなたが傷ついた事実」は覆されることはない。だからこそ私は、これらの問題を風化させる流れや、軽視するような声に疑問を感じている。

 たとえ性的な目で見ていなかったとしても、閉ざされた人間関係の中では「10人の中でたった1人でも不快に思いそうな言動」はとるべきではない、と私は思う。「自分はされてもいいのに」とか「他人の不快な気持ちなんて予想がつかない」と感じたとしても、目の前の相手が「いやだ」と思っているのであれば、それはすでに“いいコミュニケーション”とは言えない。信頼関係は常に、お互いへの“配慮”で成り立っているからだ。

 人間というものは「完璧な生き物」ではない。だからこそ私も、“NO”と言われたときには言動を改めたり、謝罪ができるような自分でありたいと、いつも思っている。

 冒頭で触れたセクハラ問題のように、利害関係があるような場所で相手が不快に思う行為をすることは、なおさらあってはいけないことだろう。必ずしもお互いへの配慮が対等にはならない関係性においては、“NO”と声を上げることがさらに難しくなってしまう。もしも自分の言動に対して、少しでも不安要素があるのであれば、「その言葉を、“初対面の相手”や“親しくない上司”に言えるか」、一度考えてみてほしい。

 そして、コミュニケーションというものは、信頼関係に依存する部分もあるからこそ、「この人には大丈夫だけど、この人にはだめ」ということだってある。また「大丈夫だと思っていた人が、実は“ダメ”だった」ということだってあり得るだろう。日本では、“YES means YES”、“NO means NO”というストレートな意思表示をしない人は多い。「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉からもわかるように、“NO means YES”“YES means NO”という真逆の意味合いで言葉を使うこともあるからだ。

 もしかしたら、私が薄く笑いながら聞き流した相手は「こいつは“そういう話”ができる」という認識を持ってしまったかもしれない。私が笑ってしまったことによって、相手にある種の「成功体験」を与えてしまった可能性は大いにあり得る。それによって、私以外の人に同じことを繰り返していたら……。その恐ろしさに気がついた私は、「笑わない」を心がけるようになった。利害関係が生じる場面では、強く怒ることが難しいからこそ、引き上げていた口角を下げることのほうが楽だった。

 もちろん、これは私自身の内省であって、この手法を誰かに押し付けるつもりは毛頭ないし、「加害を行っている側が悪い」という事実が変わることもない。「自衛」は個人の自由の範囲内であっても、「加害」は個人だけの自由ではない。いじめ問題について「被害者にも非があった」と言う人はほとんどいないのに、性的被害に関しては「被害者の非」を探す人たちは多い。

 「セクハラなんてかわせばいいじゃない」「冗談が通じない」「あなただって笑っていたでしょう」なんて言葉は、被害者を孤立させ、問題をより一層深刻にさせる場合もある。意識的に“YES”や“NO”を伝えない限り、人間関係というものは「曖昧なこと」だらけなのだ。だからこそ、言語化できない部分でも、相手を気遣いながらコミュニケーションを取っていくことが大切なのだと思う。それを怠っている人の言動は、切れ味のいいナイフと同じである。

 男女関係なく、セクシュアル・ハラスメントを行う人は、自分の「快・不快」と他人の「快・不快」を混同している場合が多く、こういった傾向のパターンについて「自他境界がない」なんて言い方をすることもある。「女性は〜」とか「男性は〜」という主語の大きさで物を語る限り、そこに「相手が1人の人間である」という前提は欠けている。

 そもそもこういった話をテーマにした時に、男女の対立構造のように捉えられがちだが、私はその認識自体が間違っているように感じる。セクシュアル・ハラスメントというものは、女性が男性に、男性が男性に、女性が女性に対して行う行為も含まれているからだ。性別やセクシュアリティを問わず、多くの人たちが自分自身の振る舞い方について考え直してみることも大切なのかもしれない。

 もしもあなたがセクシュアルハラスメントに悩まされている場合は、まずは「傷ついている」という事実に蓋をしてしまわないよう、ほんの少しだけ勇気を出してほしい。相手を目の前にして、「笑わない」ことを心がけてみてもいい。切れ味のいいナイフをもっている人がそばにいるのであれば、できる限り距離を取ってみることも大切だ。私が憤りを覚えるのは、社会の風潮が変わらない限り、「傷ついた側が行動をせざるを得ない場面」がたくさんあるということだ。傷ついた側が自衛をしなくてはいけなかったり、声を上げなければならない状況は確かに存在している。

 しかし、忘れないでいてほしい。私を含め、あなたの味方は必ずいる。この文章が、傷ついているあなたにも届くよう、心から願っている。

(記事編集:千吉良美樹)

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