民主主義って、なんでしょうか?
私が初めて民主主義という言葉を知ったのは、小学校低学年のとき。漫画「あさりちゃん」がきっかけでした。文脈は忘れましたが、主人公のあさりちゃんが、「民主主義の基本は多数決でしょ!」と言っていたのです。
小学生の私は、「民主主義ってなんか、かっこいい」と思っていました。学校で歴史を学ぶにつれ、「昔は貴族とかお金持ちの人しか政治参加できなかった。女性が参加できない時代もあった。でも、今はみんなが公平に参加できるチャンスがある。日本は民主主義の国なのだ」と思うようになりました。
しかし、今は「日本を民主主義の国、と言い切ることはできない」と思っています。今回は、前田健太郎著『女性のいない民主主義』(岩波新書)を参考に、なぜ日本は民主主義の国だと言い切れないのか、私見を述べていきます。
人口の半分に参政権を与えない政治体制も、かつては民主主義だと考えられていた
1917年、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンは、連邦議会の上下両院の合同会議に出席しました。目的は、第一次世界大戦に参戦するべく、ドイツへの宣戦布告を議会に提案するためです。そこでウィルソンが、「世界は、民主主義にとって安全でなければならない」とスピーチをしたことは広く知られています。
しかし、アメリカに女性参政権が導入されるのは1920年のこと。ウィルソン大統領がスピーチした時点ではアメリカの女性には参政権はありませんでした。つまり、ここでウィルソンが述べた「民主主義」の理想には、女性は含まれていなかったのです。
それにも関わらず、当時から、アメリカ=民主主義の国だと考えられていました。なぜ人口の半分に参政権を与えない政治体制が、民主主義と呼ばれていたのでしょうか?
それはこの時代、民主主義とは「政治指導者が競争的な選挙を通じて選ばれる政治体制」のことに過ぎず、選挙を通じた政権交代が可能になるような言論の自由が保障されていれば民主主義国家と分類してよい、と考えられていたからです。
しかし、現代は違います。女性に参政権がない国を民主主義の国だ、と定義する人は少ないでしょう。今は、「民主主義とは、市民の意見を平等に政策に反映させられる政治体制」だという定義が先にあり、その定義に照らし合わせて、「この国は民主的な国か否か」を検討する段階にきているのです。(※1)
ほぼ男性。5割は世襲。「属性偏りすぎ」による弊害
では日本は現在、民主的な国だと言えるでしょうか? 参政権は階級、所得、性別に関係なく与えられていますが、「市民の意見を平等に政策に反映させることができる政治体制」になっているかというと、疑問が残ります。
「市民の意見を平等に政策に反映している」と言い難い理由はふたつ。
ひとつには、圧倒的に男性の手に政治権力が集中していることが挙げられます。2019年6月時点で日本の衆議院における女性議員は10.2%。議員下院における女性議員の割合としては、世界192カ国中163位です。また、中央省庁の最高幹部である事務次官や局長など国家公務員の指定職相当に占める女性の割合は、2018年7月時点でわずか3.9%にしかすぎません。前田さんは、「日本の政治には、まず何よりも男性の手に権力が集中しているという特徴がある」「日本の民主主義は、いわば女性のいない民主主義だ」と指摘します。
「女性のいない民主主義」は、女性にとって災難です。性犯罪は軽視され、男女の賃金格差は放置されます。女性の自己決定権と体を守るためのピルは入手が難しくなり、シングルマザーの貧困は放置され、国連から「人権侵害だ」と再三指摘されても夫婦別姓は認められません。
非正規雇用をめぐる問題については、男性が非正規にならざるを得ない状態になって初めて議論の俎上にのることになりました。この一件からも、「女性のいない民主主義」においては、「女性のみの問題」であるうちは、「とるにたらない問題」とみなされるどころか、「問題として認識されない」ことが明らかです。
女性差別をしていた医大が、何か罰を受けたのか、思い出していただければと思います。女性の体の権利、賃金、地位、人権問題について、一部の男性が決められる権力を牛耳っている、という現状においては、企業や学校があからさまな男女差別をしても、なかったことにされてしまうのでしょう。
じゃあ、女性も立候補すればいいじゃないか、という声もあるでしょう。その通りです。女性もどんどん立候補したらよいですね。しかし現状、女性が男性とまったく同じ条件で選挙を戦うことは不可能です。
<女性に競争を回避させるジェンダー規範がある限り、自由な競争に開かれた選挙制度は、それが競争的であるがゆえに、男性に有利な仕組みになってしまう>(P.21)
ジェンダー規範を乗り越えて、女性が競争にアグレッシブに参加した場合、男性であればリーダーシップがあるとプラスに捉えられる場合であっても「女らしくない・女のくせに・偉そうだ」と叩かれることになりやすいです。
ふたつ目は、世襲議員が多すぎることです。日本の政治家は5割程度が世襲議員です。これほど世襲議員が多い国は世界中で日本だけだ、という指摘もあります。(※2)半分が世襲だなんて、貴族制と大差ないと思うのは私だけでしょうか? これでは庶民の生活に即した政治を行えるはずもありません。
日本の政治をより民主的にするためには?
民主主義はグラデーションだとも言われます。
きっちりと、「この国は民主主義だ、あの国は違う」と分けられるのではなく、民主主義を標榜している国でも、その民主度にはグラデーションがある、というわけです。日本の民主主義レベルは今、どれくらいの濃さでしょうか。
日本では、2018年に候補者男女均等法が設立しました。候補者男女均等法とは、候補者の男女比を近づける努力義務を政党に求める法律です。違反に罰則が課されているわけではないため、ラディカルな変化は期待できませんが、「女性のいない民主主義」を問題だと認識・可視化させたという意味で、有意義な法律だと言えるでしょう。
フランスでは、パリテ法(候補者の男女比を近づける義務を政党に求める法律。候補者男女均等法と違い、違反した党には助成金を減額するなどの罰則規定ある)を導入したことにより大幅に女性議員の割合が増加しました。1980年代には、女性議員の割合が1割にも満たず、日本と大差のなかったフランスですが、2017年の選挙では当選者の4割が女性になったことからも、パリテ法の効果がうかがい知れます。
クリティカル・マス理論(臨界質量。もともとは核物理学の用語。その質量を超えると連鎖的に核分裂反応が起きる最小の質量のこと)によると、女性議員の割合が30%を超えて初めて、女性議員は本来の力が発揮できると言います。つまり、現状はまだ、女性の声が政治に反映させ辛い状態にあるということです。
しかし、明るい兆しも見えます。2019年の参議院選挙において、立憲民主党が比例代表候補者の4割を女性とする方針を発表後、最終的には候補者の45%が女性となり、他の野党も積極的に女性候補者を擁立した結果、全候補者に占める割合が過去最高の28%に達しました。本書では、「将来的には、政党が女性候補者の割合を数値目標として設定する光景が日本でも広く見られるかもしれない」と予測しています。
「もう民主主義は実現されている」と決めつけてしまうことは、民主的であることを放棄することと同義です。たとえ、男女の比率が改善されたとしても、課題は残ります。男女比が平等になったとして、では、その中の5割が世襲である場合、民主的と言えるのか、意思決定層が産まれながらの富裕層や高齢者に偏っている状態は民主的と言えるのか…など、常に問い続ける必要があります。
時代によって、「民主的であること」の意味は変わってきます。少なくとも現代は、「女のことも、男が決めればいい。それが民主主義だ」という時代ではないはずです。政治における男女比の改善は、民主的な政治を目指すための大きな、そして不可欠な一歩なのです。
※1
英国エコノミスト誌参加のエコノミスト・インテリジェンス・ユニットでは、2006年以降、各国の民主主義のレベルをランク付けした民主主義指標を毎年発表。
https://www.eiu.com/topic/democracy-index
※2
ダイアモンドオンライン:なぜ日本だけ、世界で突出して世襲議員が多いのか
(原宿なつき)