過去を消去する記念碑打ち壊しを「野蛮」と一蹴できない理由

文=柳原伸洋
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白人警官に押さえつけられ黒人男性死亡 米ボストン、コロンブス像の頭部破壊
写真:AP/アフロ

 2020年6月以降、アメリカ合衆国・中南米・イギリスでの記念碑の引き倒しや破壊が相次いだ。この背景には、アメリカの警察官による黒人への暴行などに端を発した黒人の差別撤廃運動、BLM(Black Lives Matter)があった。よって主に破壊されているのは、植民地の歴史に関わった人物の像である。ネット空間では、植民地の歴史は認めつつも「野蛮だ」や「歴史の破壊」などの書き込みが溢れた。

 通常、私たちは記念碑に着目して日常生活を送っていない。たとえば、オーストリアの小説家ローベルト・ムージルは、1936年に「記念碑の最たる特徴はつまり、それを気にかけないという点である」と書いた。記念碑の研究者やマニアはともかく、日頃から記念碑に目を留める人はそれほど多くないだろう。つまり、記念碑が注目されるとき、それは歴史への関心が高まり、今回のように植民地の過去が着目される「歴史的」瞬間なのである。

 本記事ではまず、ごく短く近代以降の記念碑の歴史をたどろう。なぜなら、今回の破壊・撤去対象となった記念像は、19世紀から20世紀初頭に建造されているからだ。たとえば、ブリストル港に放り込まれたイギリスのエドワード・コルストン像は1895年に完成し、ドイツで撤去が議論になったハンブルク市のビスマルク像は、たとえば1898年や1906年に建造された記念碑である。20世紀の変わり目は、ヨーロッパを中心に「個人の顕彰碑」が建てられた時期だった。

 まずはここへと至る歴史的な道筋をたどっておこう。その後で、今回の記念碑破壊についての、もう一歩先を考えてみたい。

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ハンブルク市内のビスマルク記念碑(筆者撮影)

「友愛」のための記念碑

 近代における記念碑建造開始の一つの理由は「友愛」である。これは、18世紀後半のフランス革命の理念の一つで、日本では「博愛」とも訳される。この語の概念史は相当複雑だが、それを措いても「博愛」とは少し異なる点は指摘しておきたい。重要なのは、「愛」の範囲が限定されていたということである。この範囲は「友」、さらに歴史的により正確に言い表せば「国民」だった。

まず、「記念碑大国」といえるドイツの記念碑史について触れていく。これは松本彰『記念碑に刻まれたドイツ 戦争・革命・統一』(東京大学出版会、2012年)に詳しいので、本書の記述を参照しながら19世紀以降の記念碑の変遷を概観してみよう。 

 19世紀のドイツは、「国民・国家」、ドイツ語では「ナツィオーン」(英語:ネイション)をめぐる歴史だといえる。このナツィオーンの枠組みは討議されつづけ、ときの文化人や権力者によって修正を加えられてきた。

 20世紀、ヒトラー率いるナチ党も「国民社会主義(ナツィオナール・ゾツィアリスムス)」を党名に含んでおり、19世紀の「国民」の議論の歴史が反映されている。たとえば南ドイツのバイエルン王国では、1842年にヴァルハラという神殿がドナウ河畔に建てられ、「ドイツの英雄」を顕彰した。ただし、「ドイツ語」人ということで、18世紀のロシア皇帝エカチェリーナ2世も入っている。つまり、「国民」の範囲は言語・地域などと関わりながら、常に揺れ動いていた。

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ドイツ・レーゲンスブルク近郊にあるヴァルハラ(筆者撮影)

 「ナツィオーン」を体現したのは女神の記念碑だ。ここで用いられた「ドイツ」の象徴はゲルマーニアである。ただし、他の地域もプロイセンの女神ボルシアやバイエルンの女神バヴァリアを創造していく。前者はドイツのサッカーチーム「ボルシア・ドルトムント」に用いられ、後者はミュンヒェン市のオクトーバーフェスト会場に巨大な立像がある。ほかにも、都市レベルで、ベルリン市は女神ベロリーナやハンブルク市は女神ハルモニアなどと各地に次々と女神が「召喚」されてしまい、19世紀後半には女神過多の時代を迎える。

 この乱立から分かることは、各地のアイデンティティの多様性であり、現在の「ドイツ」という統一体は19世紀史に照らせば決して必然ではなく、様々な歴史的可能性があったことも記念碑から読み取れる。

戦争による統一?

 1870〜71年の独仏戦争でのプロイセン・ドイツの勝利は、「ドイツ統一」を一気に押し進めた。戦争は各地域の男性が兵士として戦場におもむいて、郷土に貢献したという語りが記念碑によって体現されていく。ここに各地の物語が「ドイツ」に結びつけられていく。ただし、まだ揺らぎがあった。19世紀末の西南ドイツの郷土博物館や記念碑を研究したアーロン・コンフィーノは、この時点ではまだ「公国・都市」などの「ドイツ」に回収されない領邦レベルでのアイデンティの揺らぎを指摘している[1]。

 この同時期の19世紀後半、徐々に個人を顕彰する記念碑が建てられはじめる。ドイツ皇帝のヴィルヘルム像はもちろんのことだが、実際にドイツでもっとも知られるのはビスマルク記念碑だろう。ビスマルクが死去した1898年頃から、ビスマルク記念碑は建造ブームを迎える。破壊された記念碑も多いが、現在でもビスマルク像を収集したサイト「ビスマルキールング(英語だと、ビスマーキングとなる)」というサイトで多くを見ることができる[2]。

 また一見、記念碑だと思われていない建造物も「記念碑的要素」が強い。それはケルン大聖堂だ。この建造物は、およそ300年のあいだ建築途中で放置されていたが、1880年に完成する。これもまた、ドイツ統一とナショナリズム高揚を受けて建設作業が再開された結果としての「記念碑」である。

[1]Alon Confino, The Nation as a Local Metaphor: Württemberg, Imperial Germany, and National Memory, 1871-1918, UNC Press Books, 1997.
[2]ビスマルキールングのサイト: http://bismarckierung.de/

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