第一次世界大戦という大量死の衝撃
第一次世界大戦での大量死は、記念碑の性質を一変させる出来事だった。具体的には、各地域に「戦士記念碑」、そして「無名兵士の墓/記念碑」が建造された。無名兵士の墓は個々人ではなく郷土のために死んだ兵士たちを慰霊・顕彰するものである。
第一次世界大戦後、記念碑やその破壊をめぐる闘争は、すでにヴァイマル共和国ドイツに存在していた。1929年にマクデブルク市の依頼で建造されたエルンスト・バルラッハの「栄誉の碑」は、兵士の痛みや哀しみを色濃く表現しており、「勇ましさに欠ける」という理由で、退役軍人を中心とした組織やナチ党に非難を受けていた。そして、ナチ政権成立後の1934年に撤去された。

マクデブルク大聖堂の「栄誉の碑」(CC-BY-3.0)
他にもヴァイマル期の記念碑が1933年以降に撤去されている。たとえば、「共和国のための犠牲者」としての顕彰された社会民主党員ルートヴィヒ・フランク像(マンハイム市)や、バウハウス校長のミース・ファン・デァ・ローエのリープクネヒト=ルクセンブルク記念碑(ベルリン市)、そしてユダヤ系の著名人の記念碑が撤去の対象となった。
第二次世界大戦後の記念碑の破壊と利用
第二次世界大戦は一次大戦以上の死者を出したが、顕著な相違点は民間人の死者数の多さである。空襲犠牲者や旧ドイツ東部領からの避難民の慰霊碑などが次々と建造された。ただし、既存の戦士記念碑に民間人犠牲やの名前を追記して、戦災者を含めた記念碑とした事例が多い。
そして、ナチ関係の記念碑の多くは破壊されるか、建て替えられた。たとえば、デュッセルドルフでは、ナチ期に英雄化されたシュラーゲターの記念碑は撤去され、1958年に三女神像を中心とした追悼と警告の空間に改築された。他方でハンブルクでは、ナチ時代の1936年に建造された戦士記念碑は破壊されずに、記念碑の解説板を設置し、隣接して警告の碑を建造することで、ナチズムの過去を伝える役目へと変更された。
また、ドイツやヨーロッパでは街路名や広場の名前に人物名が付けられている。これらも時代によって変化していく。とくにナチ時代に活躍した人物や戦意高揚に用いられた名前は、戦後は徐々に問題視され変更されていった。なお、東ドイツでは「ナチ抵抗者」と「社会主義の貢献者」の名に改名されることが大方。また、旧西ドイツ・エアランゲン市では現在も「ランゲマルク広場」が問題となっている。ランゲマルクは第一次世界大戦の激戦のひとつで、戦意高揚のプロパガンダに多用された地名である。
街路名については、日本でも旭川市駅前の通称「師団通り」は、戦後直後に「平和通り」へと改称された事例がある。日本の場合には、「平和」と名の付く土地が軍事と関わっている場所で戦後に変名された事例が多い。
記念碑を打ち倒すと、自分たちの過去が消える?
以上のように記念碑の変遷に関し、ドイツを中心に、日本とも関わらせながら述べてきた。
今回の「記念碑打ち壊し」は植民地の歴史に関わった人物を顕彰した像の破壊・撤去・落書きなどが問題になっている。日本に当てはめれば、北海道の「屯田兵記念碑」など、まさに同種の記念碑は日本にも点在している。巨大なものであれば、宮崎の八紘之基柱(あめつちのもとはしら)は、通称「八紘一宇の塔」、そして現在は「平和の塔」と改称されている。ほかにも、日本各地そしてかつての旧・大日本帝国領域内には「忠霊塔」などが建造された。多くは破壊されたものの、いくつかは「慰霊塔」と名を変えて日本各地に残置している。これらは、私たちの多くが「見えないこと」にしている記念碑群だが、今回の事件をきっかけに着目されることを願う。
今回の記念碑破壊について、なかには内心「もっとやれ」と思っている方、そこまでではないが、ある種の「スッキリ感」を感じた方もいるかもしれない。気をつけなければならないのは、SNSには、「炎上」などの恐れもあり、多数者の心情を反映した意見が表出しているわけではない点だ。つまりSNSには「書きにくいこと」がある。
多くの歴史研究者や知識人も、記念碑を打ち倒すことは「歴史の破壊」だと意見するだろう。私自身も「銅像の撤去や破壊は、結果的に過去を消去することにつながります」とTwitterに書き込んだ[3]。このように研究する側からすれば、残してほしい気持ちが先立つ。または本記事の最初で述べたように「暴力行為」あるいは「お行儀の悪い行為」として、記念碑破壊は捉えられるだろう。
しかし、私を含めた大学教員や、もしかしたらこの記事を読むような方々は、「学校教育」を(ときには反発しながらも)甘受してきた立場なのではないだろうか。最後に、記念碑と文化との関係について考えながらこのことについて言及してみたい。
ドイツ史の事例でも分かるように、記念碑は「公的な歴史の具体像」で、すべてではないが公定的な集合的記憶の象徴である。さらに「友」の範囲が限定されているのが、近代の記念碑の特徴だった。
公的な記念碑を建造してきたのは誰だろうか? それは学校教育に象徴される「文化」の担い手、あるいはその協力者である。歴史的には「記念碑を建てることができる者」と、そうではない人々がいた。つまり、誰もが「公共の歴史」に参加してきたわけではない。
今回の記念碑破壊は、「友」の範囲の外に置かれ、記念碑建造のイニシアティブの外に置かれた人々の声だとも捉えることは可能なはずだ。記念碑破壊を野蛮だと難じる人々は、文化の擁護者たる「よい子」である。『反文化宣言』を書いた画家ジャン・デュビュッフェは、「教授というのは生徒の延長」であり、「知識人は支配階級から選ばれるか、それに入りたい人々のなかから選ばれる」と書く[4]。手厳しいが的を射ている。記念碑は「文化=公共の歴史」を空間に押しつけている。
ただし、これを破壊しようとする「声」に耳を傾けようとするのは簡単ではない。私個人は破壊に対して「ノー」を突き付ける。しかし、その拒絶の手前で立ち止まって「声」を聴き、受け止めることはできないだろうか。破壊にまで至った意味を、である。
次に、さらに困難だろうが、破壊を拒絶するのでもなく、どこかで「折り合う」ことはできないだろうか。記念碑の歴史を紐解けば、実際には折り合いをつけて建造・改造・保存された記念碑もあるのだから。「よい子」なので暴力は避けたいが、どこかで折り合っていくような歴史実践を、思い悩みつつも志したい。
[3]https://twitter.com/nob_de/status/1270587900866883584
[4]ジャン・デュビュッフェ『文化は人を窒息させる デュビュッフェ式〈反文化宣言〉』(杉村昌昭訳)人文書院、2020年。
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