動物をパートナーにする動物性愛者と、そうでない者との境界線

文=濱野ちひろ
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GettyImagesより

(※本稿の初出は『yomyom vol.62』(新潮社)です)

 禁忌は境界線上に生ずる。文化人類学者のエドマンド・リーチによれば、人間はものごとを分類して名付けることによって、たくさんのものからなる世界を理解する。椅子と机は、両方とも往々にして木材から出来ていて、共に四本の脚で支えられていることが多いが、椅子が机でないように、机も椅子ではない。椅子は人間が腰掛けるもので、机は人間にとって使い勝手がいいように、ものを載せたりして使うものだ。椅子と机をあべこべに使う人はほとんどいない。両者の違いは人間には明確で、違いを把握することで心が落ち着く。違いさえ分かっていれば、机と椅子がある世界で、私たちは安全に生きていける。

 ところが、この世の中には椅子と机のように分類しやすいものばかりがあるわけではない。分類し得ないようなどっちつかずのものが、ときには現れる。リーチは、分類し得ないもの、つまりカテゴリーとカテゴリーの境界線上にあるものや、両カテゴリーの重複領域にあるものが人間にとってタブーとなるのだと説明した。つまり、どちらともいえない曖昧な存在、不安定さ、変則的な領域などがタブーとされて、人々の不安を煽(あお)る。

 ということは、先ほどの例に戻ると「椅子とも机ともいいがたい物体」とか、「椅子でもあり机でもあるような物体」がもしも眼前にふいに現れたら、人は不安になるのかもしれない。そんなものはとうの昔にコンテンポラリー・アーティストの誰それが作っているよ、特にタブーとも思えなかったよ、と言われそうな気もする。その場合は、美術館という安全の保証された場所でそれを見たのだという状況を差し引いてもらいたい。気心が知れているはずの友人の家に久しぶりに行ってみたところ、そのような物体がでんとリビングに置いてあったとして、どの程度気持ち悪いのかをぜひ想像してみてほしい。

 とはいえ想像で語ったところでタブーの話はピンと来ないかもしれないので、もっと現実的な例を出すと、たとえば人間の身体から染み出たり放出されたりするものは、一般的にいって厳しいタブーの対象となる。糞便、尿、精液、経血は知る限りどの社会でも汚物である。これらの物質は、体内にあるうちは自分を構成しているものだが、体外に放出されると自分とは切り離され、自分であるとはいいがたい曖昧なものになる。その途端に、これらは汚物となりタブーとなる。

 こういった人間由来のタブー的物質のなかで、特に面白い例は頭髪だろう。現代では男性も女性も毛髪量が多いほうが美しいとされている。薄毛治療は日々、技術開発が進んでいる。日本のヘアケア市場は4400億円以上にのぼるという話もある。男女ともに美髪ケアには心を砕いていて、髪が少なくなるのは悲しいし哀れだとされる。誰かの頭髪が少ないことに関する言及など、常識的に言って「タブー」である。それほど大事にされ、美の象徴ともされている髪なのに、いったん頭皮から抜け落ちて床に散らばったり、排水溝に溜まったりすると、急激に価値を変えて世にも汚らわしくおぞましいものとされる。形容し難い気味悪さを、抜けた髪は発するのである。

 抜けた頭髪が気味悪いのは、自分の境界を曖昧にしているからだ。かつて自分だったものが散らばっていたり、排水溝で他人のものと混じり合ってしまっていたりするのは、「この私が私である」という秩序を乱す。また、抜けた毛髪は気味悪いだけでなく、ある意味で「力」を持っていることにも注意しなければならない。たとえば、藁人形にその人の髪を仕込んで釘を打つという呪いの方法があるように、髪はその人本人ではないとしても、いまもその人だとも言える、どっちつかずの存在として不気味な力を保ち続ける。こういった理由から、髪は抜けた瞬間に美からタブーへと価値を転ずる。しかし、言うまでもなく、抜ける前も抜けた後も髪は髪であって、その本質は何ら変わっていない。

 このように境界線上にあるもの、どっちつかずの曖昧なものは、その本質とはいわば無関係に忌み嫌われてしまう。それが物質ではなく、人間である場合、偏見や差別が生まれる。ここ数年、私が関わってきた人々も、そういった領域に属している。

 私が出会った境界線上の人々とは、動物性愛者である。動物性愛(zoophilia)とは、動物に対する心理的愛着を抱え、ときに性行為に及ぶこともある性愛のありかたを言う。動物とのセックスというと獣姦という言葉が知られているが、獣姦と動物性愛は異なるものだ。獣姦は動物との性行為そのものを指し、時に暴力的な行為も含む。しかし動物性愛は心理的愛着に重きが置かれ、性行為に発展することもあれば、しないこともある。動物性愛は、精神医学の領域では性的倒錯とされ病理のひとつに分類されている。一方、一部の性科学者らは、動物性愛は病理ではなく、性的指向のひとつであるという見解を2000年代以降に示し始めた。

 ドイツには動物性愛者による世界唯一の団体である「ゼータ」(ZETA/Zoophiles Engagement für Toleranz und Aufklärung)があり、動物性愛に対する理解推進や、動物性愛者への支援、動物保護活動への取り組みなどを行っている。私は文化人類学におけるセクシュアリティ研究のためにドイツに渡り、ゼータのメンバーを中心とした22名の動物性愛者に出会った。数か月間のフィールドワークで、彼らの家を転々と寝泊まりして過ごし、人々のありのままの生活や、動物との関係などを調査した。もともとは私が在籍する京都大学大学院での修士論文執筆のための学術調査だったが、その経験を振り返りつつ、ノンフィクションとして執筆した作品が『聖なるズー』(集英社)である。タイトルにある「ズー」とは動物性愛者のことで、彼らの自称からとっている。

 ゼータという団体が存在するからといって、ドイツ社会が動物性愛に対して寛容かというと、決してそうではない。ドイツでも動物性愛について知っている人は多いとは言えない。ドイツで知り合った人々との世間話で滞在理由や目的を聞かれ、ごまかせないときは、私は正直に答えていた。「動物性愛者たちについて研究しているの。ドイツにはそういう人たちがいるの」。すると、ほとんどの人々がぎょっとする。そして感じのよくない笑いを浮かべたり、嫌そうな顔をしたりする。多くの人々が「なんだよそれ! 変態じゃないか!」とか、「そんな人、この国に本当にいるの? 法律で禁止されているはずだけど」と言う。そういうときの彼らの様子が強烈である場合、心が折れそうになりもしたけれども、なんとか負けないで真剣に説明を続けてみると、彼らは次第に落ち着きを取り戻してゆく。特に都市に住む若い世代のドイツ人は、セクシュアリティに対する寛容さを誇りに思っていることが多いので、「さっきはごめん、笑ったりして。きみを笑ったわけじゃないんだ。少し戸惑ったというか……。説明を聞いて、少しはわかったと思う。研究がうまく進むように、健闘を祈るよ」と言ってくれたりする。

 このように最終的にある程度の理解を示してくれる人ばかりならいいのだが、実際はそんなことはない。動物性愛者、動物とセックスをする人々と聞くと、たいていの場合、人々の心に真っ先に浮かぶのは「気味悪さ」である。この気味悪さはどこから生ずるのか。

 動物とのセックスとは、人間と動物の境界を曖昧にする行為である。あるべき境界を揺るがし、人間という存在を不安定にさせるから、動物との性行為はタブーとなる。人間と動物は、一体となってはいけない。そんなことが許されるのは神話の世界だけである。ギリシア神話に登場する半人半馬のケンタウロス、犬のような頭部を持つエジプトのアヌビス神、象の顔をしたヒンドゥー教のガネーシャ神など、人間と獣がひとつの身体をわかちあうイメージは古来おびただしく、その事実こそが人間が動物との一体感を常に求めてきた証左とも言えるのだが、とはいってもそれは人間と遠く離れた神々のおとぎ話のなかでのできごとであるべきなのだ。人間と獣の交わり、あるいは一体化するイメージは聖なる世界のものであり、また同時にタブーである。神聖さと禁忌は表裏一体だ。

 人間の空想力は常にあってはならないものを求めるし、境界を隔てた領域の混淆を夢見る。しかし、それが現実に出現しそうになると、拒絶反応やパニックが引き起こされる。ズーをとりまく様々な偏見も、根本的には、人間と動物の境界を乱すことに対する拒否反応から生じているだろうと私は思う。

 実際にゼータはしばしば、一部の人々からの攻撃の対象になっている。なかには個人的に嫌がらせやハラスメントを受けるなど、過酷な経験をしたメンバーもいる。攻撃するのは主に過激な動物愛護団体である。このとき、攻撃のロジックは「動物性愛者は動物虐待者である」というものになる。反動物性愛を掲げて活動をしているドイツのある動物愛護団体に、私はあるとき「どうして動物とのセックスはよくないのですか?」とすっとぼけて聞いてみたことがある。その人は呆れ、怒り、憤慨して「アブノーマルだからよ! 信じられない質問ね!」と吐き捨てた。私は、愛護団体の立場から「動物がかわいそうだからよ。虐待じゃないの」と言われるだろうと予想していたので、その人の反射的な否定にむしろ驚いてしまった。彼らの本音は、やはり、「気味悪さ」や「異常さ」に対する忌避感であり、その感覚が確固として揺らがないまま、理屈に先行しているのである。

 さて、ズーたちは、愛する動物の個体をパートナーとしていて、人によっては自分の「夫」「妻」と表現する。パートナーとなる動物種は圧倒的多数が犬で、次いで馬だ。私が出会った人々は多くが一頭の犬をパートナーとしていた。彼らの日常生活は、誤解を恐れずいえば、ほとんど愛犬家のそれと変わらない。この研究をしていると、ときどき「動物性愛者にはどういう共通点がありますか? 他の人とやっぱり違うな、という点はどこですか?」という質問を受けることがある。私はそのたびに少し苦い思いを抱えて、「いえ、本当に一般的な愛犬家の姿となんら変わらないんですよ。違うとしたら、散歩の時間が普通の飼い主より長かったり、いつもパートナーの傍にいて、ひっきりなしにコミュニケーションをとっていたり、生活そのものが犬を中心としていることですかね」と答える。質問者は当惑したような、あるいは、私がなにか都合の悪いことをまだ隠しているのではないかと疑うような顔をして、黙ってしまう。動物とのセックスに対する違和感は誰にとってもとても大きいのだということは、私も十分承知している。けれども、ズーたちひとりひとりと話し、ゆっくり散歩したり、ごはんを一緒に作って食べたり、犬たちも含めてみんなでうたた寝したりしながら過ごした経験からは、人々から想定されがちな「性欲の特殊性」などよりも、普遍的ななにか、つまり、愛情やケアや他者受容にまつわるさまざまな実践に関する発見のほうが、よほど多かったのだ。

 ズーたちは動物とセックスをすることもあるが、全員がするわけではない。セックスをするときも、動物が求めてこない限りしない。無理強いや暴力行為はなく、基本的にはパートナーの動物を受け止める方法でセックスを行う。オス犬のストレス軽減のためにマスターベーションの介助をすることもある。彼らが目指しているのはパートナー動物との平和的な共存だ。ドイツでのズーたちとの生活を通して私は、セックスやセクシュアリティについて根詰めて考えたが、性に関する病理や変態性などは問題の埒(らち)外(がい)だった。私にとっての問いは、「人間は動物を含む他者と果たして対等な関係を築けるのか」ということや、「セックスは関係性の構築にどのような役割を果たしているのか」ということ、あるいは「人間はセックスから暴力を取り除けるのか」といったことだった。このような問いを主軸に、ズーたちとの日々のなかで私が導き出したいくつかの考えを、拙著では記している。

 ところで、私自身のタブーに対する感覚はどのようなものだったかを振り返っておきたい。調査に乗り出す前、私は半年以上かけて動物性愛や獣姦について文献調査を行った。国際的にどのような学術的議論がなされているかを調べると、「すべての動物との性行為は虐待である」として断罪する犯罪学者の意見もあれば、「動物性愛は人間中心主義を破壊するもの」と強く肯定する哲学者の意見もあった。こういった議論を概観したのちに、努めて冷静にゼータに連絡をとった。そのとき、私はとても緊張していた。メールを一本書くのに2時間くらいはかかったと思う。その後、彼らとチャットをするようになり、数か月かけて会話を重ねて、ようやくSkype通話にこぎ着けた。この頃もまだまだ私の雰囲気は固かったはずで、手には汗をかいていたし、言葉もときどきうまく出てこなかったのを覚えている。その後、ついに私は彼らと会えることになり、ドイツに飛んだ。そして彼らとの日々を開始する。私は、冷静な視点を持つことを心がけていたので、当初から偏見を持っていないつもりだった。しかし実際のところは、十分、偏見にまみれていたと思う。私は彼らに会うのが直前になっても怖かったし、動物とセックスをするということを、事実としてはあるのだと理解してはいても、場面を想像することさえもできなかった。彼らが動物に暴力を振るわないといくら表明していても、それを最初から無防備に信じているわけでもなかった。私にとってもズーたちは得体の知れない人々だったし、不安を生じさせる人々だったのだ。

 そのような私の様子を見透かしていたはずの彼らは、しかし、私に会ってくれた。彼らはじっくり話をしてくれ、生活をありのままに見せてくれた。そのような経験のなかで私は自分を支えていた常識の一部を壊す必要に迫られ、価値観を組み直す作業を行うことになった。これは大変なことで、研究に着手した2016年からの2年間は特に、私の頭は「動物とのセックス」でいっぱいになるという異常事態だった。他のことが一切考えられないほど私はこの問題に追い詰められていて、世間の動きにもまったく疎くなっていった。ズーたちを通してセックスや愛や暴力や、人間とその他の存在の境界などについて理解し咀嚼するだけで精一杯だった。

 二度と繰り返したくないほど大変ではあったが、それでも私はあの出会いを一生、感謝し続けるだろう。彼らとの出会いがなければ、私の世界は古びた境界線に縁取られたままだった。だが彼らのおかげで私の目の前の世界は明らかに変わり、ひとつのタブーがなくなった。

 人間は本来、そこが危険地域であろうと境界領域であろうと、どこへだって出かけていける。そして、境界線上に生きる人々と言葉を交わし、時間をわかちあうなかで、実は自分もまたなにがしかの境界線の上でぐらぐらと揺れながら生きているのだと気づかされたとき、世界は少し変化するのだと思う。

 

※本稿の初出は『yomyom vol.62』(新潮社)です

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