女性の社会進出が進むなか、女子大の存在については賛否両論がある。しかし、いまだ厳然として女性差別が存在する以上、やはり女子大は必要であろう。
それをはっきりと知らしめたのが、一昨年発覚した複数の大学医学部における、女子受験生差別である。どんな理由があろうとも、ひたむきに勉強に打ち込んできた受験生が、性別で減点されるなどということは、あってはならない。
言うまでもなく、女子しか受け入れていない東京女子医科大学では、入試における性差別はなかった。そもそも東京女子医大は、医学校が「女人禁制」だった時代に、女子学生が安心して学べる医学校をという思いから、創設された学校なのである。
その東京女子医大で、大切に保管されている「お骨」がある。それは、明治時代に女性として3番目に医師となった高橋瑞(たかはしみず:1852~1927年)の遺骨である。彼女は死に際し、望んで骨格標本となったのだ。その背景には、女が医師になるどころか、学ぶことさえ阻もうとする社会があった。
直談判し、「女人禁制」の医学校へ入学
江戸時代の終わり、現在の愛知県西尾市の武家に生まれた高橋瑞は、24歳で上京。紆余曲折を経て群馬の前橋で「産婆」となるが、「産婆」では救えない命があることを目の当たりにし、医師を目指す。
しかし、明治新政府が定めた医事制度のもとでは、女は医師になるための試験を受けることができなかった。瑞は産婆仲間たちと連れ立って、試験を管轄していた内務省衛生局(現厚生労働省)へ受験の請願に出かけるが、もちろんそう簡単に許可は下りない。
同じ頃、女性医師(以下、女医)第1号となる荻野吟子や第2号となる生澤久野(いくさわ・くの)、第4号となる本多銓子(ほんだ・せんこ)も受験の請願を行っていた。そして、雨垂れが石を穿ったかのように、明治17(1884)年、女子にも受験の許可が下された。
しかし、受験するために通わねばならない医学校は、いずれも「女人禁制」だった。吟子と久野は、特別なツテで入学を許可され、医師の試験に合格することができたが、瑞にはツテもお金もなかった。そこで、学費が安い「済世学舎」という医学校の門前で4日間立ちっぱなしで校長を待ち伏せし、直談判の末、入学の許可を得る。
「済世学舎」が何のツテもない瑞の入学を認めたということは、その後も女子の入学を拒まないということを意味した。そのため、「済世学舎」には全国から医師志望の女子学生たちが集まり、大勢の女医を輩出する。そのなかに、のちに東京女医学校(現東京女子医大)を創設することになる吉岡彌生がいたことを思えば、瑞が図らずも女医の登場にどれだけ貢献したかがよくわかる。
高橋瑞はなぜ「骨格標本」になったのか
「済世学舎」に入学した瑞は、男子学生たちからの壮絶な嫌がらせに遭う。吟子や久野も同様だった。女医第4号となった本多銓子は、人体骨格標本を見せてもらえず、仕方なく夜中に高輪の泉岳寺の墓地へ行き、提灯を片手に落ちている骨を拾い、勉強したという。
瑞が女子医学生たちのためにと、吉岡彌生に献体と骨格標本製作を遺言したのは、この話を伝え聞いていたからであろう。
実は瑞にとっては嫌がらせよりも貧困の方が深刻だった。夜通しで内職し、布団まで売り払い、豆をかじって空腹を凌いだ。そして、学費を節約したいという一心で、入学から4カ月という異例の早さで、医師の試験に合格する。
東京日本橋で開業後は「男装の女医」として人気を博すが、それでもなお「女医」ということで侮られた瑞は、産婦人科学を極めるため、重い喘息を抱えた身で、多額の借金をしてまでドイツへ留学する。
しかし、ドイツの大学は女子留学生どころか、自国の女子学生の入学さえ認めていなかった。学びたい女に、どこまでも立ち塞がる壁、壁、壁であったが、瑞は諦めない。帰国後は「産科に限り、貧窮者無償施療」の広告を出し、大勢の妊産婦や赤ん坊の命を救った。
「女医亡国論」にあらがった女たち
瑞の直談判を機に女子に門戸を開いた「済世学舎」も、明治33(1897)年、再び女子の入学を拒否する。それどころか、在学中の女子学生をも強制的に退校させるのだが、このとき吉岡彌生が立ち上げたのが、東京女医学校だった。同校の存在が、医師を目指す女子学生たちにどれほどの安心感を与えたかは計り知れない。
とはいえ、その後も「女医は能力的に劣るので、男性医師なみの診療は不可能」あるいは「女が医者になると結婚や出産が遅れ、国が滅びる」などという
“女医亡国論”が吹き荒れるなど、女子医学生や女医たちは茨の道を歩むことになる。救いは、初期の女医たちがそれぞれ別の道を歩みながらも、さりげなく「連帯」していたことが史料から読み取れる点である。
女医が誕生してから130年以上。いまだ女子学生たちが差別されていると知ったら、瑞たちはいったいどんな反応をするだろう。草葉の陰で呆れているにちがいない。