墓地の骨で勉強…130年以上続く、女子医学生差別の歴史

文=田中ひかる
【この記事のキーワード】

高橋瑞はなぜ「骨格標本」になったのか

 「済世学舎」に入学した瑞は、男子学生たちからの壮絶な嫌がらせに遭う。吟子や久野も同様だった。女医第4号となった本多銓子は、人体骨格標本を見せてもらえず、仕方なく夜中に高輪の泉岳寺の墓地へ行き、提灯を片手に落ちている骨を拾い、勉強したという。

 瑞が女子医学生たちのためにと、吉岡彌生に献体と骨格標本製作を遺言したのは、この話を伝え聞いていたからであろう。

 実は瑞にとっては嫌がらせよりも貧困の方が深刻だった。夜通しで内職し、布団まで売り払い、豆をかじって空腹を凌いだ。そして、学費を節約したいという一心で、入学から4カ月という異例の早さで、医師の試験に合格する。

 東京日本橋で開業後は「男装の女医」として人気を博すが、それでもなお「女医」ということで侮られた瑞は、産婦人科学を極めるため、重い喘息を抱えた身で、多額の借金をしてまでドイツへ留学する。

 しかし、ドイツの大学は女子留学生どころか、自国の女子学生の入学さえ認めていなかった。学びたい女に、どこまでも立ち塞がる壁、壁、壁であったが、瑞は諦めない。帰国後は「産科に限り、貧窮者無償施療」の広告を出し、大勢の妊産婦や赤ん坊の命を救った。

「女医亡国論」にあらがった女たち

 瑞の直談判を機に女子に門戸を開いた「済世学舎」も、明治33(1897)年、再び女子の入学を拒否する。それどころか、在学中の女子学生をも強制的に退校させるのだが、このとき吉岡彌生が立ち上げたのが、東京女医学校だった。同校の存在が、医師を目指す女子学生たちにどれほどの安心感を与えたかは計り知れない。

 とはいえ、その後も「女医は能力的に劣るので、男性医師なみの診療は不可能」あるいは「女が医者になると結婚や出産が遅れ、国が滅びる」などという

“女医亡国論”が吹き荒れるなど、女子医学生や女医たちは茨の道を歩むことになる。救いは、初期の女医たちがそれぞれ別の道を歩みながらも、さりげなく「連帯」していたことが史料から読み取れる点である。

 女医が誕生してから130年以上。いまだ女子学生たちが差別されていると知ったら、瑞たちはいったいどんな反応をするだろう。草葉の陰で呆れているにちがいない。

1 2

「墓地の骨で勉強…130年以上続く、女子医学生差別の歴史」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。