ポテサラは買う。できるかぎり家事をさぼるべし。50年前の「妻無用論」

文=原宿なつき
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GettyImagesより

 高齢の男性が買い物中の子連れ女性に対し「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」といちゃもんをつけていた、というツイートが話題になりました。

 なぜこの男性は、見ず知らずの女性に向かって、理不尽な声かけを行なったのでしょうか。人生がうまくいっているときに、他人に苛立ちをぶつけることはないと思うので、ご本人が不幸だったために、八つ当たりしたのだろうと推測します。

 でも、ただの八つ当たりが、多くの人の心をざわめかせたということは、「母親は、できる限り家族のための食事を作ったほうがいい」という自炊プレッシャーがあることの証左でしょう。その呪いをかけられた人たちは今も少なくないのです。

 そういえば、私の友人も新婚当初、同じ会社の年配の女性から「料理作ってないの? それじゃ、結婚した意味ないじゃん。相手がかわいそう」的なことを言われた、と悔し泣きしていたことがありましたっけ。

 もしスーパーの惣菜コーナーで、父親らしき男性が幼い子どもを連れてポテトサラダをカゴに入れていたら、「子どもの面倒を見て偉い!」と褒められるかもしれません。「父親なんだからポテトサラダくらい作ったらどうなんだ」と怒る人は、いないでしょう。つまり対女性(母親)に限定した家事プレッシャーが、未だにそこかしこに漂っているのですよね。

50年前の「妻不要論」。家事よりも生産活動や消費活動に参加することに時間を使おう

 しかし、そういった家事プレッシャーを、はるか昔から不要だと考えていた人もいます。民俗学者の梅棹忠夫です。梅棹忠夫は、専業主婦が主流だった50年以上前に、「女はもっと家事をさぼるべき。ていうか、家事に専念する妻という存在は、もういらないでしょ」という趣旨の論考を『婦人公論』に発表し、論争を巻き起こしました(この論考は、『女と文明』中央公論新書に再掲載されています)。

 なぜ妻が不要なのかというと、「専業主婦というのは、本質的には男の好意によって続けられているにすぎない存在。その地位は、やはり不安定なものといわなければならない」からです。梅棹は、今後、家事労働は専門の業者や機械に容易に代替され、立場が弱くなり、また、男女の同質化が進むにつれその必要性も薄れてくる、と予測していたのです。

 「家事労働の担い手としての妻が不要でも、愛情の提供者としての妻はいるのでは?」という疑問に対しても反論。「男に対する慰安の提供者であることこそが、妻の存在価値」などとすることは、ひどく非人間的である、と指摘しています。

 以上のことから、梅棹は、「女が妻であることをやめる」ことが必要だと述べたのです。

 そして、「女が妻であることをやめる」ために、「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加すること」「社会活動に参加すること」「本を読むなどして消費活動に積極的に参加すること」を推奨し、そのために、「できるだけ家事をなまけろ。家事で努力するな」と訴えました。

 梅棹は家事にかける労力を徹底的に減らすべきだと考えており、1991年には、「お料理を家庭から追放したらどうだろう。家庭ではお料理はいたしません、ということにしたら、たちまち主婦はらくになるのではないか。(略)すでに料理してあるもの、つまりレディー・メイドの食品を買ってくればいい」とも言っていたので、まさか30年後になっても、出来合いのポテサラごときで女性が罵られているとは、想像もしていなかったと思われます。

専業主婦が家事をがんばりすぎるリスク

 妻がどういった役割を期待されるのかは、時代によって異なります。そして現代においても、家事専業の妻という存在は不要になってはいません。専業主婦(夫)になりたいという人はいますし、パートナーには専業主婦(夫)を求めるという人もいます。少なくともその人たちにとっては不要ではないのです。

 また、子育てや介護を家庭で担いながら、会社で求められる仕事をこなして家族を養う生活費を稼ぐことがどれだけ困難か。会社側が社員の終身雇用と家族分の給料を保障する代わりに、社員は会社への忠誠を誓うという日本的な働き方は、家庭を“専業主婦(夫)”が守ることが前提となっています。

 しかし一方で、専業主婦(夫)という立場は、パートナーに大きく左右されてしまいます。そのリスクはふたつあります。

 ひとつは、離婚による貧困化のリスクです。稼ぎ手側は離婚しても収入が減るわけではありませんが、稼ぎのなかった側は途端に貧困に陥りかねません。そして現状、男女間には賃金格差があります。正社員であっても女性は男性の7割ほどの賃金しか得られておらず、女性の非正規雇用の数は男性の二倍です。

 シングルマザーのふたりにひとりは貧困ライン以下の賃金しか得られません。ブランクがあればなおさら、離婚となった場合、あっという間に経済レベルが下がってしまう危険性があるのです。

 それと地続きの問題ですが、ふたつめは、パートナーが嫌で離婚したいと思った場合でも、我慢しなければならない可能性が高いということです。家事は自分のための労働でもありますが、相手のためでもあります。嫌いな相手のために働くというのはストレスでしかないでしょう。

 こういったリスクを軽減するためにも、家事に時間を使いすぎることは得策ではなく、家事をさぼった時間で、何かしらの生産活動をした方がよいのかもしれません。

家事はサボる方がエライ!?

 世の中にはていねいな暮らしを動画や本で発表している人もいますし、手の込んだ作り料理やキャラ弁をインスタで披露しているタレントもいます。彼らはそれで利益を得ているので、ていねいな暮らしや手の込んだ家事をすることこそが生産活動であり、仕事なのです。

 でも、そういった暮らしを真似してみたり、家事プレッシャーを感じて一生懸命なにかを手作りしてみたりしたところで、普通の人はお金を稼げません。やりたくてやっている人を批判するつもりはありませんが、やりたいわけじゃないのにやっているのは、全然楽しくないしメリットもありませんよね。身もふたもない言い方をしてしまえば、一文にもならない家事に時間をかけているだけ、です。

 私の知人に、元リクルートの営業女子がいます。彼女は医師と結婚し退職。3年間ほど、「目に映るすべてのものを手作りする」いきおいで家事に没頭していました。しかし、彼のモラハラが原因で離婚。その後、リクルート系の営業に返り咲き、昇進して元どおりの年収を稼ぐようになりました。彼女には仕事の能力もあるし、新しい会社とのご縁もあったわけですが、多くの人にとっては一度職場を離れての再就職は簡単なことではありません。「配偶者と別れたら生活に困る」状態での、家事に専念するていねいな暮らしは、私にはリスキーに見えます。

 私自身は、裁縫が好きで、服を作ったり、パンを作ったり、お菓子を作ったりするのが好きな人間です。買った方が安いし早いことを、わざわざ時間をかけてしています。同時にとてもだらしない人間であり、たいてい昼まで寝ていて、どうにかして楽できないかなーと常に考えています。好きな仕事もありますが、できればやりたくない仕事もあります。

 こんな私が結婚して、相手がもし、「そんなに働かなくていいよ。好きな仕事だけしてくれたらいいから。でも、その代わり家事は多めにしてね(にっこり)」と言おうもんなら、仕事の量を減らして、パンを毎日焼きまくる可能性が濃厚です。そうこうしているうちに、夫から離婚を求められ、経済的に困窮するのだろうな、と想像すると怖いです。本当にしばしばこういった恐怖に襲われるので、私の場合は、家事は分担して手抜きし、仕事に邁進した方が、精神衛生上よいのだろうな、と思います。

 手抜き、って悪いことのように思われがちですが、梅棹忠夫の『女と文明』(中央公論新書)を読んでいると、「むしろ、家事を頑張る方がNGで、サボる方がエライのでは」と思えてくるから不思議です。「家事」や「妻の役割の変化」について考えたい人は、ぜひご一読ください。

(原宿なつき)

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