小説に織り込まれた戦争のリアル
これは、著者の廉想渉が6.25当時、自分自身も逃げ遅れてソウルにとどまり、実際に3か月間、北朝鮮の支配下で生活していたことと関係があるかもしれません。当事者の心中は案外、こんなものだったかもしれないという気もします。渦中にあって確かに緊迫しているのだけれども、何がどう緊迫しているのかも当事者たちにはわからないわけです。そうなると四六時中緊張しているわけにもいかず、非常時だからと色恋沙汰や欲得ずくの行動がすべて中断されるわけでもない。ある部分では非日常な「死」を見すぎて無感覚になりながら、目先の様々な出来事に対応する日々が過ぎていく。それこそ渦中のリアリティだったかもしれません。
廉想渉と同様、避難せずにソウルに残っていた小説家の李範宣(イ・ボムソン)も、「いくら私たちが動乱現場にいたといっても、結局は自分の見た事実しかはっきりと証言できない。みなどこかに隠れて過ごし、街を自由に行き来できなかったのだから」と語っています。
また、『驟雨』の独特さは、これが新聞小説であったこととも関係しているかもしれません。
廉想渉は北朝鮮支配下のソウルで3カ月耐えた後、当時53歳だったにもかかわらず韓国海軍に入隊します。3カ月のことがよほどこたえたのかもしれません。廉想渉という人はもともと一筋縄でいかない経歴の持ち主ですが、この入隊エピソードを見てもなかなか面白い人物だと思います。そして、53歳で入隊というのは、推理小説家のダシール・ハメットが1942年に48歳で陸軍に志願したことを思い出させます。両人とも前線ではなく後方で、高名な作家らしい任務につくのですが(廉想渉は釜山の海軍情宣・教育部門に配属、ダシール・ハメットは新聞の編集局に配属されたそうです)、廉想渉は海軍に勤めるかたわら、1952年7月18日から『朝鮮日報』に『驟雨』の連載を始めました。
連載を始めるにあたって、廉想渉はこのように記しています。
「避難民が溢れそうに通り過ぎるのを、食後に出てきたのか孫を連れた老人がぼんやりと眺めており、その前では黄色い子犬が尻尾を振っている。この奇妙な対照! 避難民は今しがたのにわか雨に打たれてやってくるのに、この老人は燦燦と降り注ぐ日差しの下で座っているようにみえる。おかしくもあり、羨ましくもあった。私は今回の乱離を経験してこのようなまだら模様を感じた。我々の生活と思考と感情も大変なまだら模様になったと思われる。私はこのまだらを描いてみようと思う。」(朝鮮日報、1952年7月11日/大意)(『驟雨』解説より)
これを見ますと、この小説の主人公は戦争で激変した世相そのものではないかという気がしてきます。この戦争によって韓国社会は激変しました。地理的な移動とともに大規模な階級移動が起き、人々は否応なくそれに適応して生き抜くしかありませんでした。廉想渉の言う「まだら模様」とは、こうした変化の総和なのでしょう。
結果として『驟雨』に出てくる人々は、驚くほど、この戦争の大義名分を身にまとっていません。
連載は、1952年の7月18日から53年2月10日までの全166回です。この期間はすでに休戦交渉が始まり、それが膠着して一進一退していた時期ですが、前線では激しい陣地の争奪戦が行われていました。映画『高地戦』(2011年)などを見た方はその激しさが想像できるでしょう。それが続行している間にこの小説が書かれ、読まれたという事実は、ちょっと想像しづらいことでもあります。
実際、朝鮮戦争中には作家が従軍作家として活動し、その成果が『前線文学』といった雑誌に発表されたこともありました。そこには、共産主義の非をあばき、大韓民国兵士の神聖さを讃える言説がありました。
それと並べるとき、『驟雨』の登場人物たちの世俗性はグロテスクな感さえあるほどです。しかし一方で、このバイタリティによって疲れ果てた読者たちに慰安を与えたのではないかと思います。皆、嫌というほど悲しいことや不条理を味わってきたはずです。そんなところへ、戦意高揚を叫ぶでもなく、北朝鮮の所業を糾弾しつづけるでもない、生身の主人公たちが次から次へと巻き起こすドラマの数々は良い娯楽だったのではないでしょうか。特に、極端にハイカラに仕立て上げられたヒロイン、カン・スンジェの姿は、カンフル剤としてのパワーを備えていたかもしれません。
物語は、三角関係のごちゃごちゃの果てに、スンジェが恋をした男性が北朝鮮の義勇軍に入隊させられてしまうが、戦況の変化とともにまたソウルに戻ってきて、やっとのことで皆で船に乗れる手はずを整え、遠くへ避難することが示唆されて終わります。
小説の中には、義勇軍にとられた男性が「戦争はすぐに終わるんだから、せいぜい一カ月ぐらいで戻れるはずだし」と言うシーンがあります。そしてこの人は戻ってこられたのですが、実際には戻ってこられなかった人が無数にいましたし、そうした人を待っている人も無数にいたのです。読者たちはそれを知りつつ、生者の物語を貪り読んだのではないかと、想像します。