『日本沈没2020』への酷評は妥当なのか 排外的な“日本スゴイ”への風刺を読み解く

文=小野寺系
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不発弾が暗示する日本の問題

 また、重要な登場人物たちが次々とあっけなく、突発的な事態によってあっさりと死んでいくという展開にも、強烈な皮肉が含まれる。その情感の薄い、ある意味でシュールともいえるテイストは、視聴者によって唐突過ぎる印象を与えるかもしれない。

 なかでも、とくに批判の対象になっているのが、ある登場人物が戦時中の不発弾の爆発によって、肉体が四散するというむごたらしい死を迎える場面であろう。災害とは無関係なシチュエーションで、さらに非常に確率が低いと感じられる状況で死んでしまうというのは、たしかにリアルなサバイバルサスペンス作としては、不条理過ぎるように思えるところがある。しかし、なぜわざわざそんな描写をしたのかという部分を、まず考えなければならないのではないだろうか。

 本シリーズには、オリンピックやeスポーツ、有名ユーチューバーなどの時事的な要素をはじめ、新興宗教団体や右翼団体、ドラッグやヤクザ、さらには富士山や相撲の力士など、日本的な要素というのが、とにかく次々に現れては消えていく。つまり、それらの要素が物語に影響を及ぼしていくというよりは、地獄めぐりのように日本のイメージが通過していく趣向となっているのである。だから、それぞれの要素が組み合わさることで冴えた展開を迎えるという、よくある脚本づくりにはなっていないのだ。ここを取り違えると、「ガバガバな脚本」という決まり文句が飛びだすような評価になってしまうし、「小松左京に対する冒涜」という判断をくだしてしまうかもしれない。

 もともと作家・小松左京は、『日本沈没』を起こり得るリアルな災害への警鐘として書いていたというよりは、日本の領土が無くなったとき、日本人は日本人でいられるのかという問いや、そこで露わになる日本という国の正体を描こうとしていたはずだ。その批評性というものを最も端的に表しているのが、いよいよ日本が沈没することが分かってきたとき、国内の有識者たちが集まって議論するなかで、「何もしない」という選択肢が出てくる場面である。この描写は、小松左京が日本人の本質というものを、本当に正確に見極めていることを示している。

 小説の発表から40年ほど経ったいま、コロナ禍に際して、政府がまさにそんな様相を呈していることを思い出してほしい。十分な補償もなく自粛要請をするという姿勢や、「Go To トラベル」などの経済政策を優先しながら、そこから引き起こされる事態の責任を国民に押し付けようとしている。それはまさに『日本沈没』における、災禍に対しての「何もしない」の境地である。

 日本は戦後、経済的な急成長を経験したが、本質的には戦中から何も変わっていないのではないか。このテーマは、TVドラマ化もされた小松左京の作品『戦争はなかった』で、よりはっきりと示されている。そのことを考えたときに、本作『日本沈没2020』に登場する、戦中からずっと地中に潜み、ついに爆発することになった不発弾というのは、まさに日本人が先送りしていた問題が顕在化したという象徴的な描写ではないのか。つまり本作のように、日本をあらためて振り返るというコンセプトの作品において、歴史的な日本人の心性というものを表現するのは、一つの義務であったように感じられるのだ。

 さらに、大麻の栽培や、縄文文化を尊ぶような日本の始祖的なイメージを崇めるカルト宗教の存在というのもまた、日本の政治の中枢の風刺のように受け取れ、その過激な印象は、実写やアニメーションを含め、近年の日本のエンターテインメントのなかではなかなか得られなかったものである。

 このような問題、ひとつひとつを風刺的に見せていくというのが、本作の裏にある意図であり、行間を楽しめる部分なのである。劇中では、差別的な団体が爆発炎上し、鳥とサメ両方に食われる人物が出てきたりと、だんだんと人の死の描写にユーモアが含まれていることを隠さなくなっていく。このような本作の、アニメーションならではの表現をどう捉えるのかによって、その評価は変わるはずだ。

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