『日本沈没2020』への酷評は妥当なのか 排外的な“日本スゴイ”への風刺を読み解く

文=小野寺系
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 『日本沈没2020』は“反日作品”か

 本作で最もシリアスな箇所は、主人公一家の母親がフィリピン国籍という設定である。日本は、他国に比べて移民を受け入れず、入国管理局での外国人に対する人権侵害が問題になっている国でもある。そんななか、劇中で差別される外国人のいる家族が、新たな日本の希望として描かれるのだ。

 “××ファースト”といわれる、その土地でのマジョリティを優先し、同時に排外的な思想を含む行政の概念のなかで、はじき出される外国人たち。だが、外国人が日本に滞在していたり、居住しているとき、その人々もまた、日本を構成する一部なのではないのか。劇中では、他にも外国人たちが登場し、周囲の人々と同じように生きることを求め、ときに協力しながら危機を脱していく。人間を属性で分断する姿勢をとらないからこそ、本作の人々は前に進めるのである。

 またさらに一家の母親が、2013年に大地震が起こり、津波で多くの被害者が生まれてしまったセブ島出身というのも意味深いところがある。災害は世界中で起きている。そのとき、日本人が現地で差別され、生きる手段を奪われたとしても、「××ファースト」ならば当然と割り切れるだろうか。

 今回、本シリーズに寄せられた批判のなかで看過できないのは、制作サイドに外国人、もしくは外国にルーツを持つ人物がいることを指摘し、劇中の日本の問題を見せていく趣向に対して、“反日”だとする陰謀論を唱えるというものだ。制作スタジオでは、それ以前から外国にルーツを持つスタッフが複数在籍して数々の作品にかかわっており、今回だけそのような意図を反映させているとは考えづらい。むしろそのような環境は、作品に多様な視点を与えることにつながり、良い影響を与えているはずだ。

 このような批判をする人々こそが、まさに劇中で家族を差別していた者たちと同じような心性を持っていて、本作が指摘する問題が実際に日本に存在していることの、生きた証明となっている。

 小松左京は、『日本沈没』の内容を“第一部”だとして、日本という国土が無くなったとき、日本人はどうなるのかという内容を、“第二部”で扱おうとしていた。残念ながら完成には至らなかったが、本シリーズ『日本沈没2020』では、最終話にて、そこに一定の答えを出している。

 最終話では、沈む前の日本の情景が、静止画によって次々に示されていく。日本の美とされる伝統的な風習や、経済的繁栄と公害を生み出す工場群、成人映画の劇場などが確認できる。それは、魅力や問題が混在する、現実の日本そのものである。そして、それらがすべて海中に沈んだときに残るのは、それを記憶し伝えていく人間である。つまりここで示される「国家」とは、『大いなる幻影』(1937年)で描かれたように、人間の概念のなかにしか存在しないものであり、逆にそれがありさえすれば、国家というものは存続できるという結論へと辿り着く。

 筆者個人の意見としては、そこまでして国家を存続させることはないし、多様な概念を持つ方が、より進歩的なのではないかという考えに至った。しかし、国家が人間の概念によって作られているのであれば、それを理想に変えていくことは、じつは思ったより簡単なことなのではないか。本シリーズから、そんな希望が与えられるのである。

クオリティ面での不満

 一方で本シリーズや、近い時期に制作されていたTVシリーズ『映像研には手を出すな!』(NHK)には、中盤で作品の品質が著しく落ちている箇所が見受けられる。この点に関しての批判は、その多くが真っ当なものなのではないだろうか。

 限られたリソースを、第1話や最終話などに集中させることで、作品全体の印象を強めるというのは、他の多くのアニメーション作品にも見られる演出手法である。しかし、それが本シリーズでは相当に顕著で、力の入ってないシーンではスカスカなヴィジュアルが多くなってしまっているのは事実であろう。このあたりは、スケジュール策定やスタジオの制作能力のマネージメント部分での失敗であると感じられる。

 本シリーズは、前述したように、普遍的な感覚を持ちながら、これまでにないような語り口で描かれた意欲作である。日本のアニメーション作品のなかでも、優先して見たい部類のものであることは間違いない。だからこそ、それを支える部分にも期待したいところだ。

(小野寺系)

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