「この人は酷い目にあっても当然だ」という無意識のバイアスが張り巡らされた社会で

文=今 祥枝
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GettyImagesより

(※本稿の初出は『yomyom vol.63』(新潮社)です)

 役柄のイメージが固定化した俳優の苦悩について考える。

 5月25日、ミネソタ州ミネアポリスでジョージ・フロイドさんが警察官による過剰な行為によって死亡するという痛ましい事件が起きたことをきっかけに、全米各地に抗議のデモが広がった。現在は日本を含む世界各地へ抗議活動が広がりを見せている。強迫観念的にCOVID-19の情報を得るため国内のニュース番組やCNNを見ていた生活にようやく終わりが来たかと思った矢先のことで、再びCNNにかじりつく日々。

 つい昨日まで、経済活動の再開が期待されていたマンハッタンやロサンゼルスのような大都市で繰り広げられる光景を、当初は信じられない思いで見た。「ブラック・ライブズ・マター」を掲げてデモ行進する大勢の人々が憤る、そのすさまじいエネルギーに言葉を失った。本稿執筆時で21日間連続抗議のデモは続いており、収束する気配はない。今度こそ絶対に変革をもたらさなければならないという切迫感。積年の憤りから、命がけで抗議する人々の姿に激しく感情が揺さぶられてしまう。

 ブラック・ライブズ・マター(BLM)=黒人の命も大事(日本語にすると微妙なニュアンスが伝わらないとする指摘もあるが)。これは2012年2月、フロリダ州で黒人少年トレイボン・マーティンがヒスパニック系の自警ボランティア、ジョージ・ジマーマン(正確にはペルー系とドイツ系の両親を持つ)に射殺された事件で、各SNS上で#BlackLivesMatterというハッシュタグが拡散されたことに端を発するとされている。

 人間の命は等しく大事なものであるということはあまりに基本的な人権の問題だ。それが大原則なのに「黒人の命も大事」と声高に言わなければならない、現実。自分の認識が、いかに甘ちゃんであったかは、“白人監督が白人視点で描いた白人と黒人のいい話”などと批判もあった『グリーンブック』(2018)のオスカー作品賞受賞に関連して、当連載でも書いた。

 私のように洋画を中心としてきた映画ライターは、大変多くの黒人差別を描いた作品を観て、世に紹介してきたと思う。十分ではないにせよ、優れた映画を通して学べることはたくさんあることもまた事実だ。近年はドキュメンタリー映画『13TH 憲法修正第13条』(2016・Netflix)、ミニシリーズ「ボクらを見る目」(2019・Netflix)、本連載でも取り上げた『ヘイト・ユー・ギブ』(2018・デジタル配信)など、難しく考えずとも、ぐっとこの問題の核心に近づくことができる作品も多い。

 一方で、常に海外の文化に接していると頻繁に目にし考える機会があるがゆえに、この問題を知ったような気になっている部分もあったと思う。そもそも日本にいて何がわかるのかという人もいて、それはもちろんそうだと思うのだが、日本だって人種の多様性は進んでいる。ブラック・ライブズ・マターを単純に黒人だけの問題として捉えるべきものではないと理解している日本人は少なくないと思う。自分とは異なる他者に対する拒絶や恐れの感情。あるいは何らかの差別や偏見といった問題は、誰にとっても身近な問題であるはずだから。

 もっとも日本で人種差別の問題を考えるなら、特にインターネット上でも頻繁に目につく在日コリアンに対する深刻な差別やヘイトスピーチ、さらには外国人全般に対する排他的な風潮について、まずは考えてみるべきだとも思うのだが。

 そんな中、NHKで配信されたBLMを伝える動画が物議を醸した。筋骨隆々の黒人が財布を手にしている絵を見てげんなりした。「黒人は危険」「黒人は暴力的」といった偏見と差別意識が丸わかり。この動画に関わった人々の全員にそうした認識が抜けていたことに、心の底から苛立ちを覚える。そういうレッテルを貼る(社会的アイデンティティのステレオタイプ化)ことが、どれほどの問題行為であるか。今回のBLM運動の最大の争点は、制度的人種差別(社会構造的な差別)である。しかし個人レベルの意識の問題は変わらず根深い。単純にいえば「黒人は危険」といった偏見が、アメリカで警官や一般市民が黒人というだけで過度に警戒し、先入観から過剰な暴力をふるったりする人種差別へとつながっているのだ。

 などと偉そうに書いたが、私は今回のブラック・ライブズ・マター運動を機に、改めて自分自身の中の差別意識と向き合うようになった。私自身はあらゆる差別に反対であるということを明記した上で、あえていうと、自分がしばしば偏見を抱くという自覚はある。意識して気をつけているつもりでも、無意識のうちに他者に対してレッテルを貼っていることは結構あると思う。最近になって気づいたこともある。

 例えば黒人のスポーツ選手を見れば「黒人だから」運動神経がいい、恵まれた身体能力や資質を持っていると思ってしまうし、映像エンタメなどで白人の田舎者が出てくると、レッドネックなどと呼ばれる人種差別主義者なんじゃないかと自然と先入観を抱き、その先の展開を予測してしまうこともある。これはアメリカのTV番組などをよく観る人にこそありがちなことかもしれない。それだけそうした白人のステレオタイプな描写が多いということだと思う。

 外見や人種、ジェンダー等によってレッテルを貼ることは、先にも書いたが警官による黒人への過剰な暴力のように死につながることのある行為だという認識は、今の時代にこそ必要なことではないだろうか。

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