問題点は多いが、この時代における重要な作品だと思うので「13の理由」を例に出そう。自殺した主人公ハンナはスラット・シェイミングに苦しんでいた。体つきや雰囲気、露出の多い服を着ている、など、性犯罪にあうのは女性側に責任があるといった被害者非難を指す言葉で、女性とはこうあるべきといった像から外れた行為に対して尻軽女、ふしだらといったレッテルを貼り貶める場合に使われる。たとえデマであったとしても、噂が広まってそう認識された女性は、男性に軽い扱いをされても当然だという空気が蔓延し、非常に危険な状態に陥る。尻軽女はどう扱ってもいいんだという認識が、ハンナを追い詰めていく大きな要因の一つとなることはドラマでも切実に描かれている。
悪意はなくとも「こういう女性だから酷い目にあっても当然だ」という無意識のバイアスは、そこら中に見つけることができる。実話をベースにした「アンビリーバブル たった1つの真実」(2019・Netflix)の最初の性犯罪の被害者である10代の女性は、親に虐待されていた過去や里親を転々としていたというバックグラウンドから、辛いことがあっても自分を守るために何事もなかったかのような態度を取る習慣が身についていた。その“平静さ”をあやしむ養母や刑事は、彼女が注意を引くために「嘘をついた」のではないかと疑い、そう決めつけてしまう。彼女が体験した警察の事情聴取は、レイプされた直後の女性にとって、どれほど残酷だっただろうか。
結果として連続レイプ犯による犯行だったことがわかる過程で、被害者の多くが社会の「被害者にも非がある」という偏見に怯えて沈黙し、トラウマを抱えて苦しんでいることが描かれる。
このように他者にレッテルを貼ったり偏見を抱くことの重さは、「テラスハウス」の木村花さんの痛ましい死にも通じると思っている。私はこの超人気番組の面白さはわかるのだが、昔からこの種の恋愛リアリティ番組が苦手だ。リアリティ番組の楽しみ方として、「こいつ嫌い」「ばかじゃないの」といった悪態をつきながら楽しむ“ヘイトウォッチング”がアメリカでは広く知られているが、そういう楽しみ方があまり好みではない。
あえて出演者の色付けを強調するスタイルの「テラスハウス」は、レッテルとか人格の決めつけの最たる例だと思う。番組内で強気な発言をした木村花さんはSNSで叩かれていた。彼女の死を招いた理由は複合的なものだっただろうが、後追いで読んだSNS上の誹謗中傷の一部は常軌を逸したものだった。“この人は叩いてもいい認定”を一度でもされたらこういう結末につながることがあるのだということを思い知った。これは実名で文章を書く、私のような業界の片隅で地味に活動している一ライターであっても、神経をすり減らす切実な問題だ。
ちなみに「テラスハウス」の「台本は一切ございません」という言葉のミスリードに関しては、アメリカで“リアリティドラマ”という、不思議なジャンルを流行らせたMTVの「ラグナ・ビーチ」(2004〜2006)を思い出す。オレンジカウンティのラグナビーチで生活する女子高生ローレン・コンラッドと友人たちを中心に、恋愛や友情などの悩みや私生活を追いかけたリアリティ番組なのだが、これがまっさらのノンスクリプトだとは誰も思わないであろうドラマチックすぎる内容。日本での放送時は「半分リアリティ、半分ドラマ」とうたっていたが、基本的には“お芝居”なのだ。