たとえ完全なるフィクションであっても、役柄に本人を重ねてヘイトをぶつける視聴者の多さには辟易してしまう。SNSがなかった時代は、そこまで見えなかった現実なのかもしれないが。
「ゲーム・オブ・スローンズ」で若くして妻になったサンサを痛ぶっていた人でなしのジョフリー王子を演じたジャック・グリーソンは、あまりにもファンに嫌われていやがらせまでされたというから気の毒すぎる。おそらくはそのことも影響しているのだろう。2014年にキャラが死亡し退場となったのを機に、22歳で学業に専念すると宣言していた。番組のファンからすれば、「ドラマを盛り上げてくださってありがとうございました!」と感謝こそすれ、本人にジョフリーへの憎悪をぶつけるなど許しがたい行為だ。だから今年3月にカムバックを果たすというニュースを見たときは、嬉しかった。
俳優は見られることが商売ではあるが、ルックスや演じた役柄に対するイメージの固定化は、思った以上に俳優を傷つける。そのことを目の当たりにしたのは、リーガルドラマ「SUITS/スーツ」の撮影地カナダ・トロントのセットビジットに行った時のこと。美男美女揃いの弁護士事務所において、ルイスという秀才だが醜男、キモい、ウザいと言われる異色のヒールを演じたリック・ホフマンにグループインタビューする機会があった。彼が実にねちっこく演じて作り上げ「マジきもっ」といった笑いを誘う、ルイスというユニークなキャラクターは、全シーズンを通しての私のお気に入りでありMVPだ。
実際のホフマンはルイス役からはかけ離れた、物静かで、控えめで、とても繊細な人物であることが話しぶりから理解できた。記者の質問に答える形で、トロントの街を歩いていると「(他の美男美女キャラたちに)意地悪するな!」などと野次られたりするというエピソードを披露しつつ、視聴者にばかにされたり嫌われていることを知っているよ、と語った時に彼が一瞬見せた悲しそうな表情を忘れることはできない。まさか彼がそんなことを思っているなんて思ってもみなかった私は(だって役柄なんだから)、心から悲しくなってしまった。即座にどれだけルイスが好きかを伝えれば良かったと思うのだが、言葉が出なかった。そのことを今でも後悔している。
俳優のイメージが固定化し、ステレオタイプな役ばかり演じる羽目に陥ってしまうという例は、多いように思う。そのことで心にダメージを受けたり、病んでしまう俳優は少なくない。
アメリカ映画では、「ブロンド美人は頭が悪い」といったステレオタイプが長い間あった。キャメロン・ディアスはそうしたイメージを“性格美人”というポジティブなものとして体現し、コメディ『メリーに首ったけ』など多くのヒット作にも恵まれたが、確かな演技力があるにもかかわらずシリアスな演技ではなかなか認められなかった。
これはコメディアンから俳優になったロビン・ウィリアムズなどにも言えることで、ドキュメンタリー映画の秀作『ロビン・ウィリアムズ エガオノウラガワ(放送時の邦題は『笑顔の裏側』)』(2018・Amazon Prime Video)を観たときは、コメディ畑出身の俳優に対するハリウッドの仕打ちに涙が止まらなかった。笑いやジョークで場を盛り上げるのが常だからといって、そういう相手を軽んじていいということにはならない。結婚して俳優業は引退状態のディアスも、内心ではどう思っていたのだろうか。
ブロンド美人でピンクやパステルカラーのブランドファッションで身を固めた〝かわいい女の子〟のイメージそのままに、『キューティ・ブロンド』(2001)でハーバードのロースクールに入って弁護士となるエル・ウッズを好演してキャリアをステップアップさせていったのがリース・ウィザースプーンだ。エルがいきなり進路変更したのは、彼氏に「30歳までに上院議員を目指す。マリリン・モンローみたいなブロンド女は議員の妻にふさわしくない」と言われたからという設定は、今ならそんな男はふっちゃえ!となるところだが。
ウィザースプーンは、まさにエルのように親しみやすい“アメリカの恋人”でありながら、自らのカンパニーを立ち上げ自分の出演したい作品を自らプロデュースし、女性の才能主体で製作を手掛けている。その成功例が「ビッグ・リトル・ライズ」(2017〜・Amazon Prime Video)や「ザ・モーニングショー」(2019〜・Apple TV+)であり、新作の「リトル・ファイアー〜彼女たちの秘密」(2020・Amazon Prime Video)もまた彼女らしい問題意識が見応えのある秀作だ。
ウィザースプーンは近年、自らの白人のエスタブリッシュメントといったステレオタイプを逆手に取った役を好んで演じているように見える。「リトル・ファイアー」で演じるエレナは完璧な妻で4人のティーンエイジャーの母親。働く女性でもあり裕福なエレナは悪気なく、無意識のバイアスで家族をも傷つけてしまう女性だ。一見パーフェクトな彼女の人生は、アーティストを名乗る貧乏な黒人のシングルマザー、ミアと10代の娘パールが街にやってきたことでほころび始める。
ケリー・ワシントンふんするミアは、自由気ままで、中華レストランでウエイトレスをしながら独創的な創作活動に勤しんでいる。親切心からエレナが、〝貧しい黒人母娘〟に自分の家のお手伝いさんにならない?と声をかけるところから漂う、冷や冷やするような緊迫感。2人はそれぞれ母親業について悩んでおり、女性としての苦悩がクロスして心が通う瞬間もある。だがそのたびにエレナのミアに対して優位に立っている感じ、あるいは無意識の「上から目線」、そしてアフリカ系アメリカ人に対する偏見が透けて、エレナに近づきかけたミアの心に疑念がわく。最大の問題は、エレナが自分のことをアフリカ系に理解があり、人種差別とは無縁な人間だと認識している点にあるだろう。
ワシントンとウィザースプーンのガチンコ演技が凄まじく、静かな火花も、燃えるような怒りの炎をたぎらせた感情のぶつかり合いも、ただただ圧倒されるのみ。そこから浮かび上がるのは、“リベラルな白人”が大半をしめる街における「積極的に黒人を受け入れましょう」というポリティカル・コレクトネス=建て前の限界だ。表面上は美しい街の外観とは裏腹に、根っこにはびこる偏見や差別がエレナとミアの関係を通して暴かれていくさまは、胃がきりきりするシーンの連続で精神的に消耗してしまったほどの力作だ。
原作はウィザースプーンが出版前から目をつけベストセラー小説へと後押しした「Little Fires Everywhere」。ミアの人種に関してはドラマの脚色だが、実にタイムリーなテーマを描いていると思う。火種はそこかしこにある。くすぶっているそれらに火がつけば、ドラマの冒頭とラストのように一気に炎が燃え上がり、すべてを焼き尽くす。引き金となる要因は複合的なもので、それはどんな社会問題にも通じる複雑さだと思うが、エレナの無意識のバイアス、アフリカ系に対するネガティブな固定観念は非常に厄介なものだ。なぜならいずれも自覚がないのだから。これは遠い国の話、対岸の火事ではなく、誰にとっても今一度自分を見つめ直して考えるべき問題だと思う。
(※本稿の初出は『yomyom vol.63』(新潮社)です)