「ろくでなしの女の子」の真剣に滑稽な存在感。何者でもなかったレナ・ダナムと映画『タイニー・ファニチャー』

文=住本麻子
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みじめな自分を笑って愛すための技法

 そんなオーラの滑稽さは作品を観ているとちゃんと伝わる。そして観る者はオーラの言動に少しずつおかしみを覚えるようになる。はじめは怪訝に思えていたことが、だんだん笑えてくる。『タイニー・ファニチャー』は大学を卒業したばかりで仕事も恋愛もままならず容姿も性格もいまひとつ、才能もなければ努力もしていない女性という、それまであまり表象されてこなかった存在を画面に登場させつつ、それを腹立たしい存在としてではなく、真剣に滑稽な存在として登場させているのだ。しかしなぜそのようなことが可能なのだろうか? 

 一般に、受け手が滑稽さを感じるときには対象との距離が保たれていることが必須だ。では『タイニー・ファニチャー』において「距離」をつくっているものは何か。

 少し遠回りになるようだが、『タイニー・ファニチャー』というタイトルに着目してみたい。「タイニー・ファニチャー」――直訳すれば「小さな家具」だが、これは主に写真を扱うアーティストであるオーラの母親が撮影に使う、家具のミニチュアのことを指している。タイトルになっているにもかかわらず、この家具のミニチュアは、それほど大々的に登場するわけではない。冒頭と、中盤に少し。この二箇所である。

 対して舞台であるオーラの実家の家具は決して小さくない。家が大きいのだから当然といえば当然である。たとえば家に備えつけの白い棚がそうだ。オーラがパーティに行くからお金を貸してほしいというとき(このときのオーラのためらいのなさよ!)、母親に財布が入っているから勝手に取ってくれと言われる白い棚のことである。

 そびえ立つ壁と一体化した大きな棚を前にして、オーラは立ち尽くす。財布が白い棚のどこにあるかはわからない。大きすぎる棚はオーラには持てあますのだ。母親の撮影用に使われるミニチュアによって、共に映りこむ妹の足は大きく見えるのに、実際の家具は大きくて、オーラを小さな存在として映し出す。そう思ってみれば、この家の家具は本当に大きい。棚や本棚は画面に入りきらず、リビングのソファは前景に置かれているためかより大きく見える。この遠近感によって、家具の大きさとオーラの小ささがより強調される。

 これが滑稽さを生み出す距離なのだ。距離をとって対象をとらえること。ドキュメンタリーのような「密着」のしかたではオーラの滑稽さは浮かびあがってこない。レナ・ダナムは『タイニー・ファニチャー』をフィクションとして提示し、自分の醜さ、しょうもなさ、どうしようもなさをさらけ出しながら、カメラのレンズを挟んで遠くから自分を見ている。大きな家具に囲まれた自分自身の小ささを確認している。観る者が見せられているのは、レナ・ダナムがオーラとして自分から切り離して対象化し、レンズ越しに見た姿だ。

 ではこの大きな家でオーラに寄り添うものは何か。オーラと親和的なのは、家に置かれた大きな家具ではなく、ちょっとした小道具である。たとえば取り替えるべき電球、妹を叩くための木のスプーン、白い棚から出てきた母親の日記。そして映画のラストに出てくるのは目覚まし時計である。

 この映画は最後に何かが解決するわけでもなければ、劇的な何かが待ち受けているわけでもない。ただ大きすぎる家具と違ってそれらの小道具オーラにそっと寄り添う。映画のなかでは明るい出来事はひとつもない。しかし最後に寝室で交わす母親との会話――「ママぐらい成功したい」というセリフ――は相変わらず滑稽ながらも胸に迫るものがある。時計の秒針が時を刻む音でこの映画は終わる。本当に何者でもなかったレナ・ダナムがオーラという人物を通して見せた生々しい姿を刻みこんでいるのである。

参考文献

『タイニー・ファニチャー』初ロードショー記念!!山崎まどかさんトークショー
『タイニー・ファニチャー』山崎まどかさん×藤野可織さんトークショー採録(2018.@関西大学梅田キャンパス)
レナ・ダナム『ありがちな女じゃない』(山崎まどか訳)河出書房新社、2016年

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