前編では、2019年11月に発生したALS患者の嘱託殺人の背景に、日常的かつ長年にわたる虐待が存在した可能性、その生き地獄のような状況が「安楽死したい」という本人の強い願望へとつながった可能性を確認した。
障害者虐待の実態はどうなのだろうか。2017年の相模原障害者殺傷事件、2019年の京都アニメーション放火事件などの重大事件に、障害者虐待が関係している可能性はないだろうか。
障害者虐待防止法が制定されるまでの長い歩み
障害者が差別されやすく虐待に遭いやすいことは、心の中では誰もが認める事実だろう。
日本では2011年に障害者虐待防止法が成立し、2012年に施行された。2014年、日本が国連障害者権利条約を締結するにあたっては、前提となる国内法整備が必要だった。このため、多数の法律が制定されたり改正されたりした。障害者虐待防止法も、その一つである。もっとも、「日本は、国連障害者権利条約の締結のために建前を繕ったのだな」と解釈するのは、あまりにも皮相すぎる。
障害者に対する虐待にフォーカスした法律の必要性は、障害当事者を中心として、おそらく古くから認識されていたはずである。しかし1980年代までの日本では、虐待という用語は一般的ではなかった。当時、子どもの虐待死は「せっかん死」と呼ばれており、親の悪意ではなく、善意による教育やしつけの行き過ぎとして理解されていた。親が起訴される場合も、刑罰は微罪であったり執行猶予つきであったりした。児童に対して虐待防止を法制度化することが出来ていなかった時期に、障害者に対する虐待防止の法制度化を期待するのは、ほとんど不可能な「無理ゲー」であろう。
1995年、大規模かつ深刻な障害者虐待事件が明るみになった。知的障害者多数を雇用していた茨城県の企業において、社長による賃金不払い、暴力、充分な食事を与えない、女性障害者に対する性的虐待などが行われていたのだ。
障害者たちは会社の寮に居住しており、コミュニケーションに関する充分な能力や手段を有していなかった。しかし、会社が障害者雇用に関する助成金の給付を受けていたため、賃金不払いが助成金詐取として捜査対象となり、捜査の過程で深刻な障害者虐待の実態が明らかになっていった。
しかし社長は、詐欺・暴行2件・傷害1件のみについて起訴され、実刑判決は受けなかった。裁判長が、社長の障害者雇用への長年の取り組みを“評価”したのだ。また、起訴された暴行等の件数が少ないのは、障害者たちによる証言では立件が困難と判断されたからである(性的虐待については民事裁判となり、社長が敗訴)。この事件を大きな契機として、障害者であることに特化した虐待防止法の必要性が認識され、社会の理解が深まっていった。
同時に、虐待全般に関する理解も深まっていった。2000年には、最初の虐待防止法である児童虐待防止法が成立している。以後、2001年にDV防止法、2005年に高齢者虐待防止法が成立した。
障害者虐待に関しては、厚労省が2005年に法制度の検討を開始している。2009年には、障害者虐待防止法案が国会に提出された。この時は廃案となったが、2011年に再度国会に提出され、成立した。
障害者虐待の公的データは、どう読めばよいのか
障害者虐待防止法には、画期的な意義がある。虐待の類型としては「身体的暴行・身体拘束」「性的虐待」「心理的虐待」「ネグレクト」「経済的虐待」の5つが挙げられており、雇用者による虐待も対象とされている。雇用している障害者に対する賃金の不払いは、一般的な労働法規に違反するだけではなく、障害者虐待防止法にも違反することになる。また、正当な理由のない身体拘束も、虐待の一つとされている。
同時に、市町村には障害者虐待防止センターの設置、都道府県には障害者権利擁護センターの設置が義務付けられた。障害者が社会的に不利な状況に置かれている以上、日常的な権利擁護と虐待防止の両方が必要なのである。さらに都道府県には実態を公表する義務、厚労省には各都道府県の実態を取りまとめて公表する義務が課せられた。
2012年以後、厚労省は本法の規定に従い、障害者虐待に関するデータを毎年取りまとめて公表している。実態把握と公開の歴史はまだ10年にも達していないが、2011年以前と比較すれば、格段の進歩である。
最新のデータは、2018年のものである(報告書、概要)。この他、虐待を行う側や虐待の場に注目したまとめがある(養護者からの虐待・障害者福祉施設従事者等による虐待・職場での虐待)。さらに、障害者虐待の予防を目的とした分析もある。
しかし、「ぱっと見」で分かってしまう課題は数多い。たとえば、虐待を行った側・虐待をされた側の性別は示されているが、例えば「男性が女性に対して行った虐待は何件あるか」は公表されていない。セクシュアル・マイノリティを含め、差別はジェンダーと不可分であり、差別されやすい状況にあれば虐待も受けやすいはずであるのだが、パターン別に内容と程度を判断できるデータは示されていない。
都道府県別の相談・通報件数(以下、通報等件数)を見てみると、「どう解釈せよというのか」と嘆きたくなるデータが並ぶ。たとえば、障害者福祉施設従事者等による虐待について2018年の都道府県別件数を見てみると、全国では2605件、最も多い大阪府では274件、最も少ない秋田県では6件であった。通報等件数が人口に比例しているとすれば、大阪府の人口は秋田県の約10倍である。したがって、「1桁」の違いがあることは自然だが、秋田県の件数は、大阪府より2桁少ないのだ。
秋田県の障害者虐待が本当に少ないのなら、喜ぶべきである。しかし、このような場合に一般的に考えられるのは、隠蔽体質であったり声をあげにくい状況であったりする。果たして、実際はどうなのか。少なくとも、厚労省が公表しているデータ等からは判断できない。
自治体の窓口に通報等を行っても、「虐待」と認められるとは限らない。2018年は、全国で592件が虐待とされた。相談・通報の総数2605件のうち、虐待と認められたのは約23%ということになる。本人や周辺の「虐待」という受け止め方が、針小棒大なのだろうか。それとも、虐待認定のハードルが異常に高いのだろうか。
虐待の事実が認められた592件の内訳をみると、虐待が行われた場所は圧倒的に施設が多い。居宅介護は2.7%に過ぎず、居宅でのサービスを含んでいる可能性がある移動支援事業の0.7%を含めても3.4%である。虐待のほぼ100%は、施設で起こっていると考えてよいだろう。
障害者の居住の場である入所施設やグループホーム、日中の生活や社会活動の場である施設、障害者作業所、児童デイサービスなど多様な施設がある。この結果を、単純に「施設は虐待が起こりやすい」「居宅生活は施設の数十倍ほど安全」と見てよいのだろうか。居宅生活している障害者やその家族が声をあげにくいという背景は、「ない」と言い切れるだろうか。公表されているデータは謎が多すぎるため、判断するのには役立たない。
個票には、虐待者および虐待された側の年齢や性別が掲載されているはずである。たとえば、2019年11月に医師2名による嘱託殺人で亡くなったALS患者・林優里さんが生前に書き残した「20代の男性ヘルパーが、障害程度区分が6(最重度)の40代女性の居宅介護において、怒鳴りながら物を投げる心理的虐待を繰り返した」という事例が同じ京都府に何件あるのかを明らかにすることは、原理的には可能であるはずだ。そのようなデータが自在に取得できれば、虐待の動機や背景は理解しやすくなる。確実に再発を予防できる対策も見つかりそうだ。しかし現在、そういう可能性は閉ざされている。
毎年のデータが存在する現在は、存在しなかった2011年以前に比べれば進歩しているものの、「これでまあまあ充分」と言える状況ではない。そうこうしている間にも、隠された虐待が、少しずつ新しい暴発に近づいているはずだ。
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