石原プロモーションといえば「とにかく食べて」
閉館してしまったけれど、北海道・小樽にあった石原裕次郎記念館にも何回か取材に行かせていただいて、九州でも街中をトリコロールカラーの移動車が走り回り、ファンの皆さんを喜ばせていたっけ。地方でのロケの時は取材が終わるとホテル内で、キャストやスタッフ&取材陣みんなでご飯を食べて、その後は取材陣とテレビ局スタッフで夜の街に繰り出すんだけど、遊び疲れて真夜中にホテルに帰り着くとするでしょ。するとお部屋に入った数分後にフロントから電話が入るの。ほんの数分後の絶妙なタイミングでよ。
えっ、と思って出てみるとフロントから「お帰りなさいませ。渡様からデザートの差し入れがございます。お持ちしてもよろしいでしょうか?」と。「えーーーーーっ、見てたの? ってか、そんなお心遣いまで」と毎度毎度、恐縮しきりよ。そんなこんなで、仲良しのテレビ局の女性スタッフをアツ部屋にお呼びして、真夜中にホテルの部屋で三次会とも呼べる盛大なデザート女子祭りが始まるのが常だったのよ。
「やだ、太っちゃう。さっきまで食べてたのに。でもスイーツは別だもんね。太っちゃったら渡さんのせいだよね〜」なんて言いながら、美味しくいただいたものよ。各地区のホテルスタッフの皆様、いつもお世話をおかけして申し訳ありませんでした。こんなただ食べ物につられてるダメダメ記者のために、夜中までお待たせしてしまって。
いやぁ、これは石原プロモーションのロケでは有名な話なんだけど、とにかく「ご飯は残さない。食べ物は大切に」の暗黙のルールがあるのよね。どんなに夜中まで飲んだり食ったり歌ったりしていても、朝もきちんとしっかり残さず朝食をいただくことが大事。例え深夜3時にデザートをたらふく食べたとしても、朝7時には食卓についていないとダメ。女性スタッフはそれが辛いと言ってたけど、アツの場合はへっちゃらだから、新しい気持ちで朝食をペロリ。たぶん渡さんはアツの食べっぷりを初めから見抜いていたんじゃないかしら?
ロケは早くから始まるんだけど、とにかく朝食をキャスト、スタッフ全員一緒に食べてから。どんなに朝早いロケだろうと渡さんは誰よりも入り時間が早くて、絶対に遅刻をされないのよね。凄くない? 「バタバタするのは性にあわないんですよ。現場に来てゆっくりコーヒーを飲んでそれからじゃないと」とおっしゃっていたけど、確かに渡さんがバタバタされていた姿はお見かけしたことがないわ。いつも朗らかで大らかで紳士的で優しくて。
で、ここがまた石原プロモーションの豪快なところなんだけど、朝食を食べてロケ地に行って、まだワンシーンも撮り終えてない頃に、石原プロの大番頭さんから「フルーツだよ」とバナナを差し出されたりするのよ。「いやいやムリですよ。朝食を食べたばかりですから 」なんて言おうものなら「何、情けないこと言っちゃって。ホラ、食べて食べて」の号令が。でもね、普通はバナナ一本だと思うじゃない? だけど石原プロの場合は違うの。一人にどーんとバナナ一房だから。そんなバカなって笑っちゃうぐらい。
それから小一時間ぐらいすると、今度は「おやつだよ〜、菓子パンだからペロッと食べられるよ」と差し入れが。その量たるや半端なく、「どうしたんですか? そんなにいっぱい買ってきて」と聞くと「現地の人に街一番の美味しいパン屋さんを聞いて、買い占めてきちゃったよ〜」と満面の笑みでおっしゃるの。とにかく“食”に関してびっくりするぐらいの大サービスで、ある時、大番頭さんたちに理由を聞いてみたら「俺たちの時代は食べ物がなくて苦労したんだ。お腹がすくという恐怖がまだ残っていて、とにかく常に食料を確保しとかなくちゃという気持ちなんだよ」とのことでね。
石原プロの炊き出しも有名だったけど、本当に何日もかけて仕込んで、朝から晩まで何日も何日も渡さんや舘さん、神田さんたちが自ら調理されるの。取材に行くと、本当ならお手伝いをしなくちゃいけない立場なのに、渡さんが「よく来たね。まずは食べて食べて」の声が響き渡り、取材陣にも振る舞ってくださって。どんな時も男らしくてとにかく真面目で、大スターなのに腰が低くて、こんな小娘にまで優しく接してくださる人だったな。
弟の渡瀬恒彦さんが亡くなる前に井ノ原快彦さんたちとのドラマ『警視庁捜査一課9係』(テレビ朝日系)の皆さんとのお食事会があって、渡瀬さんが「いいお肉を買ってきたのでいっぱい食べてください。イノッチが焼きますから」と挨拶をされて、みんなで大笑いしたんだけど、その時に渡瀬さんが「兄貴がお世話になっているようで。すみませんね〜」とおっしゃって。あまりのことに恐縮して「そんな、とんでもありません 」と言うのが精一杯で。今思えば、渡さんも渡瀬さんも「ご飯はみんなで食べましょう」を実践されていて、周りの人へのお心遣いが誰よりもあって。
渡さんは昔からご病気と闘っていらして、直腸がんの手術をされてから人工肛門を使用されることになったそう。「最初は抵抗がありましたね。だけど傷跡はバンドエイド一枚で隠せるぐらいなんですよ」と明るく話されていて。その後も怪我や病に立ち向かっていかれて。
そんなある日、「 僕は長生きはしないかもしれない。だけど明日死んでも悔いが残らないような毎日を過ごしたいんですよ」とおっしゃって。バカなアツはその言葉を額面通りに受け取っちゃって「そんなことおっしゃらないでください。渡さんは絶対に長生きします 」と言い返しちゃったんだけど、渡さんは大笑いしながら「先代の石原裕次郎に会わせたかったですよ。きっと石原も可愛がったはずですよ」と。そしてその後、「今は分からないかもしれない。でもね、アッちゃん。よく覚えておいてください。“人生はなるようになる”。なるようにしかならないんですよ。だから身を任せることも時には必要なんです」と真剣な顔でおっしゃって、今でもそのお言葉はアツの大切な大切な座右の銘になっています。
まだまだ書ききれないぐらいの素敵な思い出がいっぱいです。今頃、渡さんは裕次郎さんや渡瀬さんと、お酒を酌み交わしながら、大好きな甘いものやソフトクリームを食べていらっしゃるかもしれません。焚き火をしながら……。渡さん、本当に本当にありがとうございました。ダメ記者ですが、これからもたまには思い出して、空の上から見守っていてくださいね。まだ信じられませんけど、次にお会いする時はまた美味しいアイスクリームを一緒に食べてください。お持ちしますからね。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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