在日コリアンの作家たちは朝鮮戦争をどう伝えたか/斎藤真理子の韓国現代文学入門【2】

文=斎藤真理子
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Getty Imagesより

 先回に続き「朝鮮戦争と韓国文学」というテーマです。今回はちょっと変則的ですが、当時、日本の読者たちにこの戦争の現状を伝えた作品群を見てみたいと思います。

 開戦当時の日本はまだ主権を回復しておらず、新聞記者すら現地に送れませんでした。したがってその役割を中心的に担ったのは朝鮮語と日本語のバイリンガルの人々、具体的には広義の在日コリアンの作家・詩人たちです。

 その中には実際に朝鮮戦争に従軍したり、記者として取材に赴いた人もいます。そのうちのある人はリアルタイムで従軍記を書き、ある人は戦線から戻って20年も経ってからその体験を小説にして発表しました。植民地からの解放と冷戦構造の形成過程の両方を経験しながら、彼らバイリンガルの文学者たちが朝鮮戦争をどう表現しようとしたか。その幅を感じていただければと思います。なお、主に現在は入手しにくい作品を扱っているので、その点はご了承ください。

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『三十八度線』(現在は絶版)

 尹紫遠(ユン・ジャウォン)の『三十八度線』という小説集が1950年11月に早川書房から出ています。開戦から5か月めですから、かなり早い動きといえます。尹紫遠は歌人でもあり、戦前に歌集も出していますが、小説はこれが初めてで、表紙には「朝鮮の新人作家」という文字も見えます。

 出版社の側にも当然、朝鮮戦争に関心が集まっている今、ほとんど無名の作家の本であっても手にとってもらえるとの読みがあったでしょう。

 『三十八度線』は、戦争そのものを描いているわけではありません。1945年の解放以後に38度線がどのように形成され、人々の生活や心境を変えていったかを描く連作短編集です。第1章の「出発」は、1945年11月に、38度線の北から南へ、南から北へと移動する人々の群の描写から始まります(そこには日本人の姿もあります)。

 主人公・柳福樹(ユ・ボクス)はもともと南の出身で、戦争中は北の大きな製鉄所で働いていました。そこを離れて妻と共に南を目指しているのですが、38度線を前に「あらん限りの智慧と神経を絞って、自分の身を、妻を、子を、夫を、父を、護らなければならない『国境線』に近づいたのだ」と緊張しています。

 朝鮮は解放されたのに、喜びはつかの間、やがて新聞が手に入らなくなり、ラジオのダイヤルをどんなに回してもソウルからの放送が入らなくなりました。そのうちにラジオそのものが没収され、汽車も運行されず、働いていた製鉄所は操業を止めたままです。これからこの国はどうなるのかという不安と、彼なりの愛国心から福樹は南に移動するのですが、友人には「君の愛国心など、基礎工事のない家のようなものだ」とたしなめられてしまいます。

 結局この小説集の中で、その不安は解消されないままです。物語は回想を交えつつ進行し、無事に南に到着しますが、そこには歓喜どころか安堵もありません。実は、妻の花順(ファスン)と他の男性との間に恋愛関係が始まっており、花順は南の故郷に到着したら離婚を申し出なくてはと思いながら38度線を越えるのです。しかしこの混沌とした不安は、開戦前の朝鮮半島の先行きの見えなさを象徴しているともいえます。また、硬直した政治的人間像ではなく、生身の人間の煩悶と大状況を織り交ぜて展開したところにも作者の眼目がうかがえる気がします。

 この本には劇作家の三好十郎が序文を寄せており、そこには「現実政治の上での朝鮮三十八度線は、現在、見方によって燃えさかっている最中だともいえようし、又見方によっては一応の結論に近づきつゝあるとも言えよう」とあります。これはたいへん臨場感のある記述です。

 この文が書かれたのは「十月初」と明記されていますから、「一応の結論」が、マッカーサー率いる国連軍が9月に仁川に上陸して以来の猛烈な巻き返しを指していることは間違いありません。国連軍はただちに人民軍からソウルを奪還、10月1日には38度線を突破して平壌に入り、「新マッカーサー・ライン」と呼ばれる北進限界線をぐっと北上させました。

 ところが10月25日には中国人民解放軍が参戦して国連軍は撤退を余儀なくされ、尹紫遠の『三十八度線』が出た11月には、どんどん南へ後退していました。刊行されたこの本を見ながら、尹紫遠が、また三好十郎は何を思ったのでしょうか。彼ら二人に限りません。そのとき誰が、この戦争があと2年続き、また70年後も38度線が残っていると想像したでしょうか。

 三好十郎は序文で、「一つの象徴として見るならば、『三十八度線』は唯(ただ)単に朝鮮だけに有るのではないとは言えると思う。それは世界のいたる所にある。われわれの社会にもある。われわれのぞくしている集団にもある。自分自身の内部にも有りそうだ」と述べています。

 戦前はプロレタリア演劇運動に参加し、その後は左翼陣営と一定の距離を保ちつつ(三好は戦争協力をした文化人までもが進歩的・反米知識人として振る舞うことを批判していました)、自分の判断で世界を見、日本の戦争責任を自分の問題として考えようと努力した人らしい言葉です。

 その三好十郎が「彼のごとく善き人間であり、同時に善き朝鮮人である人を、私は多く知らない」と評した尹紫遠は、その後もいくつかの雑誌に作品を残していますが、60年代以降の足跡はわかっていないようです。

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『朝鮮詩集』(岩波書店)

 彼の仕事の一つとして、『朝鮮詩集』(金素雲編訳、岩波文庫)の解説があります。1951年12月に書かれたこの文章は「私たち朝鮮民族はいま『人間が想像できる最大限の不幸と悲しみ』を嘗めつつある」と始まります。

 『朝鮮詩集』の編訳者、金素雲(キム・ソウン)は戦前戦後を通じて、韓日両国の文学の架け橋として非常に重要な仕事をした文学者でした。尹はこの解説で、金素雲の訳業をたたえるために、金本人や佐藤春夫の文章をふんだんに引用し、自分の言葉はきわめて控えめにとどめています。そして「『愛』と『誠実』が一切の芸術の基幹であり要因であること千古に変りはない」と結びました。『三十八度線』が出版されてから間もなく書かれたこの小文には、作家の人となりがこもっているように感じます。

 ちなみに、38度線は朝鮮戦争の勃発とともに引かれたと勘違いしている方がときどきいるのですが、そうではありません。45年にここを境に米ソの分割統治が始まり、当初は何の障害物が置かれているわけでもなかったのですが、46年にはすでに(場所によりますが)南北の往来は徐々に厳しくなり、お金をもらって人の往来を助ける業者が生まれました。その後、往来の厳しさはどんどん強まっていきます。そんな様子は、現在手に入りやすい本では『1945, 鉄原』(イ・ヒョン、粱玉順訳、影書房)を読むと非常によくわかります。これは1970年生まれの韓国の作家が書いたYA(十代の若い人向けの作品)小説ですが、朝鮮戦争に至るまでの歴史を知るためにとてもよいと思います。

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