在日コリアンの作家たちは朝鮮戦争をどう伝えたか/斎藤真理子の韓国現代文学入門【2】
連載 2020.08.31 08:00
先回取り上げた『驟雨』(廉想渉・白川豊訳・書肆侃侃房)は、まだ戦争が続いていた1952ー53年の韓国の新聞に連載されたものですが、それなのに戦意高揚からは程遠く、むしろ風俗小説と言ってもおかしくない作品でした。
朝鮮戦争を「6.25」と呼ぶのはなぜか/斎藤真理子の韓国現代文学入門【1】
昨年の9月から今年1月まで、下北沢の本屋B&Bで、「韓国現代文学講座」というものをやっていました。新型コロナウ…
『嗚呼朝鮮』(現在は絶版)
当時日本人は、そんな小説が書かれていることなど知る由もなかったわけですが、同じころ、逆に韓国では知られていない小説が日本で出ています。1952年に新潮社から刊行された『嗚呼朝鮮』という作品で、張赫宙(チャン・ヒョクチュ、1905-1997)という作家が日本語で書いたものです。
張赫宙という作家は非常に興味深く、この人について話しだすと優に一回分必要になってしまうので端折りますが、1905年、朝鮮・慶尚北道生まれ、1932年に日本の雑誌『改造』の懸賞小説に「餓鬼道」が二等入選して作家となり、以後ずっと日本語で書きつづけた作家です(朝鮮語でも書いていますが、日本語作品の方がずっと多いのです)。
1936年には東京に移り、戦前・戦後を通して有名出版社から多数の本を出し、読者も獲得していた人です。例えば、非常に普及した筑摩書房の『現代日本文学全集』の87巻、『昭和小説集(二)』(1958年)にも、淺見淵、矢田津世子、中里恒子、八木義徳などと並んで短編「権といふ男」が採用されていますから、日本文芸界にしっかりと座を占めていた作家といえるのではないでしょうか(ただし、この巻の臼井吉見の解説ではけちょんけちょんの評価を下されていますが)。
初期の小説はプロレタリア文学の同伴作家的なものでしたが、生涯を通してみると作風が相当に多様です。そして張赫宙といえば「親日派作家」の代表です。これは日本と仲が良いという意味ではなくて、日本に心を売った民族の裏切り者という意味です。特に、朝鮮人を日本軍の兵士とする特別志願兵制度が実行に移された1943年に、朝鮮人青年が「皇軍」に志願するという小説「岩本志願兵」を書いたため、本国でも、日本に住む在日コリアンからも非常に厳しい批判を受けてきました。
その張赫宙が実は、朝鮮戦争当時に二度、従軍記者として韓国に行っています。最初は1951年7月ですから、先回書いたように日本の新聞社が初めて記者団を送り込んだそのときですね。毎日新聞社の記者という身分で、国連軍の従軍章を持って赴いたのです。
『嗚呼朝鮮』はその際の取材をもとに書かれ、翌年早々に出版されましたが、『驟雨』に比べたらずっと深刻なモードです。これはもうタイトル通りで、作家本人としては、とにもかくにも「嗚呼朝鮮!」としか言いようのない祖国の惨状を、日本の読者に伝えたいというストレートな欲求があったのだと思います。もともと彼が日本語で小説を書きはじめたのも、朝鮮の悲惨な現状を広く知らせるには日本語で書いた方が早いという考えからでした。
『嗚呼朝鮮』の主人公は聖一(ソンイル)という青年で、クリスチャンのブルジョア家庭の息子であり英文学徒であり、アメリカへの留学を控えています。ですから絶対に戦争なんか起きてくれては困る立場です。しかし6.25から一夜にしてソウルは一変してしまい、聖一は自宅に身を隠しますが見つかって北朝鮮の義勇軍に入れられてしまいます。
以後の動きも波乱万丈で(とはいえこれぐらいは朝鮮戦争小説では当たり前のこと)、最初は北朝鮮軍、そこを脱走して避難民になったところ韓国軍につかまって「国民防衛軍」というにわか作りの部隊に編入。けれども最終的には、かつて人民軍にいた「反逆者」として逮捕され、巨済島の捕虜収容所に。
その途上では殺し殺されの地獄をさんざん見、自分の妹が処刑されて死体がころがっているのを偶然見るなどの体験もしています。このあたりの描写には現地取材の内容をかなり盛り込んだと思われ、たいへん迫力があります。
聖一はそんな中、母を探してさまよったり、戦争孤児を30人ほども引き連れてソウルに行き、孤児院を作るかと思えば、汚職事件や大量虐殺事件などにも巻き込まれてしまいます。このあたりは実際にあったことを下敷きにしており、張赫宙の取材結果を一身に背負っているので聖一は本当に忙しいのです。
ところが、いかなる地獄を見ても一向にスレたりしない純な英文学徒で(その割に英米文学の話は出てこない)、いつまでも不器用な若者として生き抜くところに妙なパワーがあります。取材成果を盛り込むために人物が振り回されている感はありますが、それでもこの小説は力作であり、著者の意図は一定程度達成されたと思います。
ただし、最後はとても駆け足で、資金不足か時間不足のせいでいきなり最後が字幕だけになった映画みたいです。聖一は巨済島の捕虜収容所にいたのですが、また釜山の収容所へと移送され、これからどうなるかは全くわからないという説明文で唐突に終わるのです。
「…その捕虜たちは、停戦協定の成立を希ふと同時に、北朝鮮に引渡されたら何(ど)うしようといふ新たな不安に陥っている。聖一がその一人であることは云うまでもないことだが、彼の場合、自分の孤児園へ帰還したい一心に燃えていることは明かで、彼の不安はまた深刻である。」
読む人をしてこれほど不安にさせるエンディングも珍しいのではないでしょうか。約70年後に読んだ私でさえ、「それはほんとに深刻である。」と心底、途方に暮れてしまいました。
しかしこの場合、小説的な終わりがやってこないところにリアリティがあるのかもしれません。朝鮮戦争ではこのように、戦況に一喜一憂、先がわからず、「不安はまた深刻である。」という状態で死んだ人々がどれだけたくさんいたかと思うからです。
『コレクション 戦争と文学1 朝鮮戦争』(集英社)
張赫宙にはもう一つ、現地取材にもとづく「眼」という短編があります。これは『コレクション 戦争と文学1 朝鮮戦争』(集英社)に収録されているので、今も読むことができます(ちなみにこのアンソロジーは、「戦争と文学」と銘打った全20巻に及ぶシリーズの第1巻ですが、スタートが朝鮮戦争だというのはなかなか英断だと思います)。
「眼」は張赫宙の2度目の朝鮮戦争従軍記者体験(1952年10月)をもとにした小説で、ここには作家自身が登場します。このとき張赫宙は実生活上でも日本に帰化して野口と名乗っており、その名前で取材に来ているのですが、「張赫宙が来ているらしい」という噂が流れて、韓国の新聞記者が「あれを逮捕する意志はないか」と内務部長官に糾したりしています。
もちろん、かつて売国的な親日小説を書いた赫宙は韓国マスコミから見ても絶対に許せない存在だからです。実際に逮捕はされませんでしたが、それほど物騒な、何があるかわからない状態であることが描かれます。
このとき作家は二人の青年から、ぞっとするような戦闘体験のあれこれを聞きます。その青年の一人は日本の広島育ちであり、もう一人は「京城大学にいるときに先生の小説を読みました」ということで、紹介されて作家の取材対象となったのです。彼らの話を聞いた張赫宙の総括は、「多くの人が、ほんの一寸したことから、殺されたり、命が助かったりした」というものでした。言葉にすると何でもなく見えますが、この戦争の本質を的確に見抜いた表現ではないかと思います。
「ほんの一寸したこと」とは、たとえば自分の住む街が空襲を受けたときにたまたまそこにいなかった、というような偶然とはまた違います。敵味方が何度も入れ替わることによって「ほんの一寸したこと」の恐ろしさが倍加し、加速し、また多様な形態で現れるという恐ろしさを言っているのです。
『鯨』(晶文社)
これについては例えば、現在の韓国の50代作家、チョン・ミョングァンという作家が『鯨』(拙訳、晶文社)という長編小説の中で端的に語っています。少し長くなりますが引用してみましょうか。
「生と死の間にさしたる違いがなかった当時、死はあまりにもありふれていて、丁重に扱われることはなかった。南の人々と北の人々は気も狂わんばかりの憎悪にとりつかれ、お互いに数百、数千もの人を一度に虐殺した。彼らは相手を一か所に追い詰めて竹やりで突き殺したり、生きたまま穴に埋めたりした。建物に閉じこめて火を放つこともあった。そのようにして殺された者の中には、女や子どもも数えきれないほどいた。彼らは、自らの思想は隠したままで手当たりしだいに人をとらえ、相手の思想を問うたのである。答えは二つに一つだったから、生き残る確率は常に半々だった。それはイデオロギーの法則である」。
張赫宙の「眼」に戻りますと、タイトルの「眼」とは、「京城大学で先生の小説を読みました」と言った兵士の眼を指しています。
この人は物静かな教員風の風貌ですが、やはりすさまじい体験をしています。あるとき彼の部隊が人民軍の少女ゲリラを捕まえたのですが、彼女は以前、韓国軍側に降伏していて集団レイプされた経験を持っています。そのために再度脱走し、韓国軍への復讐を誓ってゲリラになったというわけです。
結局その女性も悲惨な死に方をしますが、この話をするときの彼の眼は虚無に満ち、張赫宙に「二十台の若さで、普通ならば、私のような気の弱いインテリで終るであろうあの二人が異常な体験を重ねてゆく、ということが悲哀になった」という感想を抱かせます。
ところが翌日またその兵士に会うと、昨日とは違って冷酷な印象で、作家は、自分を疑っているのではないか、どこかへ連行して取り調べるつもりではないかという疑念を持ちます。この人間は怖い。何より眼が怖いと。
この陰惨な眼を通して作家は、生死が入れ替わる極限状態をくぐり抜けてきた者たちの空恐ろしさに触れ、「ほんの一寸したことから、殺されたり、命が助かったりした」という戦争の本質を悟るのです。すると「腰から上がない赤煉瓦の建物も、崩れ落ちたビルも、焼け爛れた民家も、見ていると『痛い』と叫んでいるようであった」と思えてくる。
この短編も結末はちょっと取ってつけたような楽観的な終わり方をするのですが、朝鮮戦争の本質に触れる部分があり、やはり現地で生の声を聞いた成果ではないかと思います。もしかしたら、裏切り者と目される存在だからこそキャッチしえたものもあったかもしれません。
張赫宙は親日文学を書いたとして生前にもずいぶん批判を受け、朝鮮・韓国文壇においては完全にアウトサイダーでした。しかし筆を折ることはありませんでした。もしかしたら家庭の事情もあって(父は大地主でしたが、彼が生まれて間もなく父母は離別し、母と二人で放浪生活を送ったそうです)、小さいときからアウトサイダー的な意識を持っていた人なのかもしれません。
日本人の妻や子どもたちとは生涯円満で、晩年まで執筆をつづけ、1989年には『マヤ・インカに縄文人を追う』(野口赫宙の名前で刊行。新芸術社)といった紀行文風の小説も書いています。また、英語で小説を書いてインドで出版するということもやったそうで、ちょっと破格のスケールを持っていた人と見ていいのかもしれません。亡くなったのは1997年、92歳でした。最近、彼の仕事もしばしば研究対象となっていますが、ポストコロニアリズムの観点からさらに吟味されていい人だと思います。