張赫宙が『嗚呼朝鮮』や「眼」を書いて間もないころ、一人の若い男性が小説の原稿を持って彼を訪ねてきました。出版の相談に乗ってほしかったのですが、その夢はかないませんでした。その男性の名前は鄭埈汶(チョン・ジュンムン)といいます。彼は在日韓国人義勇兵として朝鮮戦争に従軍し、従軍体験をもとに小説を書いたのです。
戦争当時、日本各地から合計641人の在日義勇兵が参戦したことは、あまり知られていません。鄭埈汶もその一人で、戦争が始まったときには府中の米軍基地でクラブのマネージャーとして働いていました。戦争が始まれば部隊ごと韓国へ行ってしまうので、それは彼の失業を意味します。彼は英語と日本語と朝鮮語ができるので、一緒に戦地に行かないかと声をかけられたりしますが、とてもそんな気持ちになれず断ります。
とりあえず仕事はなくなりましたが、多少の蓄えはあるので気長に次の職場を探していたといいます。そんな8月のある日、彼は浅草の映画館で朝鮮戦争のニュース映画を見ました。そして、火がついたように泣く赤ん坊の声を聞いたとたん、「肺腑を締めつけるような」感覚を覚え、激しい怒りに襲われたのです。
「李承晩と金日成は何の権利があってあの赤子から両親を奪い、家を奪うのか?」
「非戦闘員の女性や子どもたちまでが巻き添えを食って死んでゆく。言葉が通じないために殺されるものも多いはずだ。英語と朝鮮語ができる私なら、その中の何人かは助けることができるかもしれない」。
当時、韓国側を支持する民族団体では率先して志願兵を募っていました。鄭埈汶はすぐに志願し、1950年の9月から51年の10月まで、国連軍に従軍して韓国に赴きました。
ですがこの人は、単なる正義感の強い愛国青年というだけではなかったのです。彼はかつて、共産主義者として韓国でゲリラ活動をしていました。
それまでの経歴を見ますと、鄭埈汶は1934年、9歳のときに日本に来て日本で教育を受け、1943年には日本陸軍に特別志願兵として入隊しています。終戦は朝鮮半島北部の咸鏡北道で迎え、ソ連軍に投降しました。あわやシベリアに送られて重労働かと思われましたが、朝鮮語ができたので民族意識が高いとほめられ(このとき面談したのが、後に北朝鮮の外相となり、休戦会談で首席代表も務めた南日(ルビ ナム・イル)だったというのだからすごい)、逆に政治訓練所に送られて政治教育を受けます。
そして朝鮮共産党(後に南労党)の秘密党員となり、慶尚南道(キョンサンナムド)の田舎町で、表向きは教師として働きながら組織拡大活動の責任者として働いたのです。それが1946年のことですが、当時は朝鮮半島の信託統治反対運動が全土に広がり、左右陣営の対立が激化する一方でした。そんな中で彼は、党の方針に疑問を抱きながらも活動を続けますが、1947年に逮捕。そのころには完全に党が自分を盾としてしか見ていないことに気づき、この国の共産主義に失望していたといいます。
結局、死刑は免れないと思っていたところ、父が賄賂を使って彼を助け出し、日本へ密航させました。小さな漁船で門司に着き、兄を頼って東京へ行き、米軍基地のクラブで働いていたというわけです。国連軍に志願したときには26歳でした。
日本軍兵士から共産党員へ、そして密航者から米軍基地のクラブマネージャー、さらに国連軍兵士へ。8年ほどの間にこれぞ波乱万丈という人生です。
戦争から帰った鄭埈汶は不動産業などさまざまな仕事をしていましたが、40代後半になって「麗羅」(れいら)というペンネームでミステリー作家となりました。『桜子は帰ってきたか』(文春文庫)でサントリーミステリー大賞読者賞も受賞、張赫宙よりもよく知られた作家となったわけです。
その麗羅が、1992年に徳間文庫の書き下ろしとして『体験的朝鮮戦争』(現在は晩聲社刊)という本を書いています。これを読みますと、実際の従軍体験は相対的に少なく、むしろ朝鮮戦争に至るまでと至ってからの歴史がかなりのページを割いて丁寧に整理されています。作家にとっては「私自身にとっての朝鮮戦争は何だったのかを整理したい」というのが長年の悲願で、そのために背景となる歴史の裏付けが重要だったようです。
体験記を拾っていくと、9月の初めに志願して10月下旬に仁川に到着。志願したときはまだマッカーサーの仁川作戦の前だったので、韓国側に悲観的な情報が多かったのですが、その後戦局が逆転したため、主戦場は完全に38度線の北に移っていました。尹紫遠の小説が出版を控え、三好十郎が解説を書いていたころです。激しい市街戦を経たソウルの街では、市内のほとんどが廃墟となりながらも、すでに商人たちは焼け残ったところで店を開いていました。
麗羅は軍に入っても、できれば直接戦闘の場に立ちたくないと思っていましたが、その通り司令部勤務の通訳に任命されます。この時点で「戦争は間もなく終わるに違いない」と思ったそうです。つまりもう停戦に向かっているという判断だったのでしょう。ところが10月に中国軍が参戦して戦局がさらに変わり、その後3年も戦争が続いてしまったことは先に書いた通りです。
麗羅は故郷の町に行って家族や知人と再会することもでき、51年の11月に除隊命令を受けて日本に戻ってきました。これは運の良いことで、在日義勇軍に志願した人々のうち135人は戦死または行方不明となったことが知られています。
また、残りの200人のうち、日本に戻れずそのまま韓国にとどまらざるをえなかった人も多数いました。休戦協定の前年、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して主権を回復したため、在日コリアンは日本国籍を失って外国人となりました。日本の許可なく出国した外国人は再入国を認められず、日本政府は、在日義勇兵にもそれを適用したからです。
さて、かつて張赫宙のもとに持参した原稿は1979年に『山河哀号』(集英社、のちに徳間文庫)という小説になりました。実はこの原稿を書きはじめたのは1949年、書き上げたのは朝鮮戦争から帰ってきた52年、張赫宙からは「体験記としては貴重だが小説作品としては未熟だ」とのはがきをもらったそうです。それが40年以上もたって本になったわけですが、こちらは植民地時代、解放、そして南北分断の時代という激動期を舞台に、著者の分身のような青年が奮闘する小説でした。作家本人の心情はこちらの方がよくわかるかもしれません。
その翌年には朝鮮戦争のさなかに箱舟で洛東江に流されてきた少年を主人公とする推理ロマン『わが屍に石を積め』(集英社)を発表。また日本軍から脱走した朝鮮人青年が、亡き恩人の娘を満州から日本に送り届けるために決死の逃避行を試みた揚げ句、33年の重労働の刑に服するという例の受賞作『桜子は帰ってきたか』など、韓国に題材をとったミステリー作品を書きました。
戦後の在日コリアンの文学者たちは、日本における南北分断を体現する政治的存在としての懊悩を描きつづけてきましたが、麗羅は日本のエンターテインメント文学の中で、まったく別のやり方で韓国の現代史をバックグラウンドにした作品を書いて評価を受けてきました。その大元に実際に戦地に赴いた体験があったことは重視すべきだと思います。
ちなみに、麗羅というペンネームは、高句麗の「麗」と新羅の「羅」を組み合わせたものだということです。「朝鮮戦争は真っ赤に燃えている燠(おき)が薄い灰をかぶっているにすぎない。南北が統一して、灰に埋もれた燠をすっかり消してしまったときに、完全に終結するのだ」と『体験的朝鮮戦争』のあとがきに書いた作家は統一を見ることなく、張赫宙と同じ97年に亡くなりました。