在日コリアンの作家たちは朝鮮戦争をどう伝えたか/斎藤真理子の韓国現代文学入門【2】

文=斎藤真理子
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 一方で、芥川賞候補にもなった作家が朝鮮戦争に従軍していたことをご存知でしょうか。

 こちらは麗羅と逆に、北朝鮮軍に従軍していた人で、金史良(キム・サリャン)といいます。1914年に平壌に生まれ、1933年に現在の佐賀大学にあたる佐賀高等学校文化乙類に留学、ここに在学しているころから日本語で作品を書きはじめています。

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『光の中に』(講談社)

 1935年に東京帝国大学文学部に進学、卒業後の39年に『文芸首都』に発表した「光の中に」が40年上半期の芥川賞候補作となりました。これは、東京のあるセツルメントを舞台に、朝鮮人のアイデンティティの問題を取り上げた意欲的な短編でした。ボランティアで英語を教えている「南」という朝鮮人大学生は、自分の名字を「ナム」という朝鮮語読みではなく「みなみ」という日本語読みで発音しながら生活しています。

 彼は、山田春雄という男の子が彼に対してしつこく「朝鮮人、朝鮮人」と言ってからかうことが気になっています。しかし次第に、春雄の母親が朝鮮人であること、父は日本人で、朝鮮人の妻に対して結婚してやったことを恩に着せ、たびたび暴力を振るっていることがわかってきます。

 南青年は山田春雄のからかいを、「母への愛の一つの歪められた表現に違いない」と思い、彼に愛着を覚えますが、同時に「なむ」とは言わず「みなみ」と名乗る自分の卑屈さから目を背けることもできない(とはいえ、この時期には創氏改名が進められていたことを考えれば、「なむ」と「みなみ」の間で悩むというのはぎりぎりの抵抗と読むことが十分に可能です)。南青年の煩悶が丁寧に描写され、最後は、山田春雄との間に一定の交流が成立するところが描かれます。

 これが「民族問題に良心を持つ者には、心臓に焼鏝(やきごて)を當てられる感じです」(藤森成吉)、「ちかごろこんなに、なまなましく胸にこたえる作品を見なかった」(伊藤永之介)といった評価を受けました。

 「光の中に」などいくつかの金史良の作品は、『光の中に』(講談社文芸文庫)に収められているほか、青空文庫やkindleで読むことも可能です。

 金史良はその後も注目の作家として旺盛に小説を発表しましたが、徐々に、「時局に協力するか、筆を折るか」という厳しい選択肢に迫られる時代に入ります。1941年の太平洋戦争開戦直後に朝鮮思想犯予防拘禁法により鎌倉警察署に拘禁されたこともありました。42年に平壌に帰郷し、その後部分的に時局協力姿勢を見せつつ、鬱屈の中で、中国の抗日解放区へ脱出して日本と戦うチャンスを伺うようになります。

 1945年2月、「在支朝鮮出身学徒兵慰問団」の一員として北京に派遣されたことを利用して抗日解放区へ脱出、華北朝鮮独立同盟の本拠地に1か月かかって到着しました。終戦とともに朝鮮義勇軍の先遣隊に加わって朝鮮へ戻り、ソウルを経て平壌に帰郷、小説、戯曲などを発表していました。

 50年に朝鮮戦争が始まるとすぐに従軍し、記録を残しています。その一つ「海が見える」は人民軍が南下して、釜山に近づいたときの記録です。その最後の部分を引用してみましょう。

「われわれは魚のうろこのような満身の傷あとをまさぐりながら、巨人のようにこの山嶽からおりてゆくであろう!
 オリムポスの山をおりてゆくゼウスのように、満天下に光をふりまきながら行動するであろう!
 五角三色旗(朝鮮民主主義人民共和国の旗)をなびかせて、偉大なる狩猟の歌をうたいながら海へ向かって前進するであろう!
 海がみえる。巨済島がみえる。
 まさしくここが南の海なのだ。       一九五〇年九月一七日記」

 金史良はこの後間もなく戦線から離脱します。10月から11月にかけて、アメリカ軍の仁川上陸作戦によって人民軍が撤退する際、持病の心臓病のため江原道(カンウォンド)の原州(ウォンジュ)付近で落伍して連絡がとれなくなり、そのまま死亡したものと見なされています。当時36歳の若さでした。

 朝鮮民主主義人民共和国は2013年、金史良に朝鮮民主主義人民共和国英雄の称号を追贈しました。「海が見える」は作家・金達寿の翻訳によって、休戦協定の発効後、『中央公論』1953年秋季文芸特集に掲載されました。

 このように並べてみますと、張赫宙は日本、麗羅が韓国、金史良が北朝鮮に依拠して生きた人です。そして朝鮮戦争当時、日本のインテリゲンチャの間の支持は圧倒的に、金史良の側にありました。

 ここでは小説を取り上げたので言及できませんでしたが、当時、日本で非常によく読まれた文学者に許南麒(ホ・ナムギ)という詩人がいます。

 1918年に生まれ、39年に来日して日本大学、中央大学で学んだ人で、『朝鮮冬物語』(49年)、『火縄銃のうた』(51年)といった日本語詩集、また、北朝鮮・韓国両国で書かれた詩の翻訳によって植民地支配や南北分断の悲劇を語るとともに、日本人に北朝鮮の正当性を訴える美しいプロパガンダとして非常に効果的に機能しました。特に『火縄銃のうた』は代表的な作品として朝鮮文学そのものの代表のように見られていたと思います。

 許南麒は一貫して在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の立場で生きた人で、在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長、朝鮮総聯中央常任委員会副議長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員を務め、1988年に亡くなりました。彼にとって日本語での著作は明らかにプロパガンダの手法であり、1960年以降、組織の方針が変わってからはほとんど日本語による著作をしていません。

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『巨済島 世界に訴える』(現在は絶版)

 私の手元には許南麒の『巨済島 世界の良心に訴える』(理論社、1952年)という本もありますが、これは、張赫宙の『嗚呼朝鮮』の主人公が最後に入れられた捕虜収容所に的を絞った書きおろし長編叙事詩で、捕虜への拷問、虐待を皮切りにさまざまな問題点を詩の形で告発したものです。

 巻末には「本書を/平和のたたかいの/武器に!」というイラスト入りの言葉が1ページを割いて置かれており、労働組合や大学などで学習会に使われたであろうことがうかがえます。この本が、日本の出版社・理論社の編集長であり文芸評論も書いていた小宮山量平の依頼によって書き下ろされたという事実に、1952年当時の日本のインテリゲンチャを取り巻く様相が如実に現れています。

 乱暴に言うなら、北朝鮮と金日成を評価しない以上「親米」であり「反動」であり、民主主義すら脅かす存在である。という考え方が知識層の中では多数派だったと見てよいでしょう。戦争そのものも李承晩政権がアメリカの援護のもとで一方的に始めたと考えられていた時代です。

 『巨済島 世界に訴える』の根底にあるのは、日本の津々浦々にあふれる平和を求める声も、朝鮮戦争の「即時停戦」を叫ばないかぎり虚妄である、という視点です。そして「即時停戦」とは「アメリカは手を引け」であって、その逆ではありません。

 その視点から見ると、国連軍への従軍は李承晩政権を認めていればこそできる、「反動行為」です。張赫宙や尹紫遠の作品は、手ぬるく、中途半端な、ときには「反共」の限界を持つものと見くびられていたのかもしれません。この二人の作家は決して李承晩にも金日成にも肩入れしてはいなかったのですが。

 しかし歴史を今の視点でジャッジすることはフェアではないでしょう。

 今、これらの作品を眺め、これらの著者たちが、たかだか5、6年前にはここまで先鋭に立場を異にすることはなかったと考えると頭がくらくらしてきます。また、戦争が3年も続き、南北分断が70年も続くとは思っていなかったことについても。

 さらに、尹紫遠も張赫宙も許南麒も、こんなにも激動する事態に即応して、よくまあこのように素早く第二言語での創作をこなしたものだと思うのです。もちろん3人が3人とも日本語での執筆に熟達した人たちではありますが、やはりそれは日本に住む人々に一刻も早く戦争の現状を伝えなければという意志あってのことです。

 そのような意志によって書かれたこれらの作品は、日本の50年代を考え、その後の60年安保、ベトナム反戦へという流れを考えるときにとても重要です。日本の読者はこれらの作品をどう読み、どう消化したのだろうか。または、忘却したとしたら何をどう忘却したのかという点です。これは過去を振り返ると同時に未来の東アジア像を持つ上でも重要だと思っています。

 次回もまた朝鮮戦争と文学について続けますが、中上健次が高く評価した尹興吉(ユン・フンギル)の『長雨』、そして個人的には朝鮮戦争を描いた小説の中でいちばん面白いと思っている朴婉緒(パク・ワンソ)の作品、さらに若い世代の小説にどのように朝鮮戦争が描かれているかを、ファン・ジョンウンの作品を例にとって見ていきたいと思います。

(斎藤真理子)

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