私たちを縛っている男らしさ/女らしさの正体とは? 恋愛におけるジェンダーロールの息苦しさ

文=雪代すみれ
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GettyImagesより

 「男性だから弱い姿を見せてはいけない」「女性だから料理が得意でなければならない」——このように「男性だから/女性だから」と社会的に性別に付与されている役割を「ジェンダーロール(性役割)」といいます。

 多くの人は「男性だから/女性だから○○した方がいい・するべきだ」と自分や他人に課したり、周囲から言われたりした経験があるのではないでしょうか。

 この夏、ジェンダーロールや自分らしさについて考えるヒントをくれる本が誕生しました。桃山商事の清田隆之さんの『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、臨床心理士であるみたらし加奈さんの『マインドトーク-あなたと私の心の話』(ハガツサブックス)です。

 7月31日、この二冊の刊行記念オンラインイベントが行われました。本記事ではその様子をレポートします。

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『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)

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清田隆之(きよた・たかゆき)
1980年、東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオで発信している。「cakes」「an・an」「すばる」などさまざまな媒体で執筆。桃山商事としての著書に『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(イースト・プレス)ほか、単著に『よかれと思ってやったのに——男たちの「失敗学」入門』(晶文社)がある。

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みたらし加奈(みたらし・かな)
1993年、東京都生まれ。臨床心理士。SNSを通して、精神疾患の認知を広める活動を行う。大学院卒業後は、総合病院の精神科にて勤務。ハワイ留学を経て、現在はフリーランスとして活動しながらメディアなどにも出演する。「wezzy」で連載をするほか、「ELLEgirl」のELLEgirl UNIとしても活躍中。パートナーと共にYouTube「わがしChannel」も配信する。また弁護士や臨床心理士などの専門家と共に、性被害や性的同意に関する発信をするメディア『mimosas(ミモザ)』の理事も務めている。

私たちがジェンダーロールに縛られていた頃

みたらし加奈さん(以下、みたらし):『さよなら、俺たち』は、清田さん独自の目線でジェンダーに関する最近のニュースやネットで話題になったことが書かれていて、詳しくない人でも読みやすい本だと感じました。ご自身の過去にも触れつつ、男性目線でフェミニズムが語られている珍しい本ですよね。

清田隆之さん(以下、清田):『さよなら、俺たち』の「さよなら」には、男性性の問題への決別という意味を込めました。これまで見逃されてきたり言語化されてこなかったりした部分が多々あったように思いますが、変化や自省の必要性が突きつけられている今、自分の中にも男性性の問題が根深く浸透している現実を受け止め、納得した上で「さよなら」できたらいいなという意味を込めてこのタイトルをつけました。

みたらし:清田さんは、何がきっかけでジェンダーの問題に興味を持つようになったのですか。

清田:自分の場合は失恋が大きなきっかけになったような気がします。『さよなら、俺たち』の第一章では、過去の恋人との手紙や交換日記を掘り起こして書いているんですね。なかでも最も読むのが辛かった部分を引用し、今はもっともらしくジェンダーのことを語っているけれども、恋人に酷い態度をとっていた過去を一度見つめ直してみたいなって。過去の恋人たちに掲載許可をもらったんですが、キモがられたらどうしようってビビりながら連絡しました。

みたらし:男女間の恋愛に限らず、同性の恋愛でも、過去に自分がやらかしてしまったエピソードって結構ありますよね……。私は今のパートナー(美樹さん)が初めての女性パートナーなのですが、それまでお付き合いしていた男性との手紙やプレゼントは全て捨ててしまったので、清田さんのような「自分を振り返って反省するタイミング」を逃してしまったと少し悔いています。

清田:みたらしさんの『マインドトーク』は、自分の傷や痛みについて赤裸々に語ってはいるんですが、臨床心理士という専門的な立場から自分を客観視しているような部分も色濃くあり、そこがすごくおもしろかったです。家庭の中でのジェンダーロール、自傷行為……自身の問題を社会構造の問題と接続させながら考えていく姿勢が刺激的でした。

みたらし:「マインドトーク」とは自動思考という意味で、自動思考とは、自分が意図しないうちに生まれるオートマティックな思考のことです。そして「無意識」というものは、意識的に出しているものよりも自分らしさや「癖」が出る部分。だからこそ、そこの「無意識」に向き合うことって大切なんですよね。執筆にあたり編集さんから「もっと詳しく」とコメントをたくさんいただいて、ぱっと思い出せないこともあって頭を抱えてしまったのですが、徹底的に自分の感情や行動に向き合って紐解いていくと、改めて知らなかった「無意識の癖」に気づくことができました。

清田:本の中では、男性パートナーと交際していた頃の違和感についても触れていましたよね。

みたらし:実は美樹と付き合うまではパートナーに男性らしさを求めてしまっていた自分がいて、「強そう」で、サバイバルでも生き抜けそうな男性とばかり交際をしていました。だからこそ、当時の彼氏が所属しているような場所っていわゆる「ホモソーシャル(※)」が蔓延っているところも多かったですし、私自身の交友関係も、これまたいわゆる「中心グループにいそうな男子」とつるむことが多かったので、「自分はホモソに入っていけるんだ」という優越感を味わいながら生きてきてしまったんです。でも本当はどこかで苦しかったんだと思います。だって、そこで受け入れられている私は。完全に無理をしていたから。でも、当時は弱い自分と向き合えず、男性の中で自分も一緒に強者として扱われる状況に酔っていました。

※ホモソーシャル…恋愛や性関係のない同性間の結びつきや絆。男性同士の絆の意味で使われることが多く、ミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア(同性愛嫌悪)といった特徴がある。

清田:ホモソに適応しなければならないと思いつつも、そこにいる自分はなんとなく本来の自分ではない、という感覚だったんですね。

みたらし:そうですね、脱げない鎧でした。ホモソーシャルの中で「男らしさ」で勝負しようとしたのですが、結局は身体面や筋力では勝てないので、いわゆる「マッチョな男性のメンタリティ」で、当時の彼氏にマウントをとっていたんだと思います。すると不思議なことに、だんだんと相手が「女性らしく」なってくるんです。もちろんその「女性らしさ」とは、社会が求めるいびつな「精神的な女性らしさ」ですが。だからこそ、その頃は、メンタリティは私の方が男らしいのに、役割ではなぜ私が女性らしさを求められるのだろう……男らしさとは? 女らしさとは? と疑問に思っていました。今振り返ると、その考え自体がジェンダーロールにとらわれすぎていたんですけれどね。

清田:性差と役割の意識がめちゃくちゃ複雑に絡み合ってますね……。でもそういう違和感が「ジェンダー」の問題と関係してるかもって、意識しないと結びつかないような気もします。どんなことがきっかけでその結びつきに気づいたんですか?

みたらし:美樹との出会いですね。ケースバイケースではありますが、女性同士の関係性でもボーイッシュな子は「男の役割」を求められやすかったり、フェミニンな子の荷物をボーイッシュな子が持つなどの話を聞くことが多く、それらは私が当事者になった上で初めて知ったことでした。そこで美樹と「料理ってどっちがするの?」「お会計はどっちが出せばいいの?」と話し合った結果、「したい方・できる方がすればいい」っていう話になって、世の中に蔓延るジェンダーロールが一旦白紙になったんです。そこからいろいろなフェミニズムの知識を取り入れている中で、だんだん考え方が変わっていきました。

ホモソーシャルの正体はなんとなく漂う同調圧力だった

清田:自分がジェンダーの問題を明確に意識したのって、多分30代になって以降だと思うんですよ。その前は例えば、恋愛は男から告白しないと始まらないとか、男は奢らないといけない、セックスもリードしなくてはいけないとか……そういう社会に漂っているジェンダーロールを疑いなく内面化していたように思います。中高一貫の男子校に通っていて、高校になると外部から共学出身者が入学してくるんですね。で、彼らが持ってきた中学の卒アルを見ながら、「この子かわいい」「この子紹介してよ」とかって点数付けをしていたり……本当に恥ずかしいんですけれど、何の疑いもなく、ホモソーシャルの中ですくすく育っていた。逆に自分が女子から採点されるようなことがあったら発狂するくらいビビるくせに……「この子は前髪が微妙」「化粧濃くない?」とか、なんの疑いもなく“ジャッジする側”に立っていました。

みたらし:ただ、そういうノリに合わせられないと、「お前“ホモ”なのw」とか「女に媚びてるな」とか、そういった批判や差別的な言葉をかけられたりしますよね。

清田:当時の空気感を思い出すと、屈強なリーダーが場の雰囲気を支配してるというよりは、みんなが空気を読み合い、平均から外れないような同調圧力があったような気がします。「俺この子がいいな~」と言ったときに、「えーw」「キヨの趣味って微妙だなw」とかって言われるその目線が怖いので、本当の自分の好みではなく、みんなが良いって言いそうな子を選んだり……。特に10代の頃は、周りの友達に「かわいい」って言われる彼女がほしいって気持ちも正直ありました。一対一では違った自分がいるけれども、男社会の目線が入ると、周囲の評価を意識した自分になってしまう部分がめっちゃあったというか。

みたらし:目が覚めてからじゃないと気づけないこともありますよね。私の交際していた男性たちも本気でアメフトやラグビーをやっている一方で、「力強さ」が男らしさの代表的な概念になってしまっているからこそ、じんわりと広がっていく“男らしくしなければいけない”息苦しさを、無意識下に感じていたとは思うんです。

 私自身も場面ごとにさまざまな役割を求められるゆえにねじれてしまっていて、すごく斜に構えて、当時の彼氏に「弁当作って」と言われたときに、「嫌だよ。あんたが作ればいいじゃん」って答えたんです。そうしたら「弁当は女の子が作るものじゃん。友達の彼女は弁当作ってるよ」と言われたことがあって……その会話から、その彼は“私が作ったお弁当”が食べたいわけではなくて、“彼女に弁当を作ってもらえる男でいたい”という思いが透けて見えてしまって。なので「じゃあ自分で作って、彼女に作ってもらったって言えばいいじゃん」と答えました。

清田:確かに(笑)。設定がほしいだけなら自分で演出すればいいじゃんって話ですもんね。リードしたり、フォローしたり、ホモソに同化したり、女役割を求められたり……場面によっていろんなジェンダーロールを担わされるのは息苦しかったと思いますが、みたらしさんの中に多種多様なアビリティが身につき、「この場面ではこの役割を担おう」って臨機応変な対応ができるようになってしまった部分もあるのかもしれませんね。

みたらし:当時はジェンダーロールの問題に気づいていなかったから、自分も周りの人も本当にしんどかったんじゃないかなって思いを馳せています。「弁当作って」のくだりもそうなんですが、私がジェンダーロールを求められる場面で「それはあなたの優しさなのか? エゴなのか?」とよく言っていて、「エゴなら私は受け取れない」って突き放してしまっていたんです。そう話すとその時々の彼氏も考えてはくれるんですけれど、結局お互いの歯車が噛み合わなくなって、破綻してしまうケースが続きました。

清田:いわゆるシスヘテロ(※)のマジョリティ男性には、無邪気に「自分は男性役割を担うものだ」と考えてきた人が少なくないと思うんですが、みたらしさんの元カレ達も深く考えずに「弁当作って」と言っていたのかもしれませんね。「そういうものでしょ」くらいの感じで。ただ、これは決して無意識だから仕方ないという話ではなくて、無自覚ゆえに鋭い問いかけが飛んでくるとパニックになってしまう。場合によっては「お前めんどくさい女だな」と言われてしまうパターンも多々あると思うんです。

※シスヘテロ…シスジェンダー(生まれたときの性と性自認が一致している)で、ヘテロセクシャル(異性愛者)の意味。

みたらし:よくある光景かもしれないんですが、私がそういった話をすると必ず歴代の元カレは黙り込んで、「また地雷を踏んでしまった」という顔をするんです。その当時はその態度に腹を立てていたんですが、今ならわかるんです。「もし当時の私がジェンダーやフェミニズムに明るければ、もう少し寄り添って話せたかもしれない」って。お互いにまだ知識もなくて、自分自身と向き合えていなかったからこそ、寄り添い合う余裕も優しさもなかったんだと思います。そう考えると本当に、男性とお付き合いをしていた頃の自分は苦しかったし、きっと相手もしんどかったと思います。清田さんは男性役割が苦手だったと本に書かれてましたよね。

清田:元々はすごく苦手でした。小さい頃からかわいいものが好きで、特に『ちびまる子ちゃん』(集英社)を始めとするさくらももこ先生の世界観に憧れていたんですが、小学校でサッカーを始めたり、特に男子校に入って以降は、「男社会でがんばらねば!」と過剰に適応しようとしていた節があります。でもやっぱり、リードしたり奢ったりという役割は重荷だし性格的にも合わないなって思いもあって。20代の頃は「男らしく扱われたいけれども男らしさを求めないでほしい」という、極めて都合のいい思いも正直あった。

 30歳の頃に付き合っていた恋人とは結婚の話も上がったのですが、彼女のことは大好きだったけどなぜか結婚に前向きになれなくて。彼女はわりとお金持ちの家のお嬢さんで、「男が外で働き、女が家を守る。そして子どもを持って家を買って……」という価値観を持っていた感じがあった。一方の自分は、実家が自営業で両親は共働き、会社員になりたいという気持ちも、就職しなくてはいけないという気持ちも持ったことがなくて。下町の商店街で日々あちこちの家に預けられ、雑多でのんびりした環境で育った感覚があるので、性別役割が固定した家族観に息苦しさを感じていました。

 そんなとき、しびれを切らした彼女の親戚から呼び出しを食らいまして。「結婚についてどう考えているのか」「収入はどのくらいあるのか」「転職してちゃんとした職につく気はあるのか」など質問攻めにあい……しまいには実家の土地を調べられ、相続について聞かれたりもしました。5年も付き合った恋人とちゃんと結婚の話し合いをしてこなかった自分が悪いんだけど、そういう経験もあって「保守的な家族像まじファック」という思いがいっそう強くなりました。

「美女には無駄毛が生えない」女性を神格化して見る女性蔑視

みたらし:私の中には確かにミサンドリー(男性蔑視)はあったと思っています。性暴力被害や女らしさを求められることは、女性・男性の二分化された問題ではなく、ジェンダーロールの問題があるはずなのですが、当時は「男性のせい」にすることしかできなく、そこから生まれたミサンドリーがどこかにありました。

清田:女性たちの恋愛相談に耳を傾けていると、具体的な実害(迷惑行為やハラスメントなど)の積み重ねによって男性に怒りや絶望感を募らせていくケースが少なくないように感じます。それをミサンドリーと呼ぶかはわからないけれど、みたらしさんの場合はどんな背景があったんですか?

みたらし:女性が性的に搾取される瞬間ですね。「○○ちゃんエロいよね」という会話を聞いたり、その会話に乗ってしまう自分、ホモソーシャルに適応するために“女性性”を出して「エロさ」に近寄っていく自分がいました。その瞬間は何も考えられなくなっているんですけど、後々考えて嫌悪感が生じたり、「やっぱり男はクソだな」と主語の大きい攻撃的な言葉で片付けたりしていました。清田さんの中にはミソジニーやミサンドリーってあったりしますか。

清田:多分両方あると思います……。ミソジニーに関してはとりわけ男子校時代に、女性をジャッジし、男同士の連帯を強めるホモソ的な価値観を内面化してしまった感覚があるし、ミソジニーのもう一つの側面である、女性を過度にあがめてしまう“神格化”にも身に覚えがあります。男子校ではリアルに女子と接する機会がなく、女の子はみんな優しくて、ふわふわしてて良い匂いがして、毛も生えなくて……みたいな、そういう絶望的な思考を持っていた。それを象徴する「うんこ転送説」というエピソードがあって、高校生のとき、「かわいい子はおしっこもうんこもしない。俺たちが突然お腹が痛くなるのはかわいい女子のうんこが転送されるからだ」ってよく同級生と話していたんですが、恐るべきことに、半ば本気でそう信じていたんです……。

 一方で、30代になってジェンダーのことに興味を持ち、桃山商事の活動で女性たちからひどい男のエピソードをたくさん聞いているうちに、それが一気に反転してしまって……。wezzyの姉妹サイトmessyで「クソ男撲滅委員会」という連載を展開するなど、ミサンドリー色が濃くなっていた時期も正直ありました。ただ、だんだんと「そんな自分も偉そうなこと言える人間ではないのでは……」と自省モードが強くなっていって。

みたらし:相手からのaggression(侵略)によって嫌悪感や怒りが生じることもある一方で、自分の傷を受け入れられていないがゆえに、外部の状況に対して嫌悪感や憎しみが表れている人もいるだろうな……と。ネット上の発言を見ている中で「この人はもしかしたらまだ自分の傷を放置してしまっているのでは」と感じることがあります。もちろんその人が悪いわけではなく、そうさせてしまった社会や環境が悪いと思うんですけれども。

清田:自分も当時は、問題を自分から切り離して「世の中の男はみんなクソだ!」みたいなモードで過激な発言をしていたように思います。そういうときって感情がスパークしてて、なんかちょっと気持ちいいんですよね……。その感覚が病みつきになっていた感覚がありました。

「行為」だけでなく「存在」も大切にしたい。社会を変えるための“伝え方”

みたらし:清田さんは『さよなら、俺たち』の中で「human being」と「human doing」の話をされていて、人間にはふたつの側面があるという話がとても印象的でした。

●human being…「存在」のこと。自分の歴史、思考パターン、感情、生理的反応や身体的変化などそこにあるもの。以下、「being」と表記。

●human doing…「行為」のこと。成し遂げてきたこと、持っているもの、肩書き、役割、アクションなど。以下、「doing」と表記。

清田:この二分法が絶対というわけではありませんが、自分はいったん分けて考えてみることが大事だと考えていて、現代の資本主義社会というのは人のことを圧倒的に「doing」でしか見ないし、我々自身も自分を表現するときに「doing」の側面に囚われてしまう気がするんですよ。

みたらし:就活も 「doing」基準ですよね。○○大学在学、○○の資格取得、バイトリーダーをやっているなど、社会で人を見る基準が「doing」重視だと思います。

清田:もちろん「being」と「doing」両方あって一人の人なんだけれども、特に男性は自分の「being」に鈍感なような気がしていて。自分の中にある感情を見つめないというか拾い上げないというか。もっと言語化していった方がいいと思うのですが、男らしさの規範ゆえにできないという側面もあるのかもしれない。

みたらし: 日本社会には「doing」に対して「being」を言語化しにくい空気が漂っていると感じます。だからこそ、メンタルケアとかセルフケアがしにくくなっていますし、男女二分論で見たら男性の自殺者が多い。それは自分の「being」を言葉にできなかったり、誰かに助けを求められなかったり……。誰から命令されたわけでもなく、誰も得しないのに、なんとなくの雰囲気から「being」の言語化のしにくさが生じていると思います。

 ちょっと話はそれるんですけれども、セクシャリティの話だってまだLGBTQが特別視されているゆえに、自分のことをカテゴライズしなくてはいけないわけで。星座のような感覚になれば、わざわざ自己紹介しなくてよくなるわけです。

清田:カテゴライズという行為自体は非常に「doing」的ですよね。もちろんそれが大事な場面はあるし、枠組みの話のほうがわかりやすいのも確かだと思う。例えば桃山商事で取材を受けるときも、「衝撃的な相談はありましたか?」「一番多いパターンはなんですか?」みたいな質問をされることがすごく多いんですが、桃山商事を知らない人にも伝わりやすい記事にするためという意図はわかるものの、パターンやカテゴリーに話を落とし込んでしまうと、beingの部分、つまり一人の人間がそこで感じたことや葛藤したことの大半が削り落とされてしまう。それってどうなんだろうっていつも思っていて。

みたらし:私もセクシャリティやLGBT関係の取材を受けると「差別された経験を教えてください」と聞かれます。誰が読んでもわかりやすい内容にしたいのも理解できるのですが、それを前面に押し出すようには使われたくないんですよね。

清田:シスヘテロの人は「異性愛者の困難を教えてください」なんて聞かれないですもんね……。刺激的な見出しや、大衆の思い込みを強化するような記事はPVが取りやすいので、作り方がそういう方向に行ってしまいがちだと思うのですが、それもどうなんだろうって話ですよね。もちろん伝わりやすくすることで、元々興味を持っていない人が知るきっかけになるのはいいことかもだけど、一方で単に話題が広がればいいというものでもないし……。

みたらし:取材してくれた方も悪気はなかったと思うんです。ただ、「doing」を相手に求めることが、時には暴力になることは知られたらいいなと感じます。それが周知されることによって、「being」を言語化することの大切さも広まっていくといいなと感じます。

清田:本当にそうですよね。わかりやすさに逃げず、「being」の部分を粘り強く言語化していくことが大事なんじゃないかと思っています。

 ただ、「doing」やジェンダーロールを全部捨てようって話ではなくて、そういう意味で先日みたらしさんがwezzyの連載記事で書いていた<したたかに生きる>という言葉が印象に残っています。「doing」的なレッテルを押し付けられるのは嫌だけれども、相手の期待や文脈によっては、あえて上手く使って話を発展させるという使い方はすごくいいなって。自分も見習いたいと思いました。

みたらし:世の中を変えていくためには、多数派に向けたアプローチや、日頃興味を持っていない多数の人たちに伝えるわかりやすいメッセージが必要と考えています。ネットにはアルゴリズムがあるので、Googleの検索結果もSNSも、その人が気持ちよく見られる情報が優先的に表示される傾向があります。私のタイムラインは心地よくて、賛同や共感できるメッセージに溢れ、つい「社会は変わってきている」と思いがちです。でも一歩外に出ると、自分が普段見ている世界はマイノリティなんだと落ち込むこともあるんです。フェミニズムに興味ある同士で話しているのはすごく楽なんですけれども、それだけでは世の中に伝わっていかなかったりする。「ミソジニーやホモソーシャルって何?」という部分から問題を分解して、解像度を低くして伝えていく必要があると思っています。

(取材・構成/雪代すみれ)

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