中上健次が「長雨」に魅せられた理由。朝鮮戦争を描いた文学と日本の文壇との関わり/斎藤真理子の韓国現代文学入門【3】

文=斎藤真理子
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Getty Imagesより

 振り返ると、韓国文学が話題になることはこれまでにも何度か断続的に起きてきました。例えば70年代前半に、金芝河(キム・ジハ)ブームというのがありました。軍事独裁政権に抵抗して死刑判決を受けたこの詩人の作品が続々と刊行され、よく読まれました。しかし、作品そのものの評価よりは詩人本人への興味や、その政治的立場への支持が先行していた印象があります。

 作品そのものが非常に注目を集めた例としては、1979年に刊行された尹興吉(ユン・フンギル)の短編集『長雨』(姜舜(カン・スン)訳、東京新聞出版局)が筆頭に挙がると思います。

 これは、私自身も読者としてよく覚えている事例です。全く知られていなかった韓国の小説の書評が複数の媒体に載り、何か新鮮な、日本文学に刺激を与えてくれるもののように好意的に紹介されていたという強い印象があります。そこには、作家の中上健次が大いに関係していました。

 当時、文学のみならず伝統芸能など韓国文化に強く傾倒していた中上健次が、本書の冒頭を飾る中編「長雨」を激賞したのです。中上本人の言葉を借りれば「どんな大きな社会的政治的な事件より、『長雨』という作品があり日本語に訳されているということが事件だと感じたんですね」というほどでした。

 「長雨」とは、日本の梅雨に相当する季節性の大雨のことです。朝鮮戦争のさなか、ある地方の村の一家に悲劇が襲いかかります。悲劇に伴い家族関係がもつれ、それを子どもがじっと見つめている。その間じゅう長雨が降り続いているという、そういうことでつけられたタイトルでした。

 この小説は韓国で1973年に発表され、本国でも高く評価されました。当時、尹はデビュー5年目で、本作は彼の出世作となりました。

 日本では6年後に翻訳が出たわけですが、そのころ、尹興吉という名前を知っている人など誰もいなかったはずです。よほどのことがなければ韓国の小説が翻訳出版されることなどなかった時代のことです。金芝河のような反権力の闘士なら別だったかもしれませんが、それでも単著は難しかったでしょう。やはり、中上健次の一押しという条件があってこそではなかったかと思います。

 前年の1978年に中上健次は、東京新聞に掲載する伝統芸能の取材記事のために韓国に滞在しました。このときが初めての訪韓で、パンソリ、仮面劇などを取材しましたが、これらから非常に大きな刺激を受け、「私に韓国人の血が流れていると親から耳にした事はないが、私は自分一人で、韓国の血が流れていると確信した」と後に語っています。

 以後、彼は韓国に魅せられた年月を過ごし、何度かの長期滞在を経て韓国を舞台にした小説も書くに至ります。尹興吉の小説に初めて接したのもこの、初の訪韓時です。このとき『韓国文芸』という日本語の雑誌に載った日本語訳の「長雨」を読み、尹興吉本人にも会ったのです。

 『韓国文芸』という雑誌は、全玉淑(チョン・オクスク)という女性が編集長を務め、韓国の文学を日本に広めるために季刊で発行されていました。全玉淑は後に韓国初の女性映画プロデューサーになった人で、映画監督ホン・サンスの母でもあり、韓日文化交流において非常に多彩に、活発に動いた人です。一方でこの文化交流事業は政府の支援を受けていたため、当時は「KCIAの手先」などと言われたこともありました。

 尹興吉は1942年生まれですから中上健次より4歳年上です。全羅北道の井邑(チョンウプ)というところの生まれで、高校を出たあと航空隊に入ったり、学校教師をやったりとかなりの紆余曲折を経て26歳のときに作家デビューしています。

 大学には行っていますが、それは社会人になってからで、ストレートに大学生になり文学修行をする、といったタイプの人ではありませんでした。また尹興吉は、自分の出身地である全羅北道井邑を、あたかもジョイスがダブリンを書きつづけたように書きたいと言っており、それもまた中上健次にとっての紀州と重なるようで、いろいろと共通点のある二人だったようです。

 今から40年も前に韓国との間にこのような作家どうしの交流があったことには驚くかもしれませんが、この事実は韓国でも認識されており、「日韓文学間交流にあって画期的な里程標は誰が何と言っても尹興吉と中上健次の出会いである」と高名な文学評論家が述べているほどです(その割に、中上健次作品の韓国への紹介はそれほど進んだとはいえませんでしたが)。

 『長雨』の翻訳は在日コリアンの詩人、姜舜(カン・スン)が務めました。たいへん手堅い翻訳で、原文の地方色を適切に抑制しながら訳出されています。装丁は著名な画家・李禹煥(イ・ウファン)が手がけており、今見ても非常にセンスのよい本です。

 帯には、「韓国の新しい文学世代の旗手!」というコピーがついています。「新しい」と言われたって、日本の読者が韓国の古い文学を知っていたわけもないのですが。そして裏表紙側の帯には、「風水の国の作家」という中上健次の推薦文が載っています。一部引用してみましょう。

「日本で、いままで自分と年格好が似たりよったりの人の作品を読んでも、こんなに驚いた事はなかった。派手やかな仕立てではないが、強い力がある。昏い魅力がある。今、手放しでほめたい。いや、考えたい」

 中上健次は当時32歳。『岬』『枯木灘』と、代表作を相次いで発表し、非常に勢いのあった時期です。そんな彼が惚れ込んだ「長雨」の、「強い力」「昏い魅力」には、朝鮮戦争が深く関係していました。

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