中上健次が「長雨」に魅せられた理由。朝鮮戦争を描いた文学と日本の文壇との関わり/斎藤真理子の韓国現代文学入門【3】

文=斎藤真理子
【この記事のキーワード】

中上健次が「長雨」に魅せられた理由。朝鮮戦争を描いた文学と日本の文壇との関わり/斎藤真理子の韓国現代文学入門【3】の画像4

趙世煕『こびとが打ち上げた小さなボール』

 では、何が終わっていないのか。

 この対談の中で中上が述べている言葉を引用しておきます。

「『長雨』の中の少年たちの痛みというものは、なお、いまも続いている」
「子供の時出くわしたものがなおいまも連続しているということ」

 この小説は最後までびしょびしょに濡れて、晴れ上がることはありません。雨は、休戦状態が続いていることの非常にストレートなメタファーだったと思います。戦争は終わっていないということ。それが、中上が「長雨」に見た最大のインパクトだったのではないでしょうか。

 尹興吉が降らせた雨はいまだにやんでいない。しかし冷戦構造のど真ん中で生きている韓国の民衆は、こんなにも熱い。それは昨日今日のことではないだろうという思いが、中上を韓国文化にのめり込ませました。しかし、冷戦構造の崩壊後、世界の随所でさらに激しい土砂降りが始まるとは思わなかったことでしょう。旧ユーゴスラビアが崩壊して戦争が始まるのが1991年、中上健次はその翌年に亡くなります。
  
 「長雨」の中で降り止まなかった雨は今も韓国社会の一部を確実に濡らしていますし、世界の随所で降りしきっています。そして、現在の韓国の40代、50代の作家たちの小説の中でも断続的に、激しく降るようです。

==========================

 中上と尹の交流はその後も続き、中上が編んだアンソロジー『韓国現代短編小説』(新潮社、1985年)にも作品が掲載されたほか、単行本としては短編集『黄昏の家』(安宇植訳、東京新聞出版局、1980年)、長編『母(エミ)』(安宇植訳、新潮社、1982年)が続きました。

 特に『母(エミ)』は、中上の『鳳仙花』に触発され、「『鳳仙花』が日本の母親像を描いたということでしたら、自分は韓国の母親像を描いて対決するとしましょう」(同書「日本語版への著者あとがき」より)という経緯により、日本での出版のために書き下ろされたものです(韓国でも後に出版されている)。

 このころには尹興吉の名前は日本の読書界でかなり定着しており、その後、間をおいて1989年にやはり書き下ろしの長編『鎌』(安宇植・神谷丹路訳、角川書店、1989年)が出たときには、遠藤周作が「私は尹興吉氏のファンである」「新作『鎌』は私にとって待望の作品なのである」と推薦の辞を寄せたほどでした。

 尹興吉旋風とでもいうべきこの動きは1979年に始まり、最後の本が出たのが89年ですから、ちょうど10年間、バブル前夜に始まってバブル崩壊前夜まで続いたことになります。

 92年に中上健次が亡くなった後、日本への作品の紹介は行われていません(作家本人の病気のため本国でも長く著書が出なかったことも関係しているでしょうが)。尹はその後も韓国文芸界に確固たる地位を占めつづけ、「長雨」は高校の教科書にも載っています。2018年には20年ぶりの長編を発表しました。

 また、中上健次は評価しなかったようですが、彼の『九足の靴で残った男』を筆頭とする連作は、小市民と貧困層の境目をふらふらと越えてしまう人間像を生々しく描いた80年代を代表する作品で、趙世煕(チョ・セヒ)の『こびとが打ち上げた小さなボール』(筆者訳、河出書房新社、2016年)にも通じる部分があります。同作は『長雨』に翻訳が収められており、いずれまた読めるようになることを期待しています。

 そして、尹の作品の紹介にあたって翻訳の労をとったのは主に安宇植と姜舜という、いずれも一時期まで在日本朝鮮人総聯合会の活動家であり、そこを脱退して文学活動を続けてきた在日コリアンだったことを忘れてはいけないと思います。

 実は、朝鮮戦争に関連しては、在日コリアン2世の金石範(キム・ソクポム)はすでに60年代後半から、開戦前夜の1948年に済州島で起きた4.3事件について多々の作品を発表していました。ここからも、イデオロギー対立に巻き込まれた市井の人々が時代の風圧に引き回される様相は十分に感得できたのですが、尹興吉の小説ほどの衝撃を持って受け止められたことがあったのかどうか。

 ここには実に翻訳というプロセスが持つ機能が介在するように思われます。金石範自身が「翻訳小説の場合は、翻訳というクッションを通して対象を客観的に距離をおいて見ることのできる機能を持つようになる」「しかし、かりに日本に馴染みのない世界が翻訳を介することなく最初から日本語作品として読者のまえに出されると、いささか反応が違ったものになる。(中略)いわば読者は作品へ向って歩み寄るのではなく、自らへの歩み寄りを期待する。そして客観的な視点や距離感といったものが薄れて、違和感や抵抗がより増幅されることが多い」と語っている通りで、在日コリアンの小説と本国の作家の小説の受け止められ方の違いは、注意深く見ていく必要があると思います。

1 2 3 4 5

「中上健次が「長雨」に魅せられた理由。朝鮮戦争を描いた文学と日本の文壇との関わり/斎藤真理子の韓国現代文学入門【3】」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。