精神障害者への虐待に関する著しい進歩
安倍政権の7年8カ月を通じて、精神障害者への虐待に関しては、大きな進歩が見られたと言ってよいかもしれない。といっても、光が見え始めたのは最後の1年程度、加藤勝信氏が厚生労働大臣だった時期である。
障害者が何らかの被害を受ける事件では、被害者が障害者であるという理由により、罪の軽減が行われやすい。特に、被害者が精神障害者であり加害者が家族である場合、その傾向は顕著である。精神障害のある子どもを成年後まで抱え込んだ家族が、親の老いとともに追い詰められて一家心中を試みたり、子殺しという結果に終わったりする事例は、第二次以後の安倍政権下においても、ここで紹介した事件以外にも数多い。しかしながら、加害者の親に実刑判決が言い渡されることは皆無に近かった。
筆者自身は、長年苦しんできた高齢の親に重い刑罰を課すことが解決になるとは思っていない。しかし、人命を奪う罪に対して軽すぎる判決には、やはり疑問を感じる。殺された本人は、障害ゆえに苦しんできた。苦しみの末に殺されれば、生命を軽く扱われる。あまりにも救いがない。
精神科病院内で行われた虐待事件でも、事情は同様だった。石郷岡病院事件では、当初、警察は充分な捜査を行おうとしなかったという。納得しなかった遺族は、提訴を視野に入れて証拠を取得した。その証拠に基づく報道が相次いだことから、暴行を行った看護スタッフらが逮捕されることとなった。しかし地裁判決は、無罪であったり30万円の罰金であったり、人命を奪った罪に対する刑とはいえないものであった。高裁判決はさらに、提訴時点で時効であったことを理由として、罰金も課さず免訴とした。提訴まで時間がかかった背景の一つは、積極的な捜査を行わなかった警察にあるのだが、そこは考慮されなかった。
この流れが明確に変わりはじめたのは、2019年も終わろうとする時期だった。2019年12月、精神疾患を持っていた引きこもりの息子を殺した元農水事務次官の父親に、実刑判決が言い渡された。また2020年5月には、精神障害を持つ娘を監禁して凍死させた寝屋川市の両親に、実刑判決が言い渡された。そして神出病院の虐待事件では、虐待された入院患者たちが死に至ったわけではないにもかかわらず、速やかな捜査と逮捕が行われ、加害者6名のうち2名が実刑を求刑されている。石郷岡病院事件とは、大変な差異である。精神障害者の命や人権は、少しは重く扱われるようになったようだ。
むろん、手放しで喜ぶわけにはいかない。これらの取り扱いや判決には、時期柄、「相模原障害者殺傷事件で植松聖被告に死刑を言い渡すために必要だった変化」という可能性が考えられるからだ。障害者が殺害されたり人権侵害されたりした事件全体において、障害者の命と人権の“相場”を引き上げて健常者一人に近づけておかなくては、植松被告を死刑にすることは困難だったはずだ。また、全般的な厳罰化傾向との関係もあるだろう。
しかし、少なくとも判決で見る限り、一人の障害者を殺す罪の刑は、少しずつ「一人の人間を殺す罪に対する刑」に近づいている。刑事訴訟は法務省マターだが、裁判所が障害者の生命や人権の価値を引き上げはじめたことは、厚生労働省にも何らかの影響を及ぼす可能性がある。
なお、医療観察法国賠訴訟においては、この時期も、理由らしい理由なく精神障害者の自由を奪うことは罪に問われておらず、奪われた自由が賠償に値するとも考えられていない。医療観察法の真の目的が「不起訴になったけれど犯罪者である障害者」に対して拘禁と実質的な刑罰を与えることにあるのなら、このことは自然なのかもしれない。
第二次以後の安倍政権下で引き上げられた障害者の命の価値は、あくまでも「被害者だったら」ということに過ぎないのであろう。「加害者になりうる危ない障害者」「微罪だけど加害者になった実績がある障害者」の命や権利については、相変わらず軽視が続いている。しかし、この区分は無意味だ。家族に監禁されたり殺されたりした障害者たちの多くは、「危ないことをするかもしれない」「小さいけれど、危ないことをした」「私たちから多くを奪ってきた」とみなされたから、そういう仕打ちを受けたのである。
交錯するモラルと利害 メンタルヘルスと人間の価値
変化は、精神医療に関わる専門家たちの中にも見られる。
精神科病院内での身体拘束に関しては、2017年にケリー・サベジさんが死亡した事件を大きな契機として、元入院患者自身や遺族による提訴が続いている。不要な身体拘束による死亡であっても、現在のところ、「無念が少しは晴らされやすくなったらしい」と思える判決は見受けられない。身体拘束そのものの実態を明らかにしようとする試みも、抵抗が多く実現しにくい。
サベジさんの遺族たちは訴訟を起こさず、厚生労働省や日本の精神医療関係者への地道な訴えかけを続けている。2018年、母であるマーサ・サベジさんに筆者が直接尋ねたところ、訴訟を選ばなかった理由は「勝っても、ケリーが生き返るわけではないから」ということであった。「ケリーの死を無駄にしないために、日本の精神医療を良くしたい」という遺族たちの誠実な思い(change.org)は、少しずつではあるが着実に、日本の関係者たちを変えはじめているのではないか。筆者には、そのように感じられる。
さらに2020年1月の日本精神神経学会の新年挨拶に見るとおり、「日本の身体拘束が、このままで良いわけはない」という危機感を表明するのは、精神医療の専門家のごく一部ではなくなってきた。精神障害者を含めて、障害者の生命と人権の価値は、やはり少しずつ引き上げられてきているようだ。
そこに新型コロナ感染症の脅威が加わり、現在に至っている。当初は残念ながら、「精神障害者なら、感染しても治療できない」という状況が存在した。その後、精神障害者のみを対象とした治療の場が設けられているが、国連障害者権利条約にいう「全ての者との平等」には程遠い。
首相や厚生労働大臣の交替に一喜一憂せず、しかしながら、何らかの変化のチャンスであることには注目し、引き続き、成り行きに関心を向け続ける必要がありそうだ。
さて、菅義偉内閣では、第二次安倍内閣で厚生労働大臣を務めた田村憲久氏が再任されている。何が期待できるだろうか。何を警戒すべきだろうか。後編で見てみよう。