菅新内閣は、日本のメンタルヘルスを悪化させ続けた安倍内閣を踏襲するのか

文=みわよしこ
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国連障害者権利条約と日本の違憲訴訟が生み出した「骨格提言」

 骨格提言の背景となっていたのは、2006年に国連が採択した「国連障害者権利条約」、および2010年1月の障害者自立支援法違憲訴訟に関する国と原告らの「基本合意文書」である。「基本合意文書」は、現在も厚労省サイト内にある。

 2007年に施行された障害者自立支援法は、「受益者負担」を原則とし、公的障害福祉サービスを介護保険と同様に有償化する内容であった。このことの問題点を極端な例で示すと、飲食や呼吸に介助の必要な人は、「対価を支払えないのなら、水を飲むことも呼吸することも出来ず、死ぬしかなくなる」ということである。多数の障害当事者が、障害福祉分野で実績ある弁護士の藤岡毅氏をはじめとする法律家らと共に集団違憲訴訟を開始し、2010年1年に厚生労働省との間で和解に至っていた。

 2009年には既に、国連障害者権利条約の締結に向けた国の取り組みが始まっていた。国内法整備などの準備が民主党政権下で進められた後、第二次安倍政権下の2014年1月に締結となった。日本の人権状況は憂慮すべきものであるが、国連の条約群の締結の速さに関しては世界レベルでの“優等生“なのだ。ただし日本は、実行の「やる気スイッチ」を入れる宣言となる選択議定書を、ほぼ全ての人権系条約で締結していない。この事実から「口先だけ」「やるやる詐欺」といった表現を連想するのは、筆者だけではないだろう。

 国連障害者権利条約の目的は、障害者が「他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加」(障害のある人の権利に関する条約 川島聡=長瀬修仮訳)できる状況を締結国に実現させることである。同条約の締結を視野に入れた障害者政策の検討が、当事者抜きに行われることはあり得なかったのだ。

 そして2011年8月、総合福祉部会は、一連の検討を「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言」(以下、骨格提言)として取りまとめた。「障害のない市民との平等と公平」「谷間や空白の解消」「格差の是正」「放置できない社会問題の解決」「本人のニーズにあった支援サービス」「安定した予算の確保」の6点を重点目標とする骨格提言は、現在も厚生労働省サイト内で公開されているのだが、130ページに及ぶ骨格提言の全体を紹介するのは困難だ。

 本連載「メンタルヘルス事件簿」に強く関連する内容としては、まず「放置できない社会問題の解決」で「社会問題」として取り上げられている「わが国では依然として多くの精神障害者が『社会的入院』を続け、知的や重複の障害者等が地域での支援不足による長期施設入所を余儀なくされています」という文言と、それに続く「障害者への介助の大部分を家族に依存している状況」を挙げたい。施設への障害者の収容が減少しない背景のうち最大のものは、障害者の介助が家族任せとなっており、家族自身の健康と生活のために障害者を施設入所させざるを得ないことである。障害者が地域で生活することを前提とした介助体制や、それを支える予算があれば、施設は選択されにくくなる。

 さらに各論を見ると、「精神障害者が地域社会で自立(自律)した生活を営むことができるよう、権利の保障を踏まえた規定を整備する」必要性が述べられている。このことの目的は、「いわゆる社会的入院を解消すること」である。また、「非自発的な入院や入院中の行動制限については、人権制約を伴うものであることから(略)人権保障の観点から第三者機関による監視及び個人救済を含む適切な運用」が必要であり、その費用の国庫負担も必要とされている。この内容は、2014年7月に国連人権委員会の自由権規約委員会が公表した日本政府への統括所見とも共通している。

 加えて、精神障害を理由とした身体疾患の治療拒否も課題となっていた。このため骨格提言は、「『障害を理由とした医療提供の拒否』はあってはなら」ないとしている。その方法として「精神疾患の治療の場を他疾患と同様に一般医療の中に組み込み精神科医療へのアクセス」を容易にすることが挙げられている。

 一応は骨格提言を踏まえ、2012年、障害者総合支援法が制定された(2013年施行)。また、総合福祉部会と同時に開催されていた差別禁止部会の提言に基づき、第二次安倍政権下の2013年、障害者差別解消法が制定された。これに先立ち、2011年には障害者虐待防止法が制定され、民主党政権下の2012年に施行されている。

 骨格提言を踏まえたはずの法や制度は、実のところ内容を実現するものになっていなかったり、換骨奪胎や「つまみ食い」が激しかったりする。民主党政権の足掛け4年間は、時期による姿勢の差が激しい。2012年に入ると、「民主党を名乗る自公政権」と呼ぶべき面も増えていた。

骨抜きにされた「骨格提言」

 換骨奪胎や「つまみ食い」の一例としては、ピアサポート制度を挙げたい。

 骨格提言は、「国は、障害者本人によるピアサポート体制をエンパワメント事業として整備」する必要性を挙げている。障害者の仲間(ピア)が、施設や病院にいる障害者の地域への移行を支援する制度として想定されているのは、「障害者たちのグループ活動、交流の場の提供、障害者本人による自立生活プログラム(ILP)、自立生活体験室、ピアカウンセリング等」である。日本においては1980年代から、障害者自立生活センター(CIL)がこれらの事業を実施してきた。

 ピアサポーターたちは、これらの事業に従事することにより、「地域の障害者のエンパワメントを促進」する。“上から目線”の健常者に、ありがたくエンパワメントしていただくわけではなく、恩恵としてエンパワメントを認めていただくわけでもない。時に、仲間である障害者の権利を守るため、行政と対峙する可能性もある。しかしながら、育成費用や報酬に必要な財源は行政が確保することを求めている。「行政にカネを出させるなら、行政の言うことを聞け」という論理は、少なくとも先進国の民主主義と市民社会のもとでは通用しない。

 しかし、2014年の精神保健福祉法改正に含められた精神障害者ピアサポーター制度は、「似て非なる」というより「非なる」ものである。

 育成の責任は、各地の保健所にある。実際には、(一社)日本メンタルヘルス ピアサポート専門員研修機構に委託されていることが多い。この機構による解説「ピアサポート専門員とは」によれば、「支援のチームの一員として」存在し、「医療や福祉等の専門職集団への不信感が強い方や、将来への希望が持てずに支援を受け入れる気持ちになれない方等、これまで支援困難とされてきた方々との信頼関係」を結びやすくするという。専門家集団による強制や人権侵害、その結果として誰かが「支援困難」になることの責任は、専門家集団にあるはずだ。しかし、その視点はない。

 さらに、「支援者の独り善がり」を防ぎ、サービスの質を向上させるという。しかし筆者には、これらは既存の精神保健福祉や精神医療の「おまけ」「添え物」「調味料」といったものにしか見えない。少なくとも、あくまでも障害者が障害者の中で障害者のために行う、骨格提言にも盛り込まれている本来のピアサポートの姿ではない。

 同機構の解説には、目指す将来像として米国のピアサポート制度も挙げられている。米国のピアサポート制度は骨格提言の内容に近いのだが、米国の障害者自立生活運動、そして米国行政がNPOに対して「口は出すしカネは出すし仕事もしてもらうけど、どう仕事するかには口を出さない」という一般的なスタイルは、この解説からは伝わってこない。ともあれ、ピアサポーター制度はスタートから5年が経過し、良くも悪くも定着した。精神医療等の既存の専門職の中には、なるべく「骨格提言」に描かれた本来の姿での運用を心がけている人々もいる。今となっては、一定の懸念とともに成り行きを気にかけるしかないだろう。

 もちろん、骨格提言のもとで成立した法や制度には、ポジティブな効果として認めるべきことも多い。たとえば、障害統計が国家責任で実施されるようになったのは、これらの法に規定されたからである(ただし精神科病院に関しては、むしろ毎年の公的調査統計(通称:630調査)の後退が目立つ)。

 いずれにしても、骨格提言が文字通りの「骨抜き」となったままであることの打撃は大きい。何よりも危機的なのは、第二次以後の安倍政権下で、障害者福祉と介護保険の統合が“粛々と”進められ、生活保護基準の引き下げや障害年金の支給停止増加など、障害者が安心して地域生活を続ける基盤が根こそぎにされつつあることである。介護報酬の引き下げも続き、障害者福祉を担う介護人材の不足は深刻になる一方だ。日本の数々の障害者自立生活センターは、第二次以後の安倍政権下で、活動の縮小を余儀なくされていることが多い。このため、重度障害者である木村英子氏と舩後靖彦氏は2018年、自ら国政選挙に立候補し、参議院議員となる必要があった。また「『骨格提言』の完全実現を求める大フォーラム」が、2020年も活動を続けている。

 もしも、骨格提言の完全実現が“スピード感をもって”行われていたら、大規模施設は激減し、津久井やまゆり園で障害者殺傷事件が発生することはなかったかもしれない。精神科入院患者は、当時の約30万人から約3万人へと激減していたかもしれない。精神科入院病棟での虐待の被害者や加害者となる人々も減らせていただろう。新型コロナの感染が拡大する中、精神科病院や障害者施設が集団感染の舞台となることも、精神科入院患者が治療を受けにくい状況も発生しなかったはずだ。

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