「家族」だけど家族じゃない。無数の人々の真剣な共同保育『沈没家族』著者・加納土さんインタビュー

文=山本ぽてと
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「音楽と電車が好き(だと思う)」

――保育ノートの引用を読むと、真剣に議論して子どもを育てているのが伝わってくる。すごくまじめですよね。

加納 めっちゃ、まじめです。人の子どもについて真剣に話し合っていて、書いている熱量もすごい。すごく真剣で、ただなんとくそこに参加したわけでもないのだろうなと思うんです。

やはり、最初の方に参加していただめ連のメンバーたちが、ある種インテリで、自分の生きづらさを認識した上で、それを解消するために、いろんな古典を読んでいたり、社会問題について敏感に反応するタイプでした。

同時に、穂子さんが、真剣に本気に話し合うような、場づくりをしたのではないか。自分の意見を押し付けたくないというのが、穂子さんの大前提にあったと思います。

――たしか、共同保育を募集する際のビラにも、土さんについて「音楽と電車が好き(だと思う)」って書いてますもんね。

加納 そうそう、いいですよね。「だと思う」と書く。自分の子どもだけど、もしかしたら嫌いかもしれないもんね、音楽と電車が、という感覚があるんだと思います。

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自分に自信がないし、たいそうな人間でもない。自分が思っていることだけを、子どもが受け取って育つのは怖いと穂子さんは思っていたのでしょう。相対的にいろんな人を見て、その上で子どもが考えてくれる方がいいだろうと。

――幼い土さんが、カセットテープのテープを引き出してイタズラするのを怒っていいのかどうか真剣に話合いをしていた様子が印象的でした。

加納 テープをひっぱっちゃダメという人もいれば、傍観する人もいていい。いろんな考えを、ぼくが受け止めるようにしてほしかったのだと思います。

映画をみたお客さんから、「大人が教えるお箸の使い方が、昼と夜で違うのはツラくないですか?」と聞かれましたが、僕は全然ツラくなかったです。より最適解を選ぶというか、たくさんの選択肢があったのは良かったです。

「子どものことを第一に」なんて関係ない

――沈没家族は、土さんが小学2年生のころに八丈島に引っ越したことで終わります。なぜなのでしょうか?

加納 穂子さんは沈没家族を開かれた場所にしたいと考えていましたが、それと同時に、誰かに来てもらわないとやってられないという切実な理由方があったのだと思います。でも、ぼくが小学2年生になったら、ごはんだって一人で食べられるようになるし、お皿を洗ったりもできるようになりました。

もうひとつ、沈没ハウスがテレビ、新聞、雑誌で取り上げられるようになり、共同保育をやっている人間として見られることに穂子さんの中で違和感があったようです。自分がやりたいのは運動ではなく、楽しい生活なのだと。リーダーのように思われるのも面倒くさい。

彼女は自然のあるところがもともと好きで、海があって、温泉があって、焼酎が飲めるところに行きたいと。子どもがどうこうではないんです。彼女の生きたいように生きる。

――いいですね。自分が行きたいから行くと。

加納 母親は、特にシングルマザーは子どものことを第一に考えなければいけない、という規範は今でもありますよね。そもそも思い立って八丈島に行っちゃうこと自体がすごいと思いますけど。

すべての子育ては人体実験

――映画「沈没家族」を観た方たちの感想には、「励まされた」というものもあったようですね。

加納 子どもについて全部自分が考えなければいけないわけではなく、誰かに頼る選択をしてもいいんだと。その点で励まされたと感想をいただきました。

あるいは、シェアハウスで育児をしている人たちとも出会いました。自分たちが楽しいと思ってやっているけど、今育っている2、3歳の子どもたちが、大人になった時にこの環境をどう思うのか心配があったそうです。でも、そんな環境で育ったぼくが、のほほんと生きている。特殊な家族を大人が楽しいからやっている人たちにとっては、この路線でいきましょうかと励まされたと。

――大人の「楽しい」から始めても、子は育つのだと。沈没家族で育った二人が、そこで過ごした感想について、語るシーンがありますよね。「悪くないんじゃない?」という感じが印象的でした。

加納 沈没家族で一緒に育っためぐと話をした時に、「これが全てだ」とか「最高!」と言うわけでもなく、「悪くないんじゃない?」と言っていました。それは、自分たちにとって、当たり前の環境だったからともいえます。比較対象がないから。

ただ、もしかしたら、自分がこれから家族ができたりしたときに、最高と思うのかはわからない。先のことは決めつけたくないので。でも、今のところは悪くないかなと思っています。

沈没家族で育ったことによって、今の自分にどんな影響があると思いますか? とよく聞かれますが、わかりません、と答えます。沈没だけで自分たちが構成されているわけでもない。八丈島での生活や、山くんと過ごした週末の時間もあったりして、今の自分が出来ていると思います。沈没によって自分がどうなったか、答え合わせをしたいと言いつつ、わからないよなぁ、というのが正直なところです。

やっぱり「悪くないんじゃない?」って、感覚が一番実感を伴っているんじゃないかな。沈没によって自分がどう育ったか、過度に最高とか最悪とか思いすぎると、それに今を生きている自分が規定されるのは嫌だなぁと。

映画のトークゲストとして来てくれたアーサー・ビナードさんが、「映画の中でめぐさんと自分たちのことを人体実験と呼んでいるけれど、僕はすべての子育ては人体実験だと思うんだよね」とおっしゃっていました。

たしかに、そうだよなと思いましたね。沈没が特殊な形態のように見えるけど、普通の父親がいて母親がいてという状態であっても、それが子どもにとって辛い可能性もあるかもしれないし。どう育つかなんて全然わかんないですから。

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