優生思想の何がどういけないかを知ることは難しくない。障害者家族の「セルフケア」について考える、“感動ポルノ”ではないエンタメ群

文=今 祥枝
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(※本稿の初出は『yomyom vol.64』(新潮社)です)

優生思想は何がどういけないのか

 7月27日に石原慎太郎が、「業病(ごうびょう)のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で『殺害』容疑で起訴された」などとTwitterに投稿した。ALSに対して、前世の悪業(あくごう)の報いでかかるとされた難病を意味する業病などという言葉を使うとは。

 その少し前、RADWIMPSの野田洋次郎が、藤井聡太棋聖が史上最年少でタイトルを獲得したことを受けて、「前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。お父さんはそう思ってる #個人の見解です」などと投稿したという。私はこれらの投稿をネットのニュースで知ったので、前後の文脈などは知らない。

 いずれも大変な問題発言であり、忌むべき優生思想だとして批判・非難の的となり炎上案件となったのは当然のことだろう。私自身はあきれるというより恐ろしくてたまらない。こうした発想がSNS上の発言には本当に多い。私がTwitterから遠のいた理由は複数あるのだが、一番は不用意に目にしてしまう言葉の暴力にぶん殴られることに耐えられなくなったからだ。

 私には重度の知的障害を持つ弟がいる。だから優生思想や「生産性がない」云々といった件には、怒りで我を忘れるほど頭に血がのぼることもある。かと思えば、もう全てが嫌になって全世界をシャットアウトしたい、と精神の引きこもりとなることも少なくない。特に2016年の相模原障害者施設やまゆり園の殺傷事件以降、これほど多くの人々が犯人の考えに多かれ少なかれ賛同しているのか。そう実感することが格段に増えて、人生で最もネガティブな心境に陥ったまま完全には這い上がれていない。

 もちろん悲劇のヒロインぶるつもりはない。世の中にはこの事件と向き合い、闘っている人たちがたくさんいることはわかっている。いまだこの問題にちゃんと向き合えていない自分に、一体何年障害者の家族をやっているのか。そんな苛立ちと失望を覚えて悲しくなることもある。ここでいう闘うというのは、Twitterをやるやらないとは関係ないことだけれど。

 優生思想の何がどういけないのかを知るために、別に難しい勉強をする必要はない。映画ファンならナチスドイツ関連の作品などで、しばしば遭遇してきた問題だ。例えば『善き人のためのソナタ』のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の『ある画家の数奇な運命』(10月2日公開)。現代美術家のゲルハルト・リヒターをモデルにしたドイツ映画で、ナチスドイツで精神障害者や身体障害者に対して行われた強制的な安楽死政策を扱っている。安楽死政策はのちにホロコーストへとつながっていく。

 序盤で美術の道に進む主人公クルトは少年時代に、ナチ政権下のドイツで芸術を愛する叔母エリザベトが精神のバランスをくずし、安楽死政策によって殺されてしまう。このことはクルトに大きな影響を与え、クルトは叔母の言葉「真実はすべて美しい」を信じて逃亡した西ドイツで自分のアートを追求し続ける。その過程で美術学校で出会い恋に落ちたエリーの父で元ナチ高官(エリザベトを死に追いやった張本人)が、クルトと娘に対してとったある行動は、優生思想の何が問題なのかを実にわかりやすく示すものであり、この現代にこうした思想に基づく発言を多く目にすることに危機感を覚える。

 絶対にあってはならないことだが、もしも優生思想に基づく政策が敷かれれば、愛する人や家族がターゲットになる可能性があるということを痛みをもって感じられる映画だ。エンターテインメント作品を通じて、こうした題材に繰り返し触れるという経験は大事なことだと思う。

 ちなみに、アメリカが発祥で、欧米で使われているチャレンジド(The Challenged)という言葉をご存知だろうか。ハンディキャップトやディスエイブルドに代えて、障害を持つ人々をポジティブに捉える言葉だ。ちょうど『Challenged チャレンジド』という知的障害者に寄り添う日本のドキュメンタリー映画が公開中で、日本でも以前からこの表現を提唱する向きはあったが、一般的にはほとんど浸透していない。

 もっとも私自身、障害者という表記にはネガティブなイメージを抱かせるものがあるとは思うのだが、そこまで真剣に考えたことがなかった。だが海外作品でこうした言葉が使われていたりすると、なるほどと考えさせられることもある。東京パラリンピックの公式サイトでは「障がい者」と表記されているが、障害者側から「がい」と表記することへの異議も出ている。パラリンピックを控えた日本でこそ、今一度「障害者」という言葉を見直す機会や議論があっても良いのではないだろうか。

障害者を題材にしたエンタメへの不安

 当事者の家族として知的障害者及び身体障害者を題材にした娯楽については、積極的に論じにくいというのが正直なところだ。まずこの手のフィクション(特に日本の映像作品)には最初から臨戦態勢で挑むため、ちょっとでも感動と泣きのためのツールとして障害という設定が使われていると感じられたのなら、それが実話であっても拒絶反応が起こる。よくそれらを指して批判的に使われる“感動ポルノ”という言葉は好きではないのだが、障害者がことさら人徳者だったり絵空事な美談だったり、家族の犠牲を美徳として涙を搾り取ろうとする作品には憎しみすら覚える。結局は真剣に向き合っているわけじゃなくて、「かわいそう」と見下して泣きたいだけなんじゃないのといった被害者意識とでもいうか。

 また、フィクションにおいて知的障害者というとサヴァン症候群やアスペルガー症候群、高機能自閉症と呼ばれる人々が主人公となることが多い点も気になる。最近だと韓国の同名ドラマでアメリカ版や日本版も作られた医療ドラマ「グッド・ドクター」などが一例だ。

 韓国版、アメリカ版「グッド・ドクター名医の条件」(2017〜・U-NEXTほか)ともに良心的な作りだと思う。主人公は「自閉症でサヴァン症候群」という設定で、あくまでも心底悪人が登場しないフィールグッドドラマでありつつ、現実的な苦さもあるし、何より彼を支える周囲の人々の理解と寛容さが尊い。しかし私からすると娯楽作品に登場する知的障害者は、ある一つのことに関しては非常に高い知能を発揮しているところにいつも引っかかってしまう。

 知的障害に特異な能力が伴うケースがあるのは、科学的な根拠もある。ただ、「グッド・ドクター」の主人公は様々な不便があるとしても意思の疎通はできるし、自立もできるし手術だって可能なレベル。そんなことができるなら、もう十分じゃないか、どこが障害なのか。ついそう思ってしまう。障害の程度を比べるなんて、本当に下(げ)衆(す)な行為で自分に嫌気がさすことはなはだしいのだが、特殊な能力がなければ価値がないと言われているようで、どうしようもなく悲しくなってしまうのだ。これは全障害者の家族を代弁するものではなく、あくまでも私個人の意見である。以降は自分の経験や考えに基づき、このところ立て続けに出会った心を動かされた作品についてみていきたいと思う。

障害者の家族のつらさはどこにあるのか

 近年は障害者がテーマではない娯楽作で障害を持つ俳優がキャスティングされることも増え、キャラクターとして障害者が有機的に物語に関わる作品も増えた。今年リリースされた新作ドラマ「リトル・ヴォイス」(Apple TV+)には自閉症スペクトラム、「私の“初めて”日記」(Netflix)はダウン症の俳優が、素晴らしいキャラクターを生き生きと演じている。

 どちらも良作だが、私にとっては彼らの姉や兄の描写がツボだった。少しでも誰かが弟や妹をばかにしたような空気を感じただけで、キッとした表情で臨戦態勢になる。その瞬間のリアルさに、めちゃくちゃ共感を覚えた。それでふと気がついたことがある。自分がわがままを言っているようで後ろめたさを感じつつ、私は家族、特に兄弟姉妹=自分の立ち場の人々の描写にこれまで納得がいっていなかった。もっと自分たちの声も聞いて欲しい、リアルに描いて欲しいと思っていたのだ。

 そんな自分の思いを痛感したのが、マーク・ラファロが一人二役で双子を演じ分けるHBOの秀作「ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー」(2020・スターチャンネルで放送中)だ。

 妄想型統合失調症の兄トーマスの面倒を見る弟ドミニクを主人公にした、ウォーリー・ラムのベストセラー小説を映像化したミニシリーズ。精神疾患を扱っているが、このドミニクが自己犠牲の極みで自分の人生を投げ打ってでも徹底して兄を守ろうとする姿に、これこそが障害者を持つ家族のリアルな感情なのではないかと私には思えるものがあった。

 ドラマは症状が悪化した現在のトーマスと疾患を発症する前のトーマスを交互に描くことによって、この病気がいかに人間性を奪うものであるのかを、残酷なまでに伝えている。同時にドミニクが、なぜ自らを罰するかのように、すべてを一人で抱えてしまうのか。その過程が時間軸を前後しながら明かされていく。ドラマチックではあるのだが、あまりにも過酷で目を背けたくなるようなエピソードも少なくない。

 私がひどく悲しかったのはドミニクがトーマスに対してもっとできたことがあったのではないかと、自分を責め続けている姿だ。例えば大学時代の自分はガールフレンドに夢中でトーマスを見捨てたのではないかといった罪悪感は、はたから見ればどうしようもないことに思える。ドミニクにはドミニクの人生があって当然だ。だがそうした責め苦を進んで負ってしまう障害者の家族の心情というものを切実に伝えている。このドミニクの責任感は、亡き母による「トーマスの面倒を見てくれ」との遺言によってさらに強化される。彼女なりに子供を守ろうとした親心だが、ドミニクにとっての呪縛になってしまう。ドミニクからすれば母親を責めることは絶対にできないだろうと思うと、余計に辛い。

 私はもちろんドミニクほどの悲惨な体験はしていないし、好き勝手に生きてきたと思う。そのことに後ろめたさもある。ただ子供の頃から、絶対に自分のことをかわいそうだとか、障害を持つ兄弟がいるから不幸だとか大変だとか思ったらいけない、いつでも胸を張って、毅然として、道端や電車や店や外でじろじろ見られても、そうした相手の方を憐むべしと思ってきた。障害を持つ子供は誰の子供でもあり得るし、何も恐れることもましてや恥じることもないと信じて疑わなかった。

 というか、そう考えるように何度も自分に言い聞かせていた。少しでも「なんで私が……」と思ったら負け。そう思うこと自体が、母親にとっての尊厳を傷つける行為であって、もっと私ががんばらなくては、と。自分の頑張りは他の障害者の兄弟に比べても足りない気がいつもしている。でもドミニクの傷ついた姿に、本当は自分も傷ついていたんだなあ、悲しいなあと、今頃になって認めることができた。初めて素直にそう思って思いっきり泣くことができた。体重を増減して臨んだラファロの渾身の役作りもあいまって、あまりにも悲しすぎる描写が多いので、ちょっとすぐに2度目を見る気力はわいてこないのだが、とかくクローズドになりがちな、特に中高年になった障害者と高齢化した家族の問題に踏み込んでいる点もリアルに感じられるものがあった。

 つい悲観的で皮肉っぽくなってしまう私に、大きな励ましとなり、珍しく素直に感動を覚えたのが『スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話』(2019・公開中)というフランス映画だ。

 施設や病院から見放された自閉症の青少年を支援する団体〈正義の声〉を運営するブリュノと、社会からドロップアウトして居場所がない若者たちを支援し、〈正義の声〉で働けるよう教育する団体〈寄港〉を運営するマリク。〈正義の声〉が無認可・赤字経営であることから閉鎖の危機が迫る中、奔走するブリュノと友人マリクの奮闘が描かれる。『最強のふたり』(2011)の監督コンビの新作だが、不思議なほどあざとさがなく感動も涙の押し売りもないのにエンターテインメントとして成立している。

 この2人に実在のモデルがいるということにも驚くのだが、この作品には実際の自閉症の青少年や障害者の家族らが出演している。それも含めて、すべてがとてもリアルなのだ。

 私は最初、頭を壁に打ち付け自傷したり、目を離すととっぴょうしもない行動をとる子供たちの姿に、小さい頃は特に多動で一瞬もじっとしていられない弟のことが重なった。そうそう、本当に大変なんだよなあと、ブリュノとマリクたちのいっときも気の休まらない感じがよくわかった。

 小学校や中学校時代には毎朝同じ小学校の特殊学級に通う5歳下の弟を集団登校で連れていったのだが、横断歩道で固まってしまって突然動かなくなったり、弟が学校の全校朝礼でいつ突然声をあげたり手を叩いたりするかと緊張していたことを思い出した。そんなに辛い思い出ではなく、近所の体の大きな同級生の女子はいつも弟をひょいと持ち上げて横断歩道を渡らせてくれた。同級生の男子たちは、子供らしい正義感からなのかよくかばってくれた。中学校では不良とみなされていた茶髪だったりスカートが長かったりする見た目は怖い女子集団が、なぜか私にはとても優しかった。お前の弟はばかなどと言ってくる子もいたが、お前の方がばかだよーんぐらいな気持ちだったし、そういう自分が正しいと思わせてくれる環境があった。

世界は敵じゃない、と教えてくれる

 『スペシャルズ!』のブリュノやマリクとそこで働く若者たちの姿は、そんなふうに「世界は敵じゃない」という感覚を思い出させてくれた。そしてどんなに扱いが困難で重症の子供でも絶対に断らない、絶対に見捨てない。自分が死んだ後に子供はどうなるのかと絶望する親や、施設が閉鎖したらどうすればいいのかと途方に暮れる兄弟姉妹たちに寄り添う。世の中にはこんな人たちが実際にいるんだと思ったら、孤独や孤立感が少しでも薄れる人たちはきっとたくさんいると思う。私は、今更ながらに自ら孤立していたのかも、となんだか気が抜けて、そういう自分の閉ざされた内向きな考えを見直そうと思った。ハリネズミみたいに傷つけられまいと身構え続けるのは疲れる。そうした疲れた家族に、ブリュノたちは大丈夫だから一緒に頑張ろうと言ってくれているようにも思える。

 何よりも主演の2人はフランスの人気俳優だが、彼らは本当の障害者と家族とともに作品を作り上げたのだ。現場はさぞかし大変だったろう。思い通りにいかない相手と一本の映画を作る。この映画制作自体が真の意味での多様性を実現するものなのだ。日本は電車に乗るベビーカーぐらいで非難される世の中なのだし、障害者が例えばレジで時間がかかったり、電車で大声をあげていたりといったことがあったら、きっとフランスでも白い目で見られることもあるだろう。あらゆる意味での多様性が実現した社会とは、どんなものなのか──想像すると、多様性とは簡単に口に出せる言葉ではない。

 「ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー」と『スペシャルズ!』に共通するテーマとして、セルフケアがあげられる。精神疾患の兄のために自己犠牲をいとわないドミニク、自閉症とその家族はもちろん、自分の幸せより彼らのために生きようとするブリュノ。どちらの作品も、障害者とその家族の厳しいリアルを描きながら、同時にもっと自分を大事にして、少し力を抜いても大丈夫なんだ、責任を感じすぎないでと言っている。それは私にとって、とてつもなくやさしくて重要なメッセージだ。

 そんな時、ふと見そびれていた「クィア・アイ」のシーズン5を見た。当初は大好きなシリーズだったが、“ありのままの自分”といったテーマが繰り返されることに少し疲れたなと思って見ていなかった。でもシーズン5では、家族や他人のために頑張りすぎている人たちのセルフケアが過去のどのシーズンよりもテーマとして際立っていた。“ありのままの自分”を支える人たちや、病気や障害を持つ人の家族の頑張りが当然だとされてしまうことに目を向ける。それは本当にすごいことだと思う。やっぱり素晴らしいシリーズだなと、今更ながらに感心したのだった。

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